誘拐未遂
的場で弓の稽古をしていたら、うわあ、という叫び声が遠くで上がったのが聞こえたから何だろうとは思ったけど、丁度乗って来た所だったので気にせず弓の稽古を続けた。
何しろ無事叙爵式が終わって弓の稽古に戻ったはいいが、極寒の季節と言う間の悪さ。 長い時間外に立つ事が出来ないし、弓の動きは鈍いしで。 中々勘が取り戻せず、いらいらする日が続いていたんだ。 もし春にケツがあるなら蹴り飛ばしてさっさと来いと言いたい。 そんな事をして春にへそを曲げられたら困るからやらないけどさ。
ようやく三月になって寒さが緩み、うっかり外套なしで外に出ても死なない程度に暖かくなった。 とは言っても辺りにはまだ解けない雪がいっぱい積もっているし、湖の上だって歩ける。 今年になってデュシャンが短パンをはいたのは昨日が初めてだ。 まだまだ寒い日が続くと見て間違いない。
因みに、彼の初短パンの柄はチューリップの葉っぱ。 裾が茶色で地面から葉だけが顔を覗かせている。 相変わらず芸の細かい奴だ。 勿論チューリップの花が咲いている柄も持っているが、それを見るのは早くても来月末になるだろう。
デュシャンはみんなに季節の動きに敏感とか季節を先取りする奴と言われている。 俺に言わせれば、こんなに寒いのに短パンをはくだなんて季節に鈍感な証拠だ。 まあ、単に寒さに対して鈍感なのかもしれない。
とにかく気分だけは何となく春。 俺も今日は股引をたった一枚しかはいてない。 身も心も軽く、よーし、ちょっと多めに稽古するぞ、と気合いを入れた矢先だったので、何の騒ぎだか知らないけど邪魔されたくない。
だけど力いっぱい弓を引き絞った所で、かわいい黄色のケープをひらひら翻した犬がこちらに向かって一目散に駆けて来るのが見えた。
あれ、ケルパじゃないか。 誰だ? ケルパにあんな変な物付けたの。
いや、それより、すぐ後にバートネイア小隊長が必死の形相で続いている。 その後にいるのはリネ、カナ、エナ。 しんがりがネシェイム小隊長。 皆で駐屯地に駆け込むだなんて。 一体全体何があったんだ?
ケルパが俺の前でようやく立ち止まり、そこで初めてケルパの背中のおんぶ袋に気が付いた。 なんと! 中にうきゃうきゃ笑うサリがいる。
翻っていたケープはひよこのアップリケが付いた黄色のよだれかけで、ケルパはおんぶ袋に付いている紐をしっかりと噛んで走っていたのだ。
「おいおい、何があったんだか知らないが、いくらなんでもあぶないだろ。 赤ん坊を犬に背負わせて走らせたら」
俺がそうバートネイア小隊長に声を掛けたら、顔を真っ赤にして焦りきった様子のバートネイア小隊長は馬から下りるやいなや、がばっと土下座した。
「大隊長、誠に申し訳もございません! なぜかケルパが突然、サリ様をおんぶ袋ごと銜えて家を飛び出しまして。 すぐに後を追いかけ、止まるように何度も言ったのですが、聞き入れません。 捕まえようにも背中にサリ様がいらっしゃるので。 後を追うのが精一杯でした」
抱き上げたサリは御機嫌で、どこにも怪我をしている様子はない。
「なんだ、そうだったのか。 道理で変だと思った。 わざとやった事じゃないなら、そんなに恐縮せんでもいいよ。 なんでこんな事をしたのか、ケルパに聞いたって答えてくれる訳ないし」
リネやエナにも前後の事情を聞いてみたが、なんでいきなりケルパがこんな事をしたのか誰にも分からないようで。 ああだこうだと推測し合っていると、騒ぎを聞きつけたらしくマッギニス補佐が全速力で駆けつけて来た。 荒い息でサリとリネの無事をまず確認してから早口で命令する。
「バートネイア、ネシェイム。 サリ様とリネ様を第一庁舎の将軍執務室付き応接間に御案内申し上げ、そこで待機せよ。 邸の点検が終了し次第、連絡する」
「点検って? 何の点検?」
俺が聞くと、マッギニス補佐が答える。
「賊がまだお宅にいるかどうかの点検です」
「「「「賊!?」」」」
そこに居た全員が一斉に驚きの声を上げた。
「皆様がケルパを追って駆け出した後、アタマークが戸締まりをしてから追いかけようと裏口に回った所、湖方面から近寄る傭兵の一団を目にしました。 二十人前後はいたと思われます。 取りあえず二個小隊を緊急出動させました。 私もこれから出動します。 では」
マッギニス補佐は俺に敬礼し、走り去った。
一時間ほどして俺の家からレンガスーケ小隊長が戻り、報告してくれた。 それによると何者かが侵入した形跡はあったが、賊はとっくに立ち去った後だった。 玄関の扉に鍵はかかっていないし、家はもぬけの殻。 厩にも馬が一頭もいないから、家中の者が逃げたのが賊にも分かったのだろう。 追っ手が来る前に、さっと引き上げたようだ。
「引き続き第六十三小隊が賊を追跡し、第七十二小隊が家の周辺に怪しい者が残っていないか見回っております。 物が盗まれた様子はありませんでしたが、御帰宅の際、何か盗まれた物がないか今一度御確認下さい」
そうレンガスーケ小隊長に言われた。 点検はするつもりだけど、元々我が家に大金や高級品の類はない。 家具はおばあ様がいいものを沢山贈って下さったから売れば高いが、でかくて重い家具を盗んだりしたら逃げる時面倒だろ。
手軽に持ち運べる貴重品と言えば、俺やリネの儀礼服かな。 買ったら夫々百五十万ルークはする。 とは言っても、びっしりヴィジャヤン北方伯の家紋が入っているから俺達以外誰も着る事が出来ない。 盗んだって売れない代物だ。
他に軽くて高額な物と言えば、リネに贈られた宝石類がある。 母上から戴いた物は我が家に代々伝わる首飾りで安物ではないだろう。 でも傭兵を何人も雇って盗む程高価な物とは思えない。 義姉上や他の親戚からも髪飾りや宝飾品を戴いたが、高価なものは遠慮します、と貰う前に言っていたから。
それに宝石類は宝石箱の中に入れてあり、それは鍵のかかるタンスの引き出しの中だ。 鍵を壊さない限りタンスごと盗むしかない。 どの引き出しも外見は同じなので一々引き出しを全て開けない限り、どれが宝石が入っている鍵付きの引き出しか気付かれないようになっている。
我が家に金目の物がない事を知らなかったのかな? それにしては家に人が一番少ない時を見計らったようにしてやって来た。
俺は的場。 トビは水場の建設に関する会議に出ていた。 フロロバは食料買い出し。 リスメイヤーとメイレは医療部隊で働いている時間だ。 いつもこんなに閑散としている訳じゃないから、いつなら我が家の人数が一番少なくなるか事前に調査済みだった事が分かる。 そして湖から我が家を目指した。 他にもっと立派で豪華な家がいくらでも建っているのに。
となると賊の目的は盗みじゃない。 サリの誘拐が目的と考えるのが自然だ。
婚約発表の後、そんな事があるかもしれないとは予想していたが、ほんとにそんな事件が起こるだなんて。 衝撃を隠せない。
バートネイア小隊長とネシェイム小隊長程の剣豪を殺すのは簡単じゃないとしても、向こうだってそれなりの腕の剣士を用意していたに違いない。 それに二十人もの傭兵に一気に襲われたら二人がどう頑張ったって助からなかった。
ただ家人を全員殺せたとしても賊がサリを誘拐する事は簡単じゃなかったと思う。 サリの側には片時も離れないケルパがいる。
俺はサリが夜泣きした時、おぶって馬で散歩に出た事があった。 その時もケルパは俺に遅れず付いて来た。 少し走っても全く平気なので試しに全速力で走ってみたら、ちゃんと付いて来て、内心舌を巻いた。
ホマレじゃ遅いからかなと思って、次の日駿足で知られるショーリを借りて走ってみたら、それでもぴったり一歩も遅れずに俺の脇を走ったんだ。 と言う事は、ケルパを振り切るのは馬では出来ない。
それにケルパなら傭兵二十人が相手でも簡単に殺されたりしないだろう。 歯がとても頑強で牛の骨くらいばりばり噛み砕くし。 ケルパの歯噛み用にオークの皮の切れ端をギルドからもらってあげたら、なんとそれさえぼろぼろにして食べちゃった。 オークは鉄並みの強さを持つと言われている。 鉄も噛み砕くかどうかは試していないけど。 相手が鉄の甲冑を身に付けていたとしてもケルパなら甲冑を剥ぎ取れると思う。 そこを噛み付かれたらまず助からないね。 ひょっとしたら鉄の甲冑ごと噛み付いたりして。 ただもし賊が本気で殺そうと半端じゃない数で襲いかかったら、どこまで応戦出来るか分からないけど。
そう言えば以前怪しい奴が庭の木に登った時、ケルパがすぐに気付いた。 ケルパには危険や怪しい者が近づいた事を感じる能力がある。 寒くなくても北では鉄を身につける兵は滅多にいないから鉄の甲冑を身に着けている奴がいたらすごく目立つ。 もしかすると賊は鉄の甲冑を身に付けていて、ケルパがそれに気付いた、とか?
それにしてもサリを背負って馬で追いかけないといけない速さで家からここまで一気に走るだなんて、すごい。 俺は改めてケルパの強さに感嘆した。 去年よりでかくなって、もう小型犬とは言えないくらいに成長したが、かろうじて中型犬と言える大きさだ。 サリだってもう八ヶ月。 犬にしてみれば軽いと言える重さじゃない。
でもどんなにケルパが強かろうと、サリを守ると同時に他のみんなを守る事は無理だったろう。 家から飛び出したのはサリを守るためと言うより、他のみんなを守るためだったような気がする。 サリを連れて行けば全員がケルパの後を追いかけるから。
俺にそう言われ、バートネイア小隊長がケルパに向かって丁寧に謝っていた。
「命を助けてくれたとも知らず、バカ犬とか言って悪かったな」
苦しゅうない、俺様は心が広い、と言わんばかりにケルパが反り返り、ひよひ、ひよひと吠え、しっぽをぱたぱたさせた。
犬にしてはちょっと態度がでかいんじゃないの、と思わないでもなかったが、ケルパが命の恩人である事は間違いない。 ケルパは家族みんなから温かい感謝と共に牛の骨付き肉をもらい、満足そうに齧っていた。
取りあえず今回は皆無事。 ほっと胸を撫で下ろしたが、こんな誘拐がまたあったらどうしよう? 次は誰が、どこから来る? その時もケルパに助けてもらえるんだろうか?
今まで経験した事のない不安が波の様に押し寄せてきた。




