54 あなただけに呼ばれたい名前
間もなく、昼休憩のためにレオナルドは馬車を停めた。すかさずユーゴが降り、「うまそうな匂いがする!」と目を輝かせて遠くに見える森の方へ駆けていった。ユーゴには孤児院から公爵邸にかけてずっと我慢させていたので、思いっきり羽を伸ばせるようにしてやりたい。
アマリアが昼食の用意をしていると、馬を休ませたレオナルドがやってきた。
「手伝いますよ」
「ありがとう。それじゃあ、お魚を焼いてもらってもいい? 私、肉はともかく魚は焼き加減が難しくて」
「任せてください。魚なら、遠征先でもよく釣って食べていましたから」
公爵邸を出る際、使用人たちが食料を持たせてくれたのだが、その中に新鮮な魚もあった。さすが「水乙女の都」と呼ばれる王都だけあり、ユーゴが「死にたてほやほやの魚だ!」と喜ぶようなまだ艶のある川魚ばかりだった。氷魔法が得意な公爵家の使用人が凍らせてくれたので、しばらくの間は保つはずだ。
あらかじめユーゴが熾してくれていた火の前に座ってレオナルドが魚に木の串を通している傍ら、アマリアは紅茶を淹れる。
(今日は、せっかくたくさんジゼをもらったからジゼのお茶を淹れよう。)
ジゼの皮を剥き、実を四等分する。オリビアからもらったグワムのジャムと一緒にジゼの実をボウルに入れ、あらかじめ茶葉から抽出した茶を注いだ。
「いい匂いがしますね」
振り向くと、魚をたき火の周りに並べたレオナルドがやってきていた。
「ジゼの実をたくさん入れてみたの。……あ、そうだ。少し食べてみる? このままでもおいしいのよ」
「ええ、是非」
ちょうど皮を剥いたジゼの実が残っていたので、摘んでレオナルドの口元に運んだ。
――運んで、気づく。
(あっ、これじゃあユーゴにあげるときみたいだ)
まるで子どもに食事を与えるときのようになってしまうので、レオナルドは食べにくいだろう。フォークがあるので、それで刺して渡せばいい話だった。
……だがアマリアが手を引っ込めるより早く、レオナルドの手がアマリアの手首を掴んだ。そしてそのままの位置に固定すると、アマリアが摘んだジゼの実にぱくっと食いつく。
一瞬、彼の唇が指先に触れた。触れたのはほんの僅かな時間、僅かな面積なのだが、それだけで熱々のポットに触れたかのようにアマリアは手を引っ込め――ようとしたが、レオナルドの手はまだアマリアの手首を拘束している。
あっという間にジゼを飲み込んだレオナルドが、じっとアマリアを見ていた。その灰色の目はやがてアマリアの指先を見、そっと爪の先に口づけてきた。
吸うとか、舐めるとか、そういう段階まではいっていない。爪の先に優しく触れ、すぐに離れていく。破廉恥どころか神聖だとさえ思われる行動なのだが、アマリアはぎょっとしてレオナルドを凝視してしまった。
「れっ、レオナルド!?」
「……甘いですね」
「あま、えっと……それは、ジゼが?」
「あなたの指先が。ジゼの汁の甘さもあるかもしれませんが、それ以上に……」
アマリアを見つめる灰色の眼差しが三日月を描き、空いている方の手がアマリアの腰を抱き寄せてきた。
そうして淡く重ねられた唇は、確かに甘い。
「……甘いわ」
「ジゼの甘さでしょうか?」
「ううん……あなたの唇だから、甘い」
至近距離で見つめ合った後、互いの甘さを分け合うかのように深く口づける。どきどきしつつ舌を絡めると、レオナルドがさっき食べたばかりのジゼの甘さが口内に広がり、えも言えない快感に体が震えた。
ぱちん、とたき火が音を立てたところで、二人は顔を離した。どうやらアマリアの唇の端に何かが付いていたようで、レオナルドは唇でそれを拭ってからアマリアの頭をぎゅっと抱き寄せた。
「……公爵邸でもちらっと話は挙がりましたが」
「……うん」
「僕は、これからもずっとあなたと一緒にいたい。あなたの紅茶をずっと飲みたいし、あなたとユーゴをずっと守っていたい」
「……私の側にいると、色々面倒事が舞い込んでくるかもしれないわよ?」
「赤の他人の事情に巻き込まれるのは嫌ですが、あなたたちのためなら喜んで共に面倒事に立ち向かいましょう」
ふっ、とレオナルドが笑った吐息がアマリアの耳を擽る。アマリアも両腕を伸ばし、戦う人らしく引き締まった筋肉を纏う背中にそっと手を添えた。
「……私も、あなたと、あなたたちと一緒に生きていたい。お母さんもそう願ったように、本当に好きな人と一緒にいたい」
「ええ。僕でよろしければ、あなたの願いを叶えさせてください」
少しだけ体が離れ、レオナルドがアマリアを見下ろした。
春の風に吹かれて淡い金色の髪が揺れ、アマリアの栗色の髪と絡まり合っている。
「……今すぐ、は難しいと分かっています。僕にも準備がいるし、あなたのお心が整うまでいつまでも待ちます。でも、近い未来――僕と、結婚してくれませんか」
は、とアマリアの唇から丸い息が吐き出される。
視界が潤み、手が震え、体の中心が冷たくなるような感覚がするが、それは嫌悪感からではなく、極度の緊張のためだった。
「……はい。喜んで」
「いいのですか? 僕と結婚しても、あまり裕福な生活はさせられません。……それでも、僕の奥さんになってくれるのですか……?」
「私こそ、面倒な身の上だしたくさん迷惑を掛けると思うけれど、あなたは私の旦那さんになってくれるのでしょう?」
同じような言葉で返すと、レオナルドは灰色の目を見開いた後、心から嬉しそうに微笑んで頷いた。
「もちろんです! あなたとユーゴのためなら、面倒事も面倒事だと思いません! ……ああ、よかった! ありがとうございます、アマリアさん!」
「こちらこそ、私をもらってくれてありがとう。……あ、あのね、レオナルド」
「はい」
彼にしては珍しくにこにこ満面の笑みを浮かべているところで、アマリアは少々躊躇いつつ言葉を続ける。
「あの、結婚のお申し出、とても嬉しいの。それで……一つ、お願いしたいことがあって」
「はい、僕にできることでしたら」
ここで「なんでも叶えます」と言わないところに、彼らしい慎重さと冷静さが見えて、アマリアもなんだか嬉しくなる。
「あの、あなたは私のことを『アマリアさん』と呼ぶでしょう?」
「呼びますね。お嫌でしたか?」
「嫌じゃないわ。でも……け、結婚するんだから、たまにでいいから……今みたいに二人きりのときだけでいいから、アマリアと呼んでほしいの。あと、できたらもうちょっと気さくな感じに話しかけてほしいなぁ、って」
別に、丁寧に扱われるのが嫌というわけではない。彼なりに思うことがあって「アマリアさん」と呼び、敬語を使っているのだと分かっている。
(だから、本当にたまにでいいから……ユーゴと接するときのような話し方をしてほしい)
指先をすり合わせてもじもじしつつ言うと、レオナルドはしばし硬直していた。氷魔法でも食らったのかと思うくらい硬直していた。
だがやがて彼は解凍され、こくこくと何度も頷いてくれる。
「え、ええ。そのようなことでいいのなら、喜んで。……あ、では僕の方からもお願いです」
「ええ、私にできることなら」
「僕、あなたに『レオナルド』と呼ばれるのも好きです。でも……あなただけに呼ばれる名も欲しくて。どうか僕のことを、レオ、と呼んでくれませんか?」
アマリアは目を見開き――噴き出した。なんてことない、レオナルドもアマリアと同じような要望を出してきたのだ。
「そうね……分かったわ。でも、今みたいに二人きりのときだけでいいわよね?」
「僕は別に、普段から呼んでくれてもいいのですが……」
「だって、あなたにとっての特別になれた気持ちになれるもの。あなたをレオと呼んでいいのは私だけで、私があなたをレオと呼ぶ声を聞くのもあなただけであってほしいの。……だめ?」
「だめなわけないでしょう!?」
顔を真っ赤にしたレオナルドは叫ぶように言うと、アマリアを強く抱きしめた。少し苦しいが、彼の腕に収まれた幸福、そしてお互いにとっての「特別なたった一人の存在」になれたことで胸がいっぱいだ。
「……あなたのプロポーズ、とても嬉しい。大好きよ、レオ」
そう、アマリアが言えば。
「……僕の方こそ、ありがとう。愛しているよ、アマリア」
そう、レオナルドが返す。
しばらくの間二人は抱き合って互いの体温を分かち合っていたが――ふと、香ばしい匂いがしてきたため、同時に我に返った。
「あっ! 魚!」
「しまった、焦げて……」
慌ててたき火の方を見た二人は、同時に硬直した。
たき火は、元気よく燃えている。そしてその前に座り、おいしそうに焼けた魚を手にこちらを見ている少年が。
「あ、もう終わり? おれ、ちゃんと黙って見ているから続けてもいいんだよ?」
いつの間に戻ってきていたのだろう。そして、いつの間に焼き魚を回収してくれていたのだろう。
呆然とするアマリアたちを差し置いて、ユーゴは魚を木の皿に並べた。彼の獲物なのか、その背後には大きな獣が転がっている。
「魚、焼けたみたい。ママの紅茶も飲めそうだから、話が終わったのならご飯にしようよ。……あ、そうだ」
ユーゴは顔を上げ、抱き合ったままのアマリアとレオナルドを見る。
そして金色の目を細めると、満面の笑みで両手を差し伸べた。
「……ママ、レオナルド。こんやくおめでとう!」
第2部完結です。
お付き合いくださりありがとうございました!




