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ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第一章 覚醒編
9/95

第八話 満月

 翌日。二月十八日。

 山坂浩二はいつものメニューとは違い、ハチミツをかけた食パンで朝食を済まし、登校した。朝から甘ったるいものを食べたせいか、彼は胃に不快感を覚えた。

 その不快感は授業中も彼を襲い、とある約束が脳内を廻るなか、ただえさえ集中力を欠いていた山坂浩二のやる気を削ぎ落としていった。


 そして昼休み。


 山坂浩二は、くせ毛以外に特徴がなく見分けがつきにくい永山と村田とで、窓際に列ぶ自分の机を囲んでいた。

 彼の机の上には、購買部のチキン南蛮弁当が二つと、握り飯が入ったプラスチックの入れ物が置かれている。

 山坂浩二は手の平サイズの握り飯を右手で掴んで頬張り、永山と村田は右手で箸を扱いながら昼食を口に入れている。

 山坂浩二は一つめの握り飯を完食すると、目の前にいるくせ毛の二人組を無言で見つめ始めた。

「…………」

 二人はそれぞれ自分の昼食に夢中で、食べ物を口に入れてはよく噛んで飲み込むのを繰り返している。

「…………」

 山坂浩二はしばらく無言だったが、やがて口を開き、

「お前らほんとに見分けつかねえよな。永山プラス村田」

 山坂浩二は二人を見比べながら笑い、

「お前ら双子みたいだぞ。しかも一卵性の」

 と、女性と接するときとは全く違う、男子高校生が友人と何気なく会話するような口調で言った。

 すると、二人は一斉に顔を上げ、箸を持ったまま机に手をつけて身を乗り出し、

「「こ、こんな奴といっしょにするな!!」」

 と、お互いを指差しながら山坂浩二に向けて叫んだ。

 そして今度は、お互いに目線を合わせ、

「だいたいなぁ! 永山が眼鏡からコンタクトに変えたせいだぞ!」

「違う! 村田がダイエットなんてするからだ!」

 二人は唾を散らし合う。

「そういう永山だって入学当初はガリガリだったくせに!」

「太って悪いか!?」

「痩せて悪いか!?」

「だいたい村田がくせ毛だからいけねぇんだよ!!」

「じゃあ、テメエがストパーかけりゃいいじゃねえかよ! 永山ぁ!」

「俺にそんな金はねえんだよ! テメエがやれよ村田ぁ!」

「金がねえんだよ!」

「なにおぅ!?」

「ああ!?」

 睨み合い、目線で火花を鳴らす二人。

 山坂浩二は両方の手の平を二人に向け、

「まあまあ、二人とも。おさえておさえて」

 と苦笑しながら永山と村田をなだめようとした。

 しかし二人の言い争いは終わらず、その矛先は山坂浩二へと向けられる。

「「もとはと言えば山坂のせいだろうが!!」」

 二人の怒声が教室内に響き、クラスメートの視線が山坂浩二に集中した。じろじろ見られることに耐えられなくなった彼は素直に頭を下げ、

「ごめん二人とも。俺が悪かった」

 と、誠心誠意に謝罪した。

 熱くなっていた永山と村田は山坂浩二の行為に納得し、一度二人で視線を交わした後、机に乗り出していた身体をもとに戻した。

 三人の間に静寂が訪れる。

 クラスメートたちも、山坂浩二ら三人に目を向けるのを止め、再び自らの昼食に向き合い、昼休みを堪能し始めた。

 山坂浩二はプラスチックの箱から握り飯を掴み、かじり出した。具は入っておらず、味付けは塩のみだ。

 そんな、味より量を重視した昼食をとる山坂浩二をよそに、永山と村田はチキン南蛮を美味しそうにほお張っている。

 山坂浩二は握り飯を食べながら二人、いや、二人の弁当を見る。

 ……正直言って羨ましい。

 山坂浩二はごくりと唾を呑んだ。

(ああ、だめだ。他人のおかずをもらっちゃ)

 彼は必死で自らの欲望を押さえ付ける。

 しかし、目の前では山坂浩二を誘惑する物体が、ピンク色のソースで輝いている。彼にはそれらが手招きをしているようにも見えた。

 しかし、彼は頭を左右に振って、

(いや、だめだだめだ! あれは永山と村田の弁当。あいつらだって金出して買っているんだ!)

 自分自身を説得させようとした。

 ……でも、もう。


 我慢できない!


「なあ、永山、村田」

 山坂浩二は二人に呼びかける

「「なに?」」

「……分けてくんない? その……」

 山坂浩二はタンパク質を豊富に含んだものを見つめ、

「チキン南蛮」

「「絶対いや」」

 即答で断られた。

 山坂浩二は炭水化物の塊を口に放り込み、心の中でしくしくと泣き始めた。

(べつにいいもん。チキン南蛮なんていらないもん。双子モドキの食べかけなんていらないもん。……お昼ご飯はおにぎり四つで上等だい!)

 山坂浩二は感情を隠しながら握り飯を掴み、それをほお張る。

 自らの昼食に夢中の三人は、しばらくの間無言になった。




 元肥満児の村田は、チキン南蛮弁当を完食すると、底が浅く四角い容器に割り箸を入れた。そして、弁当にフタをして輪ゴムでとめる。

 彼は、最後の一つとなった握り飯をほお張る山坂浩二を一瞥し、続いて村田自身の左隣りに座る永山に目線を移した。

 永山の弁当には、チキン南蛮が一切れと一口分の冷めた御飯が残っている。

 二人の食事がそろそろ終わりを迎えようとしているのを確認すると、村田は山坂浩二に再び目線を向けた。

「なあ、山坂?」

 彼は山坂浩二に話しかけた。

 山坂浩二は口をもごもごと動かしながら村田に視線を移す。彼の右手には、半分ほどに減った握り飯が収まっている。

 村田は決まりが悪そうに言葉を発した。

「あ、あのさ、山坂」

「ん?」

 山坂浩二は口にものを含んだままで喋られる音で返事をした。

「か、勘違いかもしれないけどさ」

「うん」

 村田は大きく息を吸って、

「……月影さんと付き合ってるのか?」

「っ!?」

 山坂浩二は動揺したのか、口に含んでいたものを一気に飲み込み、右の拳で胸を叩きながらむせ始めた。

「がはっがはっ。……い、いきなりなにを言い出すんだてめぇ!」

 山坂浩二は少し涙目になりながら元肥満児の村田を睨みつける。

「んなわけねえだろうが! だいたい俺が女の子と付き合えるわけないだろ!? なにいってんだまったく」

 山坂浩二は耳を赤くしながら村田に向かって反抗した。村田は目を丸くして左隣の永山と顔を合わせ、

「えっ!? そうなの? この前『B・WAXスーパー』からお前と月影さんが二人で出てきて、しかも並んで帰って行ったって誰かが言ってたからさ」

 村田はため息をつき、

「もしかしたら付き合ってんじゃないの? って思っただけだよ」

 と、少しがっかりしたように目を細めて言った。

 元メガネの永山は弁当を完食して村田のように白い容器にフタをした。輪ゴムでとめるときに起こるやや高い音が鳴る。

「でもまあ、ちょっとホッとしたかな」

 永山は発泡スチロール製の弁当箱を机に置きながら言った。山坂浩二は永山を細い目で睨み始め、

「なんでだよ?」

 と、ややいらいらした様子で尋ねた。

「んーと……」

 永山は腕組みをし、

「……ムカつくから?」

「理不尽だ!!」

 山坂浩二は永山の返答を聞いた瞬間、椅子に音を鳴らさせながら立ち上がって叫んだ。しかし、永山は平然と、

「理不尽じゃない。だいたい、『自分には彼女が絶対できない』って言ったのはどこのどいつだったっけ?」

 と、反撃するかのように尋ねた。

「そ、それはぁ……」

 山坂浩二は言葉に詰まる。

 そして、元肥満児の村田と元メガネの永山は、ここぞとばかりに攻撃を仕掛け出す。

「なんで山坂が女に近寄られないか知らないけど」

「かわいい娘が一人寄ってきただけで調子乗られると困るんだよねぇ」

「しかも十年前の知り合いだって」

「胡散臭いよなぁ」

「あんなにデレデレしちゃって」

「また、処刑されたいのかぁ?」

 怪しい笑みを浮かべる二人。

 山坂浩二は頭をかきながらため息をつき、

「お前らなあ、俺のことは馬鹿にしてもいいけど、月影さんのことは馬鹿にすんなよ。あの人は俺をからかっちゃいない」

 と言った。その言葉にはどこか怒りがこもっているようにも聞こえた。

 永山と村田は笑うのを止め、山坂浩二を無言で見つめた後、

「ごめん」

 と、わずかに頭を下げて言った。

「いや、そこまでしなくていいから」

 山坂浩二は二人に顔を向けずに空を見る。

 すると、永山と村田は顔を上げ、

「でもさ、やっぱり」

「山坂に彼女ができたりしたらさ」

 二人は再び不気味な笑みを浮かべ、

「天変地異が起こるんじゃねえの?」

「いや、日本沈没だあ!」

「「あはははははははは」」

 声をあげて笑う二人。山坂浩二は彼らに顔を向け、軽くため息をついた。

「……またそのネタかよ」

 彼の呟きは笑い続ける村田と永山の耳には届かなかった。





 そして、その後は何も変わったことはなく時間が過ぎ、やがて掃除も終わって放課後となった。

 山坂浩二はトイレで用を足した後、一年五組の教室へと足を踏み入れた。生徒はクラブ活動に行っていたりそそくさと帰宅したりしたようで、教室には一人もいなかった。

 また、窓から見える空は朱く染まっている。夕日が気温の下がった教室内に差し込んでおり、並んだ一部の机を照らしている。

 山坂浩二は窓際の列の真ん中に位置する自分の机に向けて歩き出した。夕日が顔に当たると彼は目を細めた。

 自分の机に着くと山坂浩二はその上に置かれた黒色のスポーツバックに手をつけた。その時、誰かの足音のようなものが教室内に渡った。

「やまさか?」

 彼の名前を呼ぶ女性の声。

 山坂浩二はスポーツバックから手を離して後ろを振り向いた。

 すると、教室の前側の入り口に山坂浩二より頭一つ分は低い身長で、髪は肩にぎりぎりかかる長さの女子生徒が立っていた。スカート丈は校則で膝下五センチと決められているはずだが、彼女のものは膝をまったく隠していない。

 その女子生徒は鼻筋が通っていて、目は大きく開かれ、活発な印象を受ける。

「や、柳川さん!?」

 彼女の姿を目にした山坂浩二は驚いたようにその女子生徒の名前を言った。

 柳川と呼ばれた女子生徒は眉間にしわを寄せ、

「なにもそんなに毎回毎回驚く必要ないでしょ」

 と、ため息混じりに言った。

 彼女は柳川友子。女性が近寄ることのできない山坂浩二に近づける数少ない女子生徒。山坂浩二のクラスでは唯一の人物だ。

 彼女は教室の入り口からゆっくりと歩き出した。机を避けながら、やがて教室の中央にたどり着いた。

 ちょうど、山坂浩二と向かい合うかたちになる。

「ねえ、山坂」

「は、はい!」

 何気なく山坂浩二の名前を呼ぶ柳川友子に、彼は大袈裟に返事をした。すると、彼女は再びため息をついた。

「……まあ、アンタが女と会話することに慣れてないから仕方ないんだろうけど。もう少し楽にしたら?」

 彼女は微笑を浮かべて言った。

「……す、すいません。無理です」

 山坂浩二は申し訳なさそうに目線を下に向けて答えた。そして、彼は下がっていた目線を柳川友子に向け、

「そ、それより。ど、どうして柳川さんは平気で僕と話したりできるんですか?」

 と、少しかみながら尋ねた。

 すると彼女はそっぽを向いて、

「いや、平気ってわけじゃないのよ。アタシだってあんたに近づくと不快感のようなものを感じるわ。ただ、アタシは他の人とは違って耐えられる。ただそれだけよ」

 と言った。

「……どうして、柳川さんだけ耐えられるんですか?」

 山坂浩二の問いかけに柳川友子はすぐには答えず、しばらく夕日に染まる空を眺めてから口を開いた。

「……さあね。よくわかんない」

 彼女の言葉には抑揚がほとんどなかった。彼女は続ける。

「……それに、近づけるのはアタシだけじゃないでしょ」

 柳川友子の言葉に山坂浩二はほんの少し戸惑った。そして、

「……月影さん、ですか?」

「そ。香子。多分、あんたに近づいて不快感を感じない女って言ったら、香子しかいないと思うの」

 柳川友子はため息をつく。

「まあ、なんでかは知らないけど」

 彼女はわずかな笑みを浮かべた。

 山坂浩二はしばらくの間口を半開きにしていたが、

「……す、すいません。あの、一つ聞いてもいいですか?」

「なに? 別にかまわまいけど」

 柳川友子はため息混じりに答えた。

「……月影さんと柳川さんって、いったいどういう関係なんですか?」

 山坂浩二は眉をひそめながら強い口調で尋ねた。すると、柳川友子は眉間にしわを寄せて右手を腰に当てた。

 そして、山坂浩二を睨みつける。

「昔からの知り合い。それだけよ。なにか文句ある?」

 彼女の威圧感を受けたが、山坂浩二はそれごときでは退かなかった。

「そ、それは月影さんに聞きました。ぼ、僕が聞きたい答えはそれじゃありません」

「……なに? アタシが嘘ついてるって言いたいの?」

 柳川友子は眼光を鋭くして山坂浩二をさらに睨みつける。彼はあまりの気迫に一瞬身を引いた。

 しかし、彼は自らを奮い立たせて再び口を開いた。

「そ、そういうわけじゃありません。た、ただ、僕には、何かそれ以上の関係があるように思えるんです」

 山坂浩二の言葉を受けた柳川友子は、表情をもとに戻して無言になった。そして、ゆっくりと彼に背中を向ける。

「ねえ、山坂」

「な、なんでしょう」

 山坂浩二は身構えた。柳川友子は目線を上に上げて、わずかに笑みを浮かべる。

「アタシさ、いや、正確に言えばアタシたちはね。運命に逆らおうと必死で頑張ってきたの。香子の気持ちを犠牲にしてさ」

 山坂浩二は“話をそらされた”と思った。しかし、彼は無言のまま彼女を見つめていた。彼女は続ける。

「でも、アタシたちみたいなちっぽけな存在じゃ、結局時間を引き延ばすことぐらいしかできなかった」

 山坂浩二は、彼女がいったい何について話しているのかがわからない。彼は無言のままでいた。柳川友子は山坂浩二のほうに振り向く。

「ねえ、山坂」

「……は、はい」

「アンタ、満月って好き?」

 柳川友子はわずかな笑みを浮かべ、肩にかかる髪を揺らしながら尋ねた。山坂浩二は一度目線を床に下ろしてから答える。

「……す、好きではないです」

「そうなんだ」

 柳川友子は目を閉じて微笑んだ。

 そして、わずかな静寂が過ぎ去った後、目を開けた。彼女は微笑んだまますぐ前にある机に目線を下げる。

「実はね。アタシも、あんまり好きじゃないんだ」

 彼女は山坂浩二に目を向けた。

「なんかさ、全然落ち着かなくって。なんていうか、明るすぎるのよね。無駄に明るいと思う。アンタはどうして好きじゃないの?」

「……僕も、落ち着かないから……ですね」

「そう。じゃあいいや」

 柳川友子はそう言うと、右隣りにある机の上に腰掛けた。彼女は両手を机につけて教室後方の黒板を眺め始める。

「……アンタさ、香子と出会ってから随分変わったね」

「……そうですか?」

「うん。なんていうかさ、楽しそうに見えるんだ。それに、アタシが話しかけてもまともに対応できてる。前はできなかったくせにね」

 柳川友子は机から腰を離して床に足をつけた。体は教室後方に向けたまま顔を右に向けて山坂浩二を見る。

「アタシね、山坂にとって、今は人生のターニングポイントなんじゃないかなって思う」

「……そうですか?」

「うん」

 柳川友子は一度、ゆっくりと息を吐いた。

「人生ってさ、人との出会いで変わると思うんだ。だから、山坂が月影香子と出会ったことは、アンタの人生を大きく変える。いや、もうすでに変わっているのかもしれないわね」

 柳川友子はそう言うと、顔を再び教室後方の黒板に向けた。

「多分、人生が変わるのはアンタたち二人だけじゃない。多くの人の生活が変わる」

 山坂浩二は彼女の言っていることがわからず首を傾げた。柳川友子は続ける。

「でもね、山坂。そんなことは気にしないで」

 彼女は山坂浩二に体を向ける。

「……香子を、大切にしてあげて。それはアンタにしかできない」

 彼女の目には、心なしか涙が浮かんでいるように見えた。

「山坂。アンタはとっとと帰りなさい」

 柳川友子は窓越しに空をみる。夕日は弱まり、薄暗くなってきている。

「もう暗いから」

 山坂浩二は後ろに振り向く。空を見た後、体を柳川友子に向けた。

「……いいんですか?」

「いいわよ。それに、アンタ満月好きじゃないんでしょ。出てくる前に帰りなさい」

 柳川友子は笑みを浮かべて言った。山坂浩二は黒いスポーツバックを肩に掛けると頭を少し下げた。

「それでは、失礼します」

「じゃあね、山坂。気をつけて」

 柳川友子は山坂浩二に向けて小さく手を振る。山坂浩二は出口に向かって歩き、出口のところで柳川友子にもう一度頭をさげた後、走りだした。

 山坂浩二の姿は見えなくなり、教室には柳川友子だけが残っていた。

 彼女は指を組んで両手を真上に上げて伸びをした。両腕を下ろし、教室後方のロッカーに向けて歩き出す。

「さてと、アタシもいかなきゃ」

 彼女はロッカーから手提げ鞄を取って、教室出口に向かう。

「……もう、アタシは逃げない。別の方法で運命に抗ってみせる」

 彼女は薄暗くなった教室を後にした。





 山坂浩二は走った。

 二階の廊下を走り、階段を駆け降り、校舎から抜け、校門を突破した。

 辺りは暗くなり、歩道を歩く人や道路を走る自動車も増えてきた。しかし、彼はそのようなことは気に留めずに走り続ける。

 途中、何度か自転車とぶつかりそうになり、ブレーキの音が鳴った。彼はそのたびに“すいません”と言って再び走り出した。

 そして、第一の信号に差し当たった。二車線道路を横断するのには、かなりの待ち時間が必要だ。

 急いでいるときに限って信号は光の色を変えてくれない。

(くそっ! 早くしろ! 早くしないと満月が!)

 山坂浩二は空を見上げた。その瞬間、彼は目を見開いた。

(う、嘘だろ?)

 彼の目に映ったのは、夜空に浮かびながら異様な光を放つ満月。

(冗談じゃねえ! もう幽霊が見えてしまう!)

 山坂浩二は顔を下げ、車道の信号を見る。ちょうどその時、光は青から黄へと変わっていくところだった。

 やがて黄色は赤になった。しかし、歩道の信号は赤い光を出したままだった。山坂浩二は歯ぎしりをする。

 そして歩道の信号が青く光った。向かい側の人々が文句のあるような目線を向けてくるのを気にせずに、山坂浩二は走り出した。

 走行中の自転車との衝突を避けながら、電灯の灯った商店街を走り抜け、二つ目の信号に差し当たる。

 山坂浩二が横断歩道の一歩手前に着いた瞬間、歩行者用の信号は光の色を赤に変えた。そして、自動車が彼の目の前を高速で過ぎ去り始めた。

「くそ! なんでこんなときに!」

 山坂浩二は息を切らしながら、赤く光る信号を睨んで叫んだ。

 彼の目の前にある道路は国道。中央には路面電車の線路が走っている。先程の信号に比べてここのは赤い時間が長い。

 山坂浩二はただ待ち続けた。

 一秒が一分に感じられるほどだった。


 信号の色が青に変わると、山坂浩二はアスファルトの地面を蹴って走り出した。向かい側からは人はあまり歩いては来ない。

 山坂浩二は国道を抜け、通学に使っている小さな道路に足を踏み入れた。人工の光が急に少なくなる。

「ここからが、本番だな」 

 山坂浩二は息を切らしながら呟く。彼はその脚を止めない。

 彼はいつも利用しているコインランドリーの店を通り過ぎた。店内から漏れる光は山坂浩二を一瞬だけ照らす。

 彼は街灯の少ない道路を走り抜け、坂道を駆け上がり、坂道を駆け降りた。彼の目には銅鏡川、枝になにもつけていない桜の木々、車がようやく一台通れるくらいの横幅の道路が映った。

 山坂浩二は立ち止まって空を見上げた。そこには妖しく輝く満月。夜だというのに辺りは不気味なほど明るい。

 彼は顔を戻し、走り出そうとした。


 しかし、彼の目の前には、

 今日最も怖れていたものが姿を現した。


 人のような姿をし、服も着ている。髪は顎のあたりまで伸び、両腕は体の前でだらりと垂れている。

 その姿は、透けている。

「……ゆ、ゆうれい」

 山坂浩二は顎を震わせながら呟いた。

 彼はその姿を見つけると、一目散に家へ向けて走り出した。

 幽霊は追ってこない。

 山坂浩二は全力で走る。冷たい風が彼の顔に吹き付けてくる。

 彼は走りながら辺りを見渡した。さまざまなところに、普段は見えないものが存在している。空中を泳ぐように移動するもの。佇んでいるもの。さまざまだった。

 それらの姿は透けて見える。

 もちろん、人型のものだけではない。四本足のもの。かたちが定まらず、丸くなったり細長くなったりするもの。その姿もさまざまだった。

 それらは、走る山坂浩二に近づこうとはしない。

 しかし山坂浩二は何も考えずに、ただ家にたどり着くことだけを目標にして走り続けた。

 そして、彼の目には未来橋が映った。橋の上では、等間隔に並べられた街灯が光を放っている。

 山坂浩二は未来橋に向けていた顔をもとに戻し、前を見ながら走る。橋の辺りでも、透明なものが何体か空中を泳いでいた。

 橋の近くの坂道を駆け上がり、自動車が車道を走っていないのを確認すると、両側に一車線ずつの道路を横切り、坂道を下っていく。

 ここまで来ればあと少し。

 山坂浩二はさらに走りを速めた。

 呼吸は荒くなり、寒いのにもかかわらず、額からは大粒の汗が垂れている。山坂浩二は学生服の袖でその汗を拭う。

 そして、河川敷広場のあたりまでたどり着く。やはりそこにも透けて見えるものたちがいたが、山坂浩二はそれらに目をむけない。

 彼は、河川敷広場の道路側に植えられている桜の木の列に沿って走る。そして、その列の終わりの前に佇むアパートに向かい始めた。

 すぐにアパートにたどり着き、外の階段を駆け上がり二階の廊下に足を踏み入れた。彼は走る。

 そして、一番奥の扉の前まで来ると、彼はズボンのポケットを慌てて探り出した。急いだせいか、扉の鍵はなかなか出てこない。

 彼はポケットから鍵を取り出すと、それを鍵穴に差し込もうとする。しかし、なかなか差し込めない。

 手が震えて鍵が言うことを聞かない。

「くそ! はやく、はやくしろ!」

 彼は震える右手で掴んだ鍵を、何度も何度も鍵穴付近に当て続けた。そしてついに、鍵が穴に入り込んだ。

 彼は鍵を回して開けた。鍵を穴から抜き出し、扉を押し開けて中に入った。暗い部屋の中、手で壁を触り、電灯のスイッチを探る。

 手を動かしているうちに、指がスイッチに当たり、なにかを弾くような音がすると同時に部屋に明かりが灯った。

 山坂浩二は靴を玄関に脱ぎ散らかし、扉をありったけの力を込めて勢いよく閉めた。そして鍵を閉める。

 山坂浩二は肩に掛けていた黒のスポーツバックを床に降ろすと、そのまま玄関の扉にもたれながら座り込んだ。

「ふぅ」

 山坂浩二は学生服の袖で額の汗を拭った。袖に取り付けられたボタンが肌に触れる。

 山坂浩二は腕を下ろし、左ポケットから黒色の携帯電話を取り出して開き、液晶画面に映る時計を見る。

 月影香子との約束の時間まで一時間以上もあった。

 山坂浩二は携帯電話を折りたたんで左ポケットに突っ込んだ。両腕で膝を抱え、膝の間に顔をうずくめる。

 彼は震え出した。

「……怖い」

 息が荒くなる。

「……怖い」

 彼は顔を膝に押し付ける。

「……もういやだ。……幽霊なんて見たくない。……見えなくていい。……見えなくてもいいのになんで見えるんだよ……」

 彼の震えは止まらない。

「……な、なんで満月のときだけなんだよ。……そんなのだったら、いっそのこと、いつも見えたらいいのに」

 膝を抱え込む力がよりいっそう強くなる。

「……どうしてなんだよ。……なんでこんなに怯えないといけないんだよ。……意味わかんねぇよ。俺っていったい何者なんだよ」

 彼の声を聞くものはいない。

 孤独感が彼を襲った。

「……月影さん。……助けて」

 彼は四日前に出会った女性の名前を、震える声で呼んだ。



 その後も、山坂浩二は玄関の扉に背中をもたれかけたまま膝を抱えてうずくまり、震えていた。

 何度も何度も携帯電話を開き、時刻を確認したが、時間は思った通りには進まなかった。彼は携帯電話をポケットに入れるのをやめ、手で持ち続けた。

 果てしなく長い時間が流れていく。



 そして、時刻は19:55。

 山坂浩二は携帯電話を左ポケットに入れて立ち上がった。



 扉を開け、電気を消し、外へと踏み出す。

 満月によって照らされた夜が、山坂浩二のもとに冷たい風を送り込み、彼の体温を徐々に奪っていく。

 彼は鍵を閉め、廊下を歩き出した。

 山坂浩二は自分でも驚くほどに落ち着いていた。もう、震えてもいない。怯えてもいない。弱音も吐かない。

 彼は確信していた。

 月影香子は嘘などついていないことを。

 彼女は必ずくることを。

 山坂浩二は月影香子を信じて、階段を下りる。道路を横切り、道路に沿って並んでいる木の間を通り抜けた。

 目の前には、芝生が広がり、その向こうには銅鏡川の水面が満月に照らされているのが見え、対岸には木々がならんでいる。

 満月によってなにもかもが暗闇を奪われ、その姿を晒す。暗闇の代わりに青い光が辺り一面を満たしていた。

 山坂浩二は佇む。

 透明なものが見えても気にしなかった。

 彼は空を見上げ、満月を眺める。そうすると、月影香子と出会ってからの日々が思い出された。



 一日目は銅鏡川に落ちて溺れていた彼女を川から引き上げ、とまどいながらも家へ連れていき、冷めた体を風呂で温めてもらった。

 初対面の彼女に名前を呼ばれてびっくりした。彼女の話はあまりにも非現実的すぎて信じられなかった。

 信じなかったらケンカになった。それで、彼女が退魔師だということを証明するために満月の夜に会おうという話になった。

 二日目は大変だった。

 夢だと思っていたら夢じゃなかった。嫉妬に狂った理系男子たちに追い回された。彼女の身体能力はすごかった。

 帰りに捨てチョコを貰った。夜、スーパーで会って一瞬に帰った。こたつが壊れた。チョコが美味しかった。嬉しかった。

 それで、自分と彼女は十年前に出会っていたということを信じた。

 三日目は、クラスメートの柳川友子と話した。なにか裏がありそうだった。でも教えてくれなかった。

 家に帰って退魔村について調べた。月影香子がきずだらけで訪ねてきた。慣れなかったけど、治療した。

 彼女が自分の家に泊まった。寝言が、まるで自分を責めているかのようだった。

 四日目は、彼女とどたばたした朝を過ごした。手から日本刀が出てきたときは冷や冷やした。学校から帰ったら、ジャージと食パンとハチミツがドアにかけられていた。

 そして今日。

 満月。



 山坂浩二はこのときだけ幽霊が見える。彼はこのときをずっと待っていた。彼女の言うことを信じたいから。

 そして、今がそのとき。

 彼は満月を眺めながら月影香子の到来を待つ。


 そして、空に一つの黒い点が見えたかと思うと、その点は降下を始め、猛スピードで山坂浩二に近づいてきた。

 山坂浩二にはそれがなんなのかがわからなかった。

 それは、一瞬のうちにして山坂浩二の前のやや離れたところに着地した。

 突風が発生し、河川敷広場の芝生が揺れる。彼は顔を両腕で隠した。

 その風はすぐに止んだ。山坂浩二は両腕から覗き込むようにして目の前を見る。



 そして、そこには。

 腰まで届く髪を風で揺らしながら、山坂浩二に横顔を向けて佇む月影香子がいた。片手に一本ずつ日本刀が握られている。

 彼女の姿は透けていた。







 ……やっと。


 やっと次からクライマックスですね。ここまで本当に長かったです。


 あまり失敗しないように頑張りますが、期待しないで待っててください。



 ちなみに、プロローグを大幅変更しました。(2011年10月2日)


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