ウェイザダ山脈
様々な土地を訪れた事はあるけど、こんな前人未到の地を旅するって初めてだ。
父上は旅行が趣味だったらしく、俺は子供の頃一緒にいろんな所へ連れて行かれた。 俺の実家がある西のあちこちだけじゃない。 父上のお仕事の関係で皇都に毎年行ったし、深い森林に囲まれた東のおばあ様の家や南の海が見えるバーグルンドおじさんの家。 バーグルンドおじさんとは一緒に船旅を楽しんだり。
家族で外国にも行った。 トビと出会ったのはその中の一つ、ブルセル国だ。 だから珍しい景色というのは結構見ている。 だけど俺が今まで行った所はどこであろうと必ず人が住んでいた。 偶には広大な原野とか山林もあったが、人の手が入っている事が分かる。 道がついているし、そちこちに人家が見えるから。
海だったら辺りに人家はないが、バーグルンドおじさんが乗っている船は大きくて快適だ。 食事もおいしいし、停まるのは開けた漁港だから未開の地を旅するつらさはない。 偶に離島で探検っぽい事はしたけど、遊びで行ったんだし。
西の山脈地帯に生息している飛竜に乗せてもらった事もある。 飛行場は人家からかなり離れた所にあるから、それが俺にとってかろうじて僻地の旅といえる経験だ。 とは言ってもそこには飛竜を世話する兵士とその家族が住んでいるし、飛竜に乗りたい観光客相手の宿屋もあれば土産物屋もある。 西の山脈地帯は深い緑に覆われているが、どこにもきちんと道がついていて所々にかなり大きな集落があるんだ。
大峡谷はどんなに旅慣れた人が見ても想像を絶する別世界だ。 俺の故郷、いや、俺が今まで訪れたどこの土地とも似ていないだけじゃない。 雪に覆われた北の大地だってどことも違うと言えば違うが、春になれば美しい緑と美味しい水があるから人が住める。
まあ、ここにだって住んでいる人はいるんだけどさ。 ソーベル補佐はその部族の出身だ。 でも数は多くない。 だから御近所付き合い、てのもないらしい。
大峡谷に渡る前はまだよかった。 ぽつんぽつんと村とか人家とかあるし。 だけど大峡谷側に入った途端、辺りは白の筋が走っている茶色の岩肌ばかりになった。 まるでこの世とは思えない。 不気味っていうの? 静か過ぎて。
そして夏だと言うのに見渡す限りどこにも緑がない。 ソーベル補佐が、土が塩に覆われているので何も育たないのだと教えてくれた。 日中は暑いのに日が落ちれば極寒となる。 道なんてない。 大石がごろごろ転がっているからポーロッキの背に乗っているのでなければ先に進むのも困難だったろう。
北だって夏ともなればにぎやかに鳥がさえずり、風が木を揺らす音がする。 でも大峡谷にはろくに水がないから鳥がどこにも飛んでいない。 木も生えていないから風が凪いだりすると、ポーロッキのぶふっ、ぶふっという呼吸音と、じゃりじゃり石を踏む音だけになる。
木と言えば、ラシエーバという肉食獣に気を付けるよう、ソーベル補佐に警告された。 枯れ木のように見える獣がいるのだ。 木を自然に求めてしまう生き物の性質を利用したんだろう。 寄って来る小動物の類を掴まえて食べるんだって。
木のように見えるが葉っぱがない。 ただ大峡谷にも時たま本物の木が生えていない訳でもなく、それにも葉っぱなんてろくに付いていないから見分けが付きにくい。
日中、ラシエーバが動く事はない。 夜になると動く夜行性の動物だ。 動くと言ってもすごーくゆっくりなので注意しないと分からない。 それで木があっても葉っぱが付いているんじゃない限り絶対に近づいたりしないようにと注意された。
特にラシエーバの行き着ける範囲で寝たら、夜寝ている間に手足を食われたりするんだと。 本物の木だったら枝を折れば分かるが、ラシエーバに同じ事をしようとしたら指を食い千切られたりする。 だからちょっと触って確認、という訳にもいかない。
大峡谷にいる猛獣にはどんなものがいるか、ざっと教えてもらったが、ソーベル補佐も知らない動物がおそらくいるだろう。 俺達は毎日周辺に注意を払いながらのろのろ進んで行った。
唯一助かるのは食料が不足している土地柄のせいで群れをなしている動物はいない、て事だ。 時々猛獣が襲って来たが、どれも一匹ずつだった。 それらは全て師範が一刀のもとに始末してくれた。 こんな所で生き抜いている動物なだけあって中々の迫力だが、師範はその猛獣以上の迫力だからな。 ま、そんな事は間違っても言いません。
猛獣の恐ろしさはないが、油断してはならないのが毒虫だ。 刺されたら何分もせずに死ぬ強烈な毒を持った虫がいるんだって。 一応リスメイヤーが毒消しを持たせてくれたが、どんな妙薬だろうとどの虫にも効く訳はない。 効くか効かないか。 最後は賭けだ。
夜行性の毒虫もいる。 石に覆われた地面だから、よほど辺りを明るく照らしているのでもない限り事前に見つけるなんて無理。 焚き火で辺りを明るく照らせば地面を見れるが、焚き火用の木が大荷物になるし、夜に火を燃やしたりすれば、いろんな虫や害獣が集まって来る。
蝋燭は持って来たが、荷物を増やさないように数を持って来なかった。 だから毎晩使う訳にはいかない。 夜、辺りを照らす為には燐木を持って来た。 これには焚き火のような明るさは無いが、辺りがぼうっと見えるぐらいには照らしてくれる。 燃え尽きる事がないし、曇って星も月もない夜には便利だけど、虫がはっきり見える程ではない。
とにかく絶対地面に直接寝る訳にはいかないからハンモックを持って来た。 地面に二本棒を刺し、両端にあるわっかを引っ掛けるようになっている。 そして寝る時も必ず靴を履いているように、と注意された。 寝ぼけて裸足で毒虫を踏んだりしたら取り返しがつかない事になる。 それでなくても辺りには足を切るような鋭い石がごろごろしているんだ。 こんな場所での切り傷はそれだけでも命取りになりかねない。
未知の世界を探検するのが好きな人もいるだろうけど、俺にとってはつらいだけ。 これが楽しい旅だなんて、とてもじゃないが言えない。 まあ、そもそも遊びに来た訳じゃないんだから楽しくなくたって当たり前なんだけどさ。 二度と来ないで済めばそれに越した事はないって言うか。
大峡谷の夜は厳しい。 昼が燃えるように暑くなるだけに、この激しい温度差にはどっと疲れる。 すごく冷えるから服を着て寝ているけど、それでも寒いんだ。 だけど獣に襲われたりしたらすぐ飛び起きなくちゃいけない。 それで寝袋は使わず、毛布一枚で我慢している。
寒さに震えながら満天の夜空の星を眺め、俺はリネの事を思い出していた。 出発前、大きくなったリネのお腹に手を当てたら、赤ちゃんが、トンと蹴ったのが分かって。 思わず微笑みが零れ、二人で当てっこした。 この鋭い蹴りは男の子だ、とか。 いや、女の子が肘鉄かましてるのかも、とか。
駐屯地から帰れば、お風呂に入り、おいしい御飯を食べ、寝心地のいい布団の上で横になる。 そのどれもがどんなに贅沢な幸せであったか。
くすん。
リネ。 今頃どうしている? 元気でいるかな?
もう臨月だ。 そろそろ、いつ生まれてもおかしくない。
大丈夫かなあ。 大丈夫です、なんて俺の前では元気一杯に言ってたくせに、俺達の姿が見えなくなった途端、涙を零したりして。 胸がきゅんと締め付けられた。
ああ、早く帰りたい。 昨日なんかリネの夢を見ちゃったし。
元気な声で、おかえりなさいませって言ってくれたのはいいんだけど、どうやら俺の匂いがものすごかったらしく、リネはちょっと後ずさったかと思うと、すー、はー、と口で息をし始めた。
もー、どうせ夢なんだからさ、熱い抱擁とかがあってもいいんじゃないの? リアルで泣けたぜ。
帰ったら真っ先にお風呂だな。 匂いで嫌われたくないし。
何しろ子供が生まれた後、夫婦には「第一次倦怠期」というものが訪れる、と聞いた。 それをどう乗り切るかが楽しい人生と灰色の人生の分かれ目となるんだって。 ソーアが言ってた。
十六で結婚し、今年結婚三十周年を祝ったソーアの言葉には重みがある。 だってそれを祝ったのが駐屯地の犬小屋、奥さん抜きで、なんだぜ。 灰色の人生を物語っているだろ。
ちょっと心配になってきちゃったかも。 リネが俺を蹴りだすとは思わないけど。 一緒に寝るのを嫌がられたりして?
はああ。 ロックが明日見つかって明後日帰れるとかならないかなあ。 だって賢い鳥なんだろ?
ならロックの方から俺を目指して飛んで来るとか、やってくれてもいいんじゃね?
甘い事考えたって仕方ないのは分かってるけどさ。 目的地はまだまだ先だ。 しかもウェイザダ山脈に到着してからが大変なんだ。
岩登りの練習をしたのはウェイザダ山脈のほとんどが峻険な岩だらけの道なき山であるためだ。 そこに辿り着いたら麓にポーロッキの面倒を見る人を一人だけ置いて他は徒歩で山を登る事になっている。
ここに辿り着くまでだって充分つらい目にあったというのに、聞く所によると麓までの旅が楽な部分なんだって。 本当に厳しい危険な旅はそこから始まるんだ。
やれやれ。 なのに俺ってば毎日ため息と共に妻と間もなく生まれる子の事ばかり考えてる。 いくら俺でも人前で泣き言を零している訳じゃないけどさ。 かろうじて。
だって誰一人として文句も言わず行軍しているのに大隊長の俺が弱音を吐く訳にいかないだろ。 第一、そんなもの言った所で何も変わらないし。
なっさけないっつーか。 俺ってほんと、立派な軍人にはほど遠い。 元々そんなものを目指していた訳じゃないから仕方ないけど。 なにせ中身が伴わないのに昇進してしまったからなあ。
早く任務を終わらせて帰りたいと気は急くが、ポーロッキの歩みは亀の如く中々進まない。 先頭を行く師範が隊の全員を守ってくれているので、すぐ動けるよう、師範が乗っているポーロッキには何も荷物を積んでいないけど、それ以外のやつにはどれにもしこたま水やら食料やらを積んでいる。 先を急ぐからと言って、こんなに道が悪いのに、下手に急がせた所為でポーロッキの足が折れたりしたらとんでもないことになる。 という訳で、これでも精一杯の速さなんだが。 一日がまるで一ヶ月であるかのように感じられた。
大峡谷を旅して十日目。 ウェルター中隊長が遥か遠くに見える山脈を指差して言った。
「あれがウェイザダ山脈です」




