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弓と剣  作者: 淳A
零れ話 I
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見送り  サハラン近衛将軍夫人の話

 外見通りの堅固な守りを誇る近衛将軍邸を退官と同時に明け渡し、私達夫婦は皇都郊外にある私のお気に入りの邸へと移った。 瀟酒な邸内には旦那様が夫婦二人だけの内密のお話をなさる時お使いになる寛いだ部屋がある。 早春の息吹きが感じられる中庭に面したその部屋で、旦那様が静かにおっしゃった。

「秋に先代陛下の供として南へと旅立つ。 

 ティセンシ。 其方にだけは言っておこう。 帰る事はない。 待たぬ様に」


 そのお言葉を自分がどんな顔をして受け止めたのか分からない。 旦那様を責めるつもりなど少しもない。 なのに私の目に映る旦那様の済まなそうなお顔。 たぶん私が情けない顔をお見せしているからだろう。


 去年、陛下の御譲位に向けて準備が始まった頃、旦那様は新皇王陛下の戴冠式が終わり次第、近衛将軍より退官する事を私にお知らせ下さった。 今は毎日忙しいけれど、いずれ旦那様が退官なさったら夫婦水入らずで庭をいじったり、一緒の旅を楽しめるはず、とその日を密かに心待ちにしていた私にとって、それはとても喜ばしい知らせだった。

 公の行事に押され楽しむ事の出来ずにいたあれこれ。 ようやくその日がもうすぐ訪れる。 そう考えた私はいそいそと将軍邸から引っ越す準備を始めた。 旦那様の余りに若過ぎる退官をまず不思議に思うべきであったのに。


 呑気な私でさえ間もなく何かおかしい事に気が付いた。 旦那様は御自分のお気に入りであるサハラン領にある邸や馬を全て手放され、お身の回りを世話する奉公人にお暇を出し始めたのに、私のお気に入りであるこの皇都郊外の邸を手放そうとはなさらない。 この邸を中心に私に仕える奉公人や私物の類を集められた。 なぜかその中に旦那様の持ち物が一つもない。

 準備は着々と進んでいく。 私が管理に煩わされる事なく快適に暮らせるよう、財務管理人と総務担当の者が新たに雇われた。

 退官なさるだけなら財産や身辺整理をなさる必要はない。 夫婦で気ままな旅に出るおつもりなら、なぜ私の分だけお残しになるのか? もしや旦那様は長い、いえ、帰らぬ旅の御準備をなさっていらっしゃる? そしておそらく、私をお連れになるお気持ちはない。


 どういうおつもりなのか、お伺いしてもよかった。 何でもかんでも教えて下さる訳ではなくとも、旦那様が私に嘘をつかれたことは一度もない。 言えない事には聞かないでくれとおっしゃる。 ただこれに関しては、聞けば返って来るのはおそらく私が聞きたくない類の答え。

 その予感に胸を苛まれ、結局何もお伺い出来ずにいた。 最後の最後で御出発の御予定を変更なさらないものでもない、と。 一縷の望みを本気で信じていたとは言えないけれど、縋る気持ちは捨てきれず。 そしてとうとう今日。 旦那様からはっきり申し渡される事となった。


 上級貴族の結婚は家の都合が優先されるものであり、旦那様と私の結婚も例外ではない。 それでも結婚して二十五年。 あっと言う間に過ぎ去った心地がするのは幸せな日々であればこそ。


 私はアイデリエデン第三王子の次女として生まれた。 アイデリエデンの王制は少々変わっていて、血筋や長幼の順を重視しない。 能力さえ認められれば庶子だろうと第三王子だろうと将来国王になる可能性がある。 それは同時に二十三人いる他の王子の誰に対しても言える事。

 王女とは言っても私は百人以上いる王女の一人でしかない。 自国でさえ私の顔と名前を知っているのは王族と上級貴族に限られる。 私の父が王位を継ぐ事は無かったから、高貴な生まれと自慢する程の出自ではない。 殿下と呼ばれる御方が何人もいらっしゃらない皇国とは違う。

 言ってしまえば皇国の公侯爵令嬢と似た様なもの。 だから私と公爵家正嫡子である旦那様に位の違いはないと言ってよい。


 なのに旦那様ったら。 新婚の頃を思い出すと今でもおかしくなる。 私の事をそれはそれは大事にされて様々な所にお気遣い戴いた。

 誰からかアイデリエデンでは夫は愛の証に妻に花を贈るものと聞いてきたらしく、旦那様は毎朝庭に行かれ私のために花を摘んで下さった。 今思えばおそらくそれはヴィジャヤン準公爵のからかいを込めた入れ知恵だったのだろう。


 冬になる前、旦那様は心配そうなお顔で、冬の間は切り花を買っても許してもらえるだろうか、とお訊ねになった。 なんと妻に捧げる花は手摘みのものでなければならないと思っていらしたのだ。

 確かにそのような習慣はあるけれど、それは結婚記念日とか特別な日に行われる事であって、毎日やる夫はいない。

 喜んで花を受け取るばかりで何も気付かなかった私も呑気に過ぎた。 アイデリエデンでもあるまいし、ここは放っておいても年中花が育つ気候ではない。 改めてお訊ねすると、庭に花をきらさぬよう、庭師が来て花を植えていた事を旦那様が照れながら教えて下さった。


 旦那様は剣豪として名を知られ、見事な体格でいらっしゃるからか豪放磊落な性格と見られがち。 けれどこのようなとても行き届いたお気遣いをなさる御方なのだ。 御自分には厳しくありながら私には大変お優しい。 皇国の習慣を何も知らぬ至らぬ妻であったと言うのに。

 故郷を離れさぞかし寂しかろう私の気晴らしになれば、とお忙しい公務の合間に様々な所へ連れて行って戴いた。 どこも普段旦那様が行かれる事のない場所で、中には御自分でも初めてという所もあった程。

 不安な気持ちで故国を旅立ったのが嘘のよう。 旦那様のような素敵な夫に巡り会えた嬉しさで幸せな毎日だった。


 妻といえども私が旦那様を独り占め出来た訳ではない。 とは言え、それはどの上級貴族の夫人にも共通の事。 私に限った事でもなく。

 家族、友人、部下、そして何より陛下に頼られ愛されて、旦那様は休む間もなく常に大忙しでいらした。 私自身、忙しくなかった訳でもない。 娘も二人授かったし、子育ての傍ら皇国内で様々な不運に襲われた女性を助けるようになった。

 これは旦那様の御友人、サキ・ヴィジャヤン伯爵にある若い女性の後見役を頼まれた事が切っ掛けだ。 数多いる貴族の中には身分を笠に着て、女性を粗末に扱う不届き者、国外からの王族で無体を働く者がいると言う。 全ての女性を救う事など出来ないにしても、縁あって頼まれたのなら出来るだけの事をしてあげたいと思ったのだ。


 旦那様は将来の近衛将軍と見なされていたから、マルナ・サハラン大隊長夫人という身分はそれだけで普通の近衛軍人の妻とは言えない影響力があり、私の助けは予想外の効果を齎した。 それは嬉しい事ではあったけれど、私まで皇国中を飛び回る事になった。 旦那様と擦れ違う事が多くなり、一ヶ月や二ヶ月互いの顔を見る事も無く過ごす事も珍しくはない有様。

 でも家でただじっと旦那様のお帰りを待っていたら、待てば待つ程つらさが増す様な心地がした。 それより人を助けた方が充実していたし、それが縁で実の娘同様に私を慕ってくれる娘が何人も出来た。


 その一人、カエ・シューウィッチは後に近衛兵士のウォル・チェイカと結婚した。 チェイカは一月に行われた皇太子殿下婚約式で警備のお役目を戴いたのだとか。 先日カエが邸に遊びに訪れた際、どうか御内密にと言いながら、北方伯の言い間違いを教えてくれた。

「父が無念の涙を流した所を初めて見ました」

 カエの言葉に、シューウィッチには気の毒だけれど、どうにも笑いが止められなかった。 旦那様も「不届きな娘」を聞いて大笑いなさった。

「道理で祝儀を持って行った時にサキが微妙な顔をしていた」


 その後北方伯が咎められたという話は聞いていないからうまく誤魔化せたのだろう。 皇都で暮らしていればこのように邸を訪ねて来てくれる数多の友人がいる。 結婚当初は夫以外頼る者は誰もいなかった私だけれど家族も増えた。

 今では二人の娘にはそれぞれ二人の子供が授かり、合計四人の孫もいる。 私の幸せを考えて残る様に、とおっしゃるその思いやりを有難いとも思う。 それでも、どうしてまず私の気持ちを聞いては下さらなかったのか、と恨まずにはいられない。


 泣き言は言うまい。 実を言えば驚いてさえいない。 私は心のどこかで、いつかこんな日が来るのでは、と予想していたのではないかと思う。

 登城の折り、時々ふと感じた陛下の視線。 あれは紛れもなく私への嫉妬だった。

 陛下が感情を面に出されるなど滅多にないだけに余計際立ち、私の胸に突き刺さった。 単なる幼なじみへの親愛の情からあのような視線は生まれない。


 どうやらいつか二人きりで、と夢見たのは私ばかりではないらしい。 どうにもならない様々なしがらみがある陛下こそ強く願われたのだろう。 私が他国の王女であると言う事もあるけれど、仮に私が死んだとしても近衛将軍を常にお側に侍らせる事など陛下であろうと出来たはずはない。

 とは言え、旦那様は常に全身全霊をもって陛下にお仕え申し上げていた。 陛下のお側にいない時であろうと旦那様のお心が陛下から離れた事がたとえ一時でもあったとは思わない。 それ程、旦那様を我が物にしていらしたというのに。 人とはかくも欲深きもの。 


 振り返ってみれば誰にも、そう私の心の中にも、その同じ欲深さを見る。 長年妻として旦那様のお側で過ごし慈しんで戴いた。 にも拘らず、私には旦那様の不在の方がその理由と共にはっきりと思い出せる。 お仕事、御友人、部下や親戚であった事もあるけれど、一番多かったのが陛下からのお呼び出し。

 私の方こそ嫉妬した。 でも旦那様に何かを言ったり、引き止めたりした事はない。 旦那様の瞳に浮かぶ喜びを見ては、そのような事、出来るはずもなかった。


 そして今。 旦那様は子供の様に浮かれて旅立ちの御準備をなさっている。 陛下が生まれて初めて海を御覧になると言う。 それは遠慮せねばならぬ世間への別れ。 

 嬉しくないはずはない。 たとえその別れが妻子や友人を含むものであってさえ。 想いとは止められぬもの。


 海よ。

 愛する夫の瞳に映るのは波の煌めき。

 それともお側で寛がれる尊き御方の喜びか。


 お幸せに、と祈る気持ちに嘘はない。

 爽やかな初秋の佳き日、今生の別れと知りつつ見送る私が旦那様に見せる微笑みは、細やかなはなむけ


 私の愛のあかし


「零れ話」の章、終わります。

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