黙認 エングラブ管財庁長官の話
「エングラブ長官、大変申し訳ございませんがこちらを御確認下さい」
管財庁長官室のドアを遠慮がちにノックして入室したマクヘルジェ補佐官は、いつもの堅い表情を更に硬くして私にその書類を手渡した。
表紙には「北方伯領 大峡谷領地税査定表 税率査定官マサ・ヒューシャン」と書かれてある。 査定表は場所と査定官の名前が違うだけで、ここでは毎日見慣れた物だ。
ページをめくれば型通りの項目と「認め」のサインをした者達の名前と役職名が明記されている。 ざっと目を通したが何も変わった所はない。 次のページに記載されている領地の名、測量概算、住民概算、主要産物要約も簡潔で、問題があるようには見えない。 一番下に、まるで恥じらうかのように記された一行がなければ私の手元に届く事さえなかっただろう。
「領地税査定額 千ルーク」
ぐうっと思わず声にならない呻き声が漏れた。 うんざり、と俗な一言で言い表してよいものかは分からぬが、それに近い気持ちが湧き上がる。
さて、どうしたものか。 ちら、とマクヘルジェ補佐官を見た。 有能な事務官であるだけに、この数字に絡む政治的な思惑を素早く読み取り、自分で決裁するには大きすぎると判断し、私の指示を仰ぐ事にしたのだろう。
子供の飴玉を買うのでもあるまいし、領地税が千ルークなど余りに低い数字で話にならない。 と、ここで私が差し戻すのは容易い。 だがそれをしてしまっては後戻りは不可能となる。 ここに一万や十万などと言う端金を書き加えたら世間の物笑いの種となろう。 管財庁長官ともあろう者が増額修正を指示するのなら最低でも百万以上でなければなるまい。
そもそも大峡谷の産物は全て北方伯家の物となった。 通行料や獲物に対する課税権を考慮するなら一千万にしても不当ではない。 北方伯領は大峡谷の西端に位置するデュガン侯爵領とは地続きではないし、領地の大部分を占めるのがウェイザダ山脈だ。 広さで単純比較する訳にはいかないが、北方伯領の十分の一もないデュガン侯爵領でさえ領地税は百万ルーク払っている。
北の査定官なら六頭殺しのファンだろう。 この数字になった事は驚くにはあたらないが、北の査定部部長はこの書類を中央査定部第五課に提出する事になっている。 第五課係長はこれを課長に、課長はベカデシュ伯爵領総括部長に、ベカデシュはエルメイガ中央査定部総本部長に提出する。 つまりその全員がこの数字を看過したのでなければ、マクヘルジェがこの査定表を私に手渡す事はない。
エルメイガに何か北方伯家へ繋がるものがあっただろうか? 私の直属の部下はなるべく玉虫色の者を選んでいる。 とは言え、エルメイガは伯爵だし、妻はクルカニ侯爵令嬢だから姻戚関係や政治の思惑がないはずはないが。 そんな事を言い始めたら切りがない。
それに最終決定したのはエルメイガでも、この査定がこれ程の短期間で私の手元に届くには部下全員が即決し、異議を挟まなかったのでなければあり得ない事。 ヴィジャヤン派閥はいつの間にそれ程影響力を拡大していた? 私が知らなかっただけの話、なのか?
ともかく提出された査定額の五割以上の変更がある時は修正をした者の上司の承認が要る。 マクヘルジェ補佐官が数字を修正する場合、私の認めサインがないと有効にならない。 つまり私が増額しろと言ったも同然となる。
北方伯は皇寵を戴いているのだ。 私が増額した所で当然陛下に減額を陳情するだろう。 陛下のお言葉があれば元の査定額に戻されて終わる。 なのに私が増額しろと言った事を根に持たれ、北方伯やヴィジャヤン派閥に反目されては面白くない。 書類の流れは全て記録されている。 仮に一番下まで差し戻して再提出させたとしても私が変更を指示した事は明らかだ。
ならば変えずに黙認する? この数字は早速上級貴族全員の知る所となろう。 それはどう受け止められるか?
非難の嵐が巻き起こるか見過ごされるか。 領地税は公表こそされていないものの、誰がいくら払っているかは周知の事実だ。 この数字をこのまま通過させれば依怙贔屓も度が過ぎる、と相当数の上級貴族から不公平を是正する要求が出る事は想像に難くない。 だがそれは相手が普通の伯爵だったなら、だ。
北方伯を他の伯爵と同列にする訳にはいかない。 皇国の英雄として不動の人気がある事は疑いないのだから。 しかしその人気は無税を笑って看過する程なのか?
皇寵はあるが、皇寵があるから他の貴族にも好かれていると決まった訳ではない。 それどころか歴史を紐解けば皇寵ありし者は恐れられ、嫌われた。 そちらの方が普通なのだ。 皇寵がある故に傍若無人な振る舞いをし、それが原因で皇王陛下の譲位が早まった例さえある。
ただ私が知る限り、反ヴィジャヤン派と呼ぶに値する勢力は今の所存在しない。 つまり無税に抗議する貴族はいないか、いたとしても少数だ。 と言っても千ルークはないだろう? そんな査定を通過させたら私がヴィジャヤン派となったと受け取られる。 では税額を変えるのか?
いくらに変えればよいのだ? 言い方を変えれば、いくらまでならヴィジャヤン派を怒らせずに済むのか?
管財庁は宰相庁と並ぶ重要な皇王陛下直属組織で、組織上、私の上司はブリアネク宰相となっているが、金の動きを管理するだけに治世の中枢と言うべきもの。 特に徴税部はそれだけで五千人の部下を擁する巨大組織で皇国中に支部がある。 畏れ多いながら陛下に私が直接答申する事も多い。
もし何らかの理由でブリアネク宰相が失脚すれば、次の宰相となるのは私だろう。 ヴィジャヤン準公爵は何度宰相となるよう要請されても断り続けていると聞く。 だがここで私が下手な動きを見せればせっかくの宰相の席をふいにする。
僅か三年前には考えられもしなかったが。 現在の皇国最大派閥は疑いも無くヴィジャヤンだ。 それ以前はデュガン、ブリアネク、カイザー、ダンホフ、プラドナ、ヘルセス、マレーカ、サハラン、そして私、と派閥の数が多いだけに、どの派閥も絶対多数を掴むにはどこかの派閥と協力せねばならなかった。
中立でもマッギニスのような侮り難い勢力もあるし、中小派閥なら更に数えきれない程ある。 それらは事情や事件次第で、すり寄ったり離れたりしていた。
ここ何十年と、その政治状況に大した変化はなかったのだが、今ではヴィジャヤン派とそれ以外、となっている。 それ以外を全部合わせてもヴィジャヤン派閥には数でも質でも対抗出来ない。 その為、それ以外の派閥内に力を合わせようとする動きはない。
ふと、セジャーナ皇太子殿下主催の舞踏会を思い出した。 北方伯夫妻が早々に退出した事が伝わると、会場内には静かな、しかし間違え様もない失望のさざ波が広がっていった事を。
間もなくサルジオルキ筆頭女官の降格が知れ渡った。 何でも北方伯夫妻が宿泊の御予定を急遽変更なさったのは、サルジオルキ筆頭女官がお連れになった愛犬に嫌がらせした事が原因なのだとか。 それを聞いた私の娘は、それなら降格は当然ですわね、と言っていた。
娘は皇太子妃殿下の覚え目出度く、普段よりお茶や観劇会への御招待戴いている。 当然サルジオルキ筆頭女官とも親しかった。 けれど娘は北方伯と踊る機会を狙っており、それがふいになった事は、サルジオルキ筆頭女官への親しみを一掃してしまう程の悔しさだったようで。
私の妻でさえ娘に同意している。 彼女まで北方伯と踊る機会を狙っていたのではないか。 年を考えろと言いたいが、私自身も北方伯夫人と踊る事を狙っていたから余計な事を言ったりはしなかった。
お出迎えが機縁で皇王妃陛下は北方伯に肩入れなさっているという噂もある。 先代皇王妃陛下の北方伯熱は知る人ぞ知る、だ。 ハーブストが筆頭女官になった事といい、ダンホフの娘が女官として出仕した事といい、北方伯には陛下の皇寵があるだけではない。 おそらく既に後宮を完全に掌握しているのだ。 ううむ。
多くを語らず、私は査定表をマクヘルジェ補佐官に戻した。
「黙認せよ」




