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人間らしさの帳簿

作者: 新里泰久
掲載日:2026/05/02

 むかし、ある村に、やさしい人々が住んでいた。


 本当に、やさしかった。これは修辞ではなく、事実である。


---


 村の長は、アルベルト=ハインリヒ=クラウス=フォン=ミュラーベルクといった。七十二年生きて、一度も人を怒鳴ったことのない男だった。村人たちは彼を「アル爺」と呼んだ。本人は嫌がらなかった。嫌がることが苦手だったから。


 アル爺には一つの信念があった。


 「困っている人を助けるのは、人間として当たり前だ」


 これは正しい。疑いようがない。


---


 ある秋、隣村から難民が来た。洪水で家を失った者たち——三十人ほど。


 アル爺は迷わなかった。村の倉庫を開けた。冬の備蓄の四分の一を分けた。


 村人は反対しなかった。やさしかったから。


 難民たちは泣いて感謝した。子どもたちは遊んだ。焚き火の前で、昔話が交わされた。温かかった。本当に温かかった。


 三十人は、春になっても帰らなかった。故郷より、この村が住みやすかったから。


---


 翌年、また難民が来た。五十人。


 その翌年、八十人。


 その翌年、百二十人。


 五年後、村の人口は三倍になっていた。


 畑は足りなかった。井戸は涸れかけた。冬の備蓄は、秋のうちに底をついた。


 初めて、アル爺は会議を開いた。


 「次に来た人たちを、受け入れられない」


 静寂があった。


 誰も賛成しなかった。やさしかったから。


---


 隣村から、一人の青年がやってきた。


 クロード=エミール=フォン=ランベルト=ドゥシャンといった。王都で法律と統計学を学んだ、賢い男だった。村人は彼を「クロ」と呼んだ。


 クロは言った。


 「問題は、規則がないことです。やさしさを、システムに変えましょう」


 これも正しかった。


---


 クロは三ヶ月かけて、難民受け入れ制度を設計した。


 入村審査票。家族構成表。技能調査票。食料配分計算式。労働割当表。毎月の集計簿。


 全部で四十七種類の書類。


 アル爺は、これを見て、涙ぐんだ。


 「これなら、誰も傷つかない。全員が公平に扱われる」


 正しかった。本当に、正しかった。


---


 制度は、完璧に機能した。


 毎週、火曜日と金曜日に、入村希望者が来た。クロが設計した審査票を埋める。点数が集計される。合格ラインを超えた者だけが、村に入る。


 入った後も、制度は厳密だった。


 各戸の家族人数に応じて、食料配分が決まる。労働日数に応じて、追加配分が決まる。子どもの数に応じて、教育配分が決まる。


 全部が数字で、全部が明確で、全部が「公平」だった。


 誰も異を唱えなかった。異を唱えようがなかった。すべてが数字だったから。


---


 一年後、村の人口は千人を超えていた。


 だが、村は破綻していなかった。


 なぜなら、制度が完璧だったから。食料は、必要なだけ確保された。働き手は、適切に配置された。子どもたちは、学習表に従って教育された。


 誰も飢えなかった。誰も過労ではなかった。誰も不当に扱われなかった。


 制度は、完璧だった。


---


 二年目。


 アル爺の死後、村会は公式な「村長選挙」の制度を導入した。クロの設計による。


 立候補者の資格。投票権の保有条件。得票数の集計方法。当選ラインの決定基準。


 全部が書類化され、全部が数字化された。


 アル爺の後継者は、「アル爺そっくりの人格」ではなく、「選挙で最も高得点を得た候補」になった。


 その人物は、やさしい人だった。だが、やさしさ故ではなく、制度が「やさしい判定」を組み込んでいたから、やさしい村長が選出されるようになっていた。


 自動的に。


---


 三年目。


 子どもたちが、制度の中で生まれ育つようになった。


 彼らにとって「正しさ」とは、制度の基準のことだった。


 配分表に従うこと。労働表に従うこと。学習表に従うこと。


 それが「良い子」だった。


 それが「正しい大人」だった。


---


 五年目。


 クロは重要な記録をつけ始めた。


 毎月、村人たちが「制度から外れた行動」をしようとしたときの件数。


 最初は月に数十件だった。


 「配分表に従わず、隣人と食料を分け合う」


 「労働表に従わず、見知らぬ子どもを助ける」


 「学習表に従わず、遊ぶ」


 だが、村会は優しく対応した。


 「それもあなたの権利です。ただし、そうする場合、配分ポイントが減ります」


 選択肢は、常に提示された。


 だが、選択肢を選ぶということは、「損をする」ということだった。


 一年後、月の件数は十件以下に減った。


 三年後、ほぼゼロになった。


---


 十年目。


 村は三千人を超えていた。


 完璧に機能する村。


 誰も飢えない。誰も病まない。誰も不当に扱われない。


 制度は、完璧だった。


 だが、クロは気づいていた。


 気づいていて、記録を続けていた。


 月ごと、年ごと。


 「村人が、村人を名前で呼んだ回数」


 「村人が、相談なく、一人で決定を下した回数」


 「村人が、制度に従わない理由を、自分で説明した回数」


 すべて、減少していた。


 直線的に。


 予測可能な傾きで。


---


 十五年目。


 ある日、若い女性がクロの元を訪ねた。


 彼女は村で生まれた。制度の中で育った。その名をマルグレットといった。


 彼女は言った。


 「どうして、僕たちは自分で決められないんですか」


 クロは、彼女を見た。


 彼女の目は、とても澄んでいた。問題の本質を、正確に理解していた。


 クロは答えた。


 「決められますよ。ただし、決めるたびに、制度の利益が減ります」


 「でも、制度って、僕たちを幸せにするためのものじゃないですか」


 「その通り」


 「なら、自分で決めるほうが、もっと幸せじゃないですか」


 クロは何も言わなかった。


 マルグレットは待った。だが、答えは来なかった。


 彼女は立ち去った。


 翌日、彼女は村を出た。配分表も、労働表も、学習表も、すべてを置いて。


---


 クロはその記録をつけた。


 「村から出た者:一名。理由:制度外への希求」


 そしてペンを置いた。


 窓の外では、完璧に動く村が、昼間の光に照らされていた。


 畑は整然と配置されていた。


 建物は規則正しく建っていた。


 人々は時間表に従い、移動していた。


 誰も走らない。誰も笑わない。誰も怒らない。


 すべてが、制度の範囲内で、調整されていた。


---


 王都の本国から、視察官が来た。


 彼はミュラーベルク村を視察して、本国に報告書を提出した。


 「食料配分率:98%。労働効率:99%。教育達成度:97%。社会満足度:94%。治安維持費:最小限」


 すべての項目で、帝国内最高の成績だった。


 本国は決定した。


 「このシステムを、全国に展開せよ。クロード=エミールを、中央統計局長に任命する」


---


 クロは新しい職場に赴いた。


 王都の大きな建物。数百人の書記官たち。机の上には、同じような書類が積み重なっていた。


 各地から送られてくる「完璧なシステムの報告」たちだった。


 完璧に機能する町。


 完璧に組織化された村。


 完璧に配分される資源。


 完璧に統計化された人間たち。


---


 クロは新しい記録を始めた。


 「人間が、人間らしさを失うまでの期間:何年か」


 帝国全体でのデータを集約する。


 ミュラーベルク村:十五年


 ノルドハイム町:十一年


 ベルンシュタイン地域:十八年


 平均値:約十四年。


---


 一年後、彼は報告書を提出した。


 上官は読んで、眉をひそめた。


 「これは、何だね」


 「現状報告です」


 「数字は悪くない。なぜ、このような解釈をするのか」


 クロは何も言わなかった。


 上官は報告書を机に置いた。


 「君の仕事は、システムの効率化だ。評価ではない。この報告書は、公式記録からは外す」


 「かしこまりました」


 クロは報告書を返された。


 その夜、彼は羊皮紙に、私的な記録をつけた。


 「公式記録から外された報告書:一部。理由:制度にとって不都合なため」


---


 十年後。


 帝国全土が、完璧なシステムで覆われていた。


 飢える者はいない。不当に扱われる者はいない。


 制度は、完璧だった。


 だが、帝国から、何かが消えていた。


 それが何だったのか、誰も言葉にできなかった。


 言葉にするためには、制度の外に出なければならず、制度の外に出ることは、もはや不可能だったから。


---


 クロは年をとった。


 六十歳になった。七十歳になった。


 彼の私的な記録帳は、もう五十冊を超えていた。


 誰も読まないだろう。誰も読めないだろう。


 完璧なシステムの中では、公式記録以外に価値がない。


 民間の記録など、焼却の対象に過ぎない。


---


 ある日、若い書記官が、クロを訪ねた。


 彼はクロの弟子の弟子の弟子だった。


 「先生。なぜ、毎日、そんなに書き続けるのですか」


 クロは、その青年を見た。


 目は澄んでいた。


 だがそれは、マルグレットのような澄みではなく、制度によって徹底的に研磨された澄みだった。


 「記録するのが、仕事だから」


 「でも、公式の記録は、他の誰かがやっています」


 「そうだな」


 「では、なぜ」


 クロは答えなかった。


 答えることは、制度に対する「評価」を伝えることになる。


 制度に対する評価は、制度を揺るがす。


 制度を揺るがすことは、許されない。


---


 クロが死んだとき、記録帳は五十七冊あった。


 誰も読まなかった。


 帝国の文書管理規則により、私的な記録は、死後三年を経てから、「未利用文書」として焼却処分に付される。


 規則に従って、五十七冊は焼却された。


 焼却場では、紙が煙になり、やがて、どこかへ散った。


---


 帝国は、その後、さらに繁栄した。


 完璧に組織化された社会。


 誰も飢えない。誰も死なない。誰も苦しまない。


 完璧だった。


 ただ、誰も笑わなかった。


 これは、設計の誤りではなく、設計の完璧さそのものだった。


---


 二百年後。


 帝国の史官が、古い文書を整理していた。


 その中に、ミュラーベルク村の初期設計文書が見つかった。


 クロードの筆による、最初の「完璧なシステム案」。


 その余白に、小さな字で、メモが書かれていた。


 「この案は、人間を幸せにする。だが、人間を人間でなくす」


 誰の字だったのか、はっきりしない。


 消えかかった文字。古い羊皮紙。焦げた端。


 史官は、その文書を、歴史記録に組み入れることに決めた。


 組み入れるといっても、本文の脚注の脚注の脚注、誰も読まないような深さにだ。


 規則に従って。


完璧に。

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