51 三十年越しの失恋
『聞いてくれ、マグダレナ。ルフィナに娘がいたそうなんだ』
そのときの夫は、ここ数十年で一番興奮していたと思う。
『アダンとトビアスによると、娘は二十代くらいに見えたそうだ』
ということは、夫との子ではないのだろう。そう思うと、緊張していた体がほんの少し弛緩したのを思い出す。
その娘と会われるのですか? と尋ねると、夫は頷いた。
『もちろん。ルフィナの娘なのだからな。……アダンはルフィナにそっくりだと言っていたが、さて、どのような娘なのだろうか』
さあ、どんな方なのでしょうね、と平静を装って言ったけれど、心臓は激しく鳴っていたし、ルフィナの娘に会うのが不安で怖くて仕方がなかった。
いざ会ってみると、ルフィナの娘アマリアは、若く見えるが三十二歳とのこと。それに、目の色が夫と同じ藍色だ。年齢と目の色を考えると、アマリアは夫とルフィナの子だと考えて間違いないだろう。
その日の夫は、とても嬉しそうだった。最愛のルフィナが自分との子を産んでいたし、三十二年越しではあるがその子と会えたことが嬉しくてたまらないといった様子だ。
自分は、よかったですね、といつもの笑顔で言った。
『ああ。……そうだ。ルフィナの娘が現れたのだから、あれを譲ろうと思うんだ』
あれ、とは? と尋ねると、夫は応接間のある方を指差した。
『ブレスレットだよ。あれは、ルフィナの娘が受け継ぐべきだ。それほど高価なものでもないし、アマリア嬢もきっと受け取ってくれるだろう』
コンコンコン、とドアをノックする。「入りなさい」という夫の声は、穏やかだった。
青い顔で書斎に入ってきたマグダレナを、公爵は静かな眼差しで見つめていた。その表情を見ると――先ほどアマリアが言っていたことが真実なのだろう、とマグダレナにも分かった。
「夜分遅くに申し訳ありません、旦那様」
「気にするな。そこに座りなさい」
「いいえ、どうかこのままで」
夫人は首を横に振ると、それまで右手に持っていた箱を公爵に差し出した。
「……旦那様。ルフィナ様のブレスレットを盗んだのは……わたくしです。申し訳ございませんでした」
「……」
「許せ、とは申しません。旦那様とルフィナ様の思い出の品で、アマリア様に譲られると分かっていながらの犯行でございます。わたくし一人の愚行ですので、どのような罰でもお受けします」
「それを返しなさい、マグダレナ」
「はい」
一切逆らわず、マグダレナは夫に箱を手渡した。公爵は蓋を開くとそこに収められていたブレスレットを手にし、自分の黒い上着の袖部分に乗せると――ほっと息をついた。
「ああ、これだ。傷もないし、無事な姿で戻ってきてよかった」
「……旦那様」
「なんだ?」
「罰は……何でしょうか」
「罰? それならもう終わっただろう」
公爵はブレスレットを箱に戻し、デスクに肘をついて妻を見つめた。
「おまえは自らの罪を認め、謝罪し、ブレスレットを私に返した。……それだけで十分ではないか?」
「えっ……」
「他に罰を与えるとしたら……ああ、そうだ。おまえ、なかなか派手にガラスを割ったな。あれの修理費くらいだろうか」
「旦那様……」
「むしろ、他に私に言いたいことがあるのではないか」
公爵に問われたマグダレナは瞬間、ルフィナとアマリアのことを思った。
よく似た顔の、二人の娘。ルフィナがいなくなったと思ったら、アマリアが現れた。
勝てない、なんて最初から分かっていたことだ。永遠に若く美しいルフィナと、そんなルフィナと公爵の子であるアマリア。公爵がその二人を大切に思っているというのは、紛れもない真実。
トビアスでさえ、ルフィナやアマリアのことを認めている。彼にとってアマリアは憎むべき対象になってもおかしくないのに、「彼女、いい人ですね」と息子はからりと笑っていた。
だというのに自分はいつまでもくすぶったまま。それは、三十年来の間違った「想い」があるから。
「……旦那様。愛しております」
震える声で発されたのは、三十年越しの告白。
それを口にすれば全てが終わる、マグダレナの方からあの約束を壊してしまうので、言ってはならない言葉だった。
公爵は、妻の告白を聞いて目を丸くした。きっと、実直で真面目なこの人は今の今まで、マグダレナの想いに気づかなかったのだろう。
だが、それは公爵の罪ではない。なぜなら、ばれないように、気づかれないように、マグダレナの方から壁を作っていたから。アマリアに打ち明けなければ、きっとこれからもずっと自傷行為を続けていただろう。
やがて公爵は目を細め、少し俯いた。
「……ありがとう。だが、私の心は三十五年前から変わらない。私が愛するのはルフィナだけだ。だから……すまない」
「……はい。ありがとうございます、旦那様」
ふられた。
だがそれはマグダレナの想定内のことで、夫がどういう言葉で断るかも予想していた。むしろ、今になってマグダレナにふらっと浮気せず、ずっと一人の女性のことだけを想っていたという夫の姿勢に敬服する。
三十年間自分で自分を苦しめていた片想いが、今やっと終わった。
「おまえの想いを受け取ることはできない。だが……どうか、これからも私の妻として私を支えてほしい。もう後も長くないだろうが、マグダレナとならうまくやっていけると信じている」
「はい……この命が尽きるまで、お供させてください」
きっとこれから先、マグダレナはやっていける。夫の「同士」として、ルフィナを敬いながら、生きていける。
夫には、感謝している。軽々しい言葉を吐かなかったこと、約束を必ず守ってくれること、実家が取り潰し処分を受けたときも守ってくれたこと――そして、愚かな罪を犯した自分に挽回の機会を与えてくれたこと。
マグダレナが夫に対して抱く感情は、尊敬や感謝だけで十分なのだ。
夫に失恋したというのに、マグダレナの横顔はどこまでも晴れやかで、穏やかだった。




