49 犯人
明かりの落とされた廊下は薄暗く、窓から差し込む星明かりだけが微かにカーペットを照らしている。
廊下に人気はない。ここは客室用の階で、現在は公爵の娘であるアマリア一行が泊まっているのだが、アマリアと恋人のレオナルドはオリビアに招かれているらしく、部屋にはいない。
手に持つバスケットが重い。中身の重量はたいしたものではないのに、汗がひどいし、足も重い。だが、ここで逃げ帰るわけにはいかない。
一歩一歩カーペットを踏みしめ、件の部屋のドアの前に立つ。震える手で籠から鍵を出し、鍵穴に差し込む。緊張のためかうまく鍵が入らなかったが、やがてカチリと微かな音を立てて解錠された。
ごくりと唾を呑む。
そして、音を立てないようにドアを押し開け――
「こんばんは」
涼やかな声に迎えられ、「その人」は硬直した。
どうしてここに、彼女がいるのだろうか。
正面には、ランタンを手にした三十代――にしては若く見える女性、アマリアが。
彼女は淑やかに微笑み、穏やかな眼差しで「その人」を見ている。
「……どうして、ここに」
「あなたがいらっしゃるかと思って、待っておりました」
アマリアは、笑う。自分より若くて、無力で、立場も弱い人間のはずなのに、ルフィナによく似たその微笑みの前に屈してしまいそうになった。
ぽすり、と手から滑り落ちた籠が床に転がる。アマリアは一歩「その人」に歩み寄ると、持っていたランタンを近くのテーブルに置き、お辞儀をした。
「では、せっかくいらしてくださったことですし」
「……」
「お茶にしましょう……奥様」
「その人」――公爵夫人は目を見開き、夫の愛娘を信じられないものを見る目で見つめた。
壁際に控えていたレオナルドが明かりを付け、アマリアはソファの前のテーブルに向かう。そこには既に、茶器や砂時計、果物やハーブなど、茶を淹れるのに必要な道具が全て揃っていた。
公爵夫人は入り口に立ったまま、ぽかんとしている。そんな彼女のもとにとてとてと歩み寄ったのは、ユーゴ。
彼はまず、足元に転がっていたバスケットを拾った。そしてそれを公爵夫人に差し出す。
「どうぞ、落としました」
「えっ……あ、あの、わたくしは……」
「ママのお茶を飲んでいってください。ママのお茶を飲んだら、とても落ち着きます」
ユーゴがそう言って夫人の手を引っ張る。一瞬夫人の手がびくっと震えたが、彼女は幼子に引っ張られるままソファに向かい、ぽすんと力なく座り込んだ。
そんな公爵夫人を横目に見つつ、アマリアは手を洗い茶を淹れる準備を進める。
(やっぱり……公爵夫人だったのね)
そうだろうとは思っていたが、本当に来るとは。しかも、アマリアたちを前にして夫人はすっかり意気消沈していて、抜け殻のようになっている。これでは聞くことも聞けない。
(夫人のお心を落ち着かせたい。……見てて、お母さん)
一つ息をつき、アマリアは素材に手を伸ばした。
準備していたのは、プリネ、マグラム、ムルム。そして、以前アマリアも味見したジゼという紫色の皮を持つ漿果だった。
プリネとマグラムは炎属性で、体を温める効果がある。ムルムは神聖属性なので弱った体を癒し、夫人の好物だというジゼが甘みを加えてくれるはずだ。
プリネとジゼの果肉は柔らかめだが、マグラムは木の実なので一緒に投入することができない。マグラムは皮を割って中身を出し、一度茹でた汁を使うことにした。
匂いのきついムルムは量を少なめにしたので、材料をポットに入れて蒸らしているとプリネとジゼの甘い香りが室内に満ちる。砂時計をひっくり返しつつちらっと公爵夫人の方を伺うと、彼女は隣に座ったユーゴに「ママはねー、美人なんです」「レオナルドはねー、いいやつなんです」と積極的に話しかけられていた。少し戸惑っているようだが、表情はさっきよりもずっと穏やかになっている。
「はい、できました。ユーゴはお砂糖入れる?」
「入れる! 奥様は、どうします?」
「え? えっと……わたくしは、そのままでいただきます」
ユーゴに押せ押せされている公爵夫人は少し裏返った声で答えた。
カップに三人分の茶――レオナルドは見張りなので、要らないそうだ――を注ぎ、まずアマリアが一番に口を付けた。
テーブルには、例の銀のナイフを置いている。もし毒入りが気になるようならそれを使ってもらうつもりだが、まずはアマリアが飲んでみせるべきだろう。
ジゼの量を多めにしたので、今回の紅茶はほんのり薄緑色がかっている。プリネとジゼという甘いもの同士を掛け合わせたので、ジュースかと思うほど甘い。そこにマグラムの苦さとムルムの芳香が絡み合い、甘さの中にもきりりとした苦みがある飲みやすい一品になった。
ユーゴはそれでも足らずに砂糖を投入しているが、公爵夫人はしばらくの間、黙って手元の紅茶を見つめていた。だがユーゴがおいしそうに茶を飲むのを見ると、おずおずとカップに手を伸ばし、口元に運んだ。
品のある仕草で夫人が紅茶を口にすると、はっとその目が見開かれた。
「……おいしい」
少し唇を離したときに呟かれ、アマリアはほっとしつつジゼの皮を剥き、ナイフで半分に切った。
「よろしければ、ジゼの実を入れてみませんか? 奥様は、ジゼがお好きだと伺っております」
「……ありがとうございます、いただきます」
夫人がカップを下ろしたので、アマリアは半分に切ったジゼを入れ、新しい茶も注いだ。
夫人はしばらくの間、ジゼの紅茶を楽しんでいた。だがしばらくしてふっと真顔になるとカップを置き、少し悲しそうな目でアマリアを見てきた。
「……アマリア様。あなたはもう、分かってらっしゃるのでしょう」
「はい。……昨夜、応接間から母の遺品を取ったのは――奥様ですね」
アマリアが穏やかに尋ねると、一瞬の躊躇いの後、夫人は頷いた。そのほっそりした指先が震えているのは、体が冷えるからではないだろう。
「……ごめんなさい、アマリア様」
「奥様……」
「でも……違うのです。わたくしは、わたくしはあの指輪を盗ってはおりません……!」
「ええ、分かっております」
「えっ」
夫人が顔を上げた。今にも泣きそうに歪められた顔は、見ているこちらの方が胸が苦しくなってくる。
アマリアはユーゴのカップにも茶を注ぎ、話し始めた。
「奥様が持ち出されたのは指輪ではない。……だからこそ奥様は今朝、指輪がなくなったと聞いてひどく取り乱されたのでしょう?」
「…………どうして」
それは、どういう意味での「どうして」なのだろうか。
ひとまず、「どうして分かったのか」という意味で解釈し、アマリアは頷いた。
「私は指輪の件とは別に、ある捜し物をしていました。……奥様ならお分かりになるのではないですか? 公爵様が母に贈った――黄色のアクセサリーについて」
「あっ……」
夫人は言葉を失い、唇を震わせた。紅茶の効果で体が温まり心が落ち着いていなかったら、真っ青になって倒れていたかもしれない。
「奥様が持ち去られたのは、母が言っていた『黄色のアクセサリー』ではないですか? そして公爵様は奥様に、そのアクセサリーを私に譲るとおっしゃったのでしょう?」
「……」
「奥様はそのアクセサリーを取り、強盗の仕業に見せかけるためにガラスも破壊した。……翌日、物取りによってアクセサリーがなくなったと騒ぎになることは予想していらっしゃった。だからまさか……ご自分が取ったはずの宝飾品が残っていて、取っていないはずの指輪がなくなっているとは思わなかったので、取り乱されたのでしょう」
夫人は黙っている。その沈黙が、肯定を表していた。
ルフィナの遺品である「黄色のアクセサリー」を、アマリアに譲り渡す――それを聞いた夫人は夜に応接間に忍び込んで件の品を回収し、ガラスを割った。夫人は応接間の鍵を持っているから、部屋に入ることもガラスケースを開けて安全に回収することもできるし、もし出入りするところを見られてもすぐに咎められることはない。
だが翌日、「強盗が入って指輪が盗まれた」と知らされる。慌てて現場を確認すると、なくなっているのは大粒の宝石の付いた指輪で、自分が回収したはずの「黄色のアクセサリー」はその場に残っていた。
つまり、「黄色のアクセサリー」を取ったのは夫人だが、指輪を持ち出したのは別人なのだ。
では、誰が何のためにそんなことをしたのか。それを確認する前に――
「……公爵様が私に譲ってくださろうとした『黄色のアクセサリー』は、ブレスレットだったのですね」
アマリアが静かに問うと、夫人はこっくり頷いた。隣に座るユーゴが茶を勧めると、彼女は大人しく紅茶を啜り、その目尻からぽろりと大粒の涙をこぼした。
「……どうか、お許しください。わたくしは、わたくしは……決して、ルフィナ様を辱めるつもりはなかったのです!」
「しかし、奥様は私に譲られるはずだったブレスレットを回収なさいました。……あのまま、私がポルクに戻るまでブレスレットを隠すおつもりだったのでしょう?」
「それは……」
「……」
「……お許しください。わたくしは……あれがなくなるのが、怖かったのです」
植物辞典⑰
ジゼ……ブドウのような植物。どちらかというとピオーネに近い。皮は紫で、黄緑色の果実は甘い。




