表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ムーン・ライト  作者: 武池 柾斗
第一章 覚醒編
8/95

第七話 蜂蜜と食パン

 翌朝。二月一七日。

 山坂浩二は携帯電話のアラーム音によって目覚めた。

 一般的な目覚まし時計と同様の、妙に周波数の高い音が部屋のなかで鳴り響く。

「うっせえなぁ。わかった、わかったから」

 彼は上半身を起こし、こたつの上に充電器のプラグを挿して置いてあった黒色の携帯電話を手に取り、ボタンを操作してアラーム音を停止させた。

 画面右上の時計は『6:01』を示している。

 彼は時刻を確認すると、携帯電話を折りたたんでズボンの左ポケットに入れてのっそりと立ち上がった。

 彼は今にも開こうとしている自分の口を右手で隠す。

 隠された口は、誰にも見られることなく大きく開き、山坂浩二に朝の到来を告げる。

 開いた口は再び閉じ、それとほぼ同時に右手は口を隠すのをやめた。

 そして、視界がはっきりとしてきた彼はあることに気づく。

「あれっ? なんで俺はこんなところで寝てたんだ?」

 と首をかしげ、眉をひそめながら自分に問いかける。

 彼が今立っている場所は、テレビのすぐそばであり、背中側には小さな窓がある。

 いつもの山坂浩二は、こたつの部屋の入り口側のそばで寝ているのだが………。

「なんでこんな場所で寝てたんだ?」

 山坂浩二は左目だけを少し閉じて、再び自分に問いかける。

 そして彼は眼球を動かして部屋を見渡し、

「なんで布団が二つ出てんだ?」

 と、空間に問いかける。

「……昨日、なんかあったっけ?」

 彼は頭をぼりぼりとかく。

 山坂浩二は寝ぼけているせいか、昨日のことを思い出そうとしてもなかなか頭の中に浮かんではこない。

「…………えっと、昨日は特に何もなかったよな……」

 彼はあくびで大きく開いた口を右手で隠し、

「……なんかとても重大なことがあったような気がするんだけど……」

 彼は部屋を歩き、トイレのドアノブに手をかけ、

「…………なんだったかなぁ……」

 と、もどかしい気持ちを抱いて呟き、扉を開いて中に入った。



 水の流れる音とともに山坂浩二はトイレのドアを開けて部屋に戻ってきた。この時点で彼がトイレに入ってから約一分が経過している。

 しかし、

「いったいなにがあったんだ?」

 うつむいて右手で頭を抱え、

「…………あぁー、思い出せない!」

 と嘆いた。

 しばらく彼は考え込んでいたが、昨日のことがまったく思い出せない。

「くそ、もういい! 考え事はやめ!」

 彼は部屋を歩いて、洗面所のドアノブに手をかける。

「……とりあえず、舌の汚れを落とさないと、気持ち悪くて水も飲めないからな」

 と独り言を言い、ドアを開けた。

 いつもの洗面所兼脱衣所の狭い空間と風呂場の扉が、彼の目に映る………………はずだった。

 だが、彼の目に映ったのは、


 滑らかな肌。

 よく締まったウエスト。

 筋肉質ではあるが、細い両脚。

 両脚と同様に筋肉質ではあるがすらりとのびた両腕。

 膨らみのほとんどない胸。

 腰まで届く黒い髪。


 つまり。

 バスタオルで体を拭いている月影香子だった。

 しかも真っ裸の!


 二人の目が合う。

 二人の口が驚きで半開きになる。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 無言。

 彼女の手から力が抜け、髪に付着した水分をたっぷりと含んだバスタオルが床に落ちる。

 彼女の見えてはいけない上の部分は、運よく彼女自身の長い髪によって隠されていた。

 見てはいけないものを見てしまった山坂浩二は、どうしていいかわからず、直立不動のまま、視線が泳ぐ。

 月影香子はしばらく彼を無表情で眺めていたが、やがて彼女の表情が怒りに染まっていく。

 眉をぴくぴくと動かし、口元は笑っているが震え、両目は強く閉じられている。

 そして、彼女は目を見開き、顔を赤らめてプルプルと震えながら山坂浩二を睨みつけ、腕をゆっくりと動かす。

 彼女は左側の洗面所に置いてあった石鹸を左手で掴み、上に軽く放りなげた。

 そして落ちてきた石鹸は彼女の胸の前で右手に掴まれる。

 月影香子は左腕で上半身のプライベートゾーンを隠しながら、右手を大きく振り上げる。

 そして、


「突っ立ってないでさっさと出ていきなさいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉ!!!!」


 怒号とともに月影香子の右手から。

 石鹸きょうきが発射された!

 石鹸は直線を描いて、視線の定まっていなかった山坂浩二の額の中央に見事命中。

「ぐぇ!!」

 山坂浩二は後方に飛び、玄関先のフローリングの床に背中から着地した。

「ふん!!」

 月影香子は山坂浩二を見下ろしながら洗面所の扉を乱暴に閉めた。


 バタン!


 月影香子の姿は茶色のドアに隠され、見えなくなった。

 床に仰向けに倒れている山坂浩二は天井を眺めながら、先程まで考えていた事の答えを見つけた。

「そうだ。月影さんが来てたんだ」

 彼は思い出したように呟く。

 そして、彼の頭には昨日の出来事が急激な速さで浮かび上がってきた。


 月影香子の突然の訪問。

 血まみれの彼女。

 傷だらけの彼女。

 ボロボロの制服。

 山坂浩二による応急手当。

 泣き声混じりの彼女の寝言。


 山坂浩二は大の字になって仰向けの状態で天井を眺めていたが、昨日の事を思い出した途端、

「………ちょっと待てよ」

 と言って腹筋を利用して上半身を起こした。

 そして目の前の、洗面所に繋がるドアを見つめ始める。

「昨日、月影さんの身体にはかなりの傷があったはず」

 彼の脳裏に月影香子の身体にあった無数の傷が浮かぶ。

「……だったら」

 彼は先程目撃した彼女の裸体を思い出す。

 そして疑問。

「……なんで傷が一つも残ってないんだ?」

 彼は眉をひそめる。

 確かに、昨日の月影香子の身体には無数の傷があり、程度はまちまちであったものの、どれも一晩で完治するようなものではなかった。

 また、深い傷などは病院で縫わなければならないほどだった。

 しかし、今日の彼女の身体には傷どころか、その跡さえもまったく見当たらなかった。

 山坂浩二はその原因についてあれこれと考えを巡らせた。

 しかし、まったく答えが思いついてくれない。

 頭に浮かんで来るのは、先程目撃した裸の月影香子の姿ぐらいである。

「…………ちょっと待て。俺は、いったい何を見た?」

 山坂浩二は目を見開いて、目の前の扉に問いかけるように言った。

(……信じられないようなものを見た気がする)

 今まで女の子に近寄られもしなかった彼が見たもの。

 そう。月影香子の裸。

 ここで、彼は初めて『女性の裸を見た』ということを今更ながらに意識した。

 純情な彼の顔が真っ赤に染まっていく。


 そして、

 彼の鼻から血が盛大に吹き出した!


 彼は薄れゆく視界のなかで洗面所のドアを見ながら倒れ、床で大の字になる。

 彼の表情には、羞恥と幸福と後悔が浮かんでいた。




「ちょっと! いったいどうしたのよ!? なんで血まみれで倒れてんのよ! もう! いつまでも寝てないでさっさと起きなさいよ浩二! 意味がわからないわよ!」

 山坂浩二は女性の騒がしい声で意識を取り戻した。

 彼は仰向けに倒れたままで、肩が揺らされているような感覚を覚え、目をうっすらと開けた。

 山坂浩二の視界には冬用の紺色セーラー服を着た月影香子の顔が、彼の顔の近くにあるという光景が映った。

(……あれ、月影さん?)

 彼の意識は朦朧としていた。

 しかし、彼は把握しようとする。

 自分が置かれている状況を。

 だが、彼の目の前には月影香子の顔がある。

 そのため、彼の頭は誤作動を起こした。

 具体的に言うと…………………………彼女の裸を連想してしまったのである!

「っ!?」

 山坂浩二の目が見開かれる。

 そして、

 再び彼は鼻血を盛大に放出!

 その朱い液体は月影香子の顔に浴びせられる。

「っ!? 何よこれ!?」

 月影香子は山坂浩二の肩から手を離し、自分の顔にその手を当てる。

 そして、手を離す。

 そこに付着した液体を見た途端、彼女はその手をにぎりしめ、震え出した。

 そして、今にも意識を失ってしまいそうな山坂浩二が着ている黒色シャツの襟を掴んだ。

 そのまま彼の体を乱暴に揺らす。

「なんてことしてくれてんのよ!! せっかくお風呂入ったのにぃ〜!!」

 彼女は恨みを込めて叫んだ。

 そのまま山坂浩二の体を揺らし続ける。

 体、とくに頭を激しく揺さぶらされた山坂浩二は失いかけていた意識を取り戻す。

 彼の目の前には血まみれの月影香子の顔があった。

 山坂浩二の目が一瞬のうちにして見開かれる。

「っ!?」

 彼は自分のシャツの襟を掴んでいる月影香子の手を払うと、腰を床につけたまま少しだけ後ろに下がり、

「い、い、い、……いったいどうしたんですかそれ!?」

 と彼女を指差して尋ねた。

 月影香子は両膝を床につけたまま、呆れたように笑みを浮かべ、

「あんたが私に向かって鼻血を吹いたからよ……」

 と答えた。

 そして彼女は両手で床を叩いてから立ち上がり、

「もう! またシャワー浴びないといけないじゃない!」

 と、いらいらした様子で言い、洗面所の扉のドアノブに手をかけた。

「……浩二」

 月影香子は上半身をひねって後ろを向き、山坂浩二を睨みつける。

「……な、なんでしょうか?」

 山坂浩二はあごを震えさせながら尋ねた。

 すると、月影香子は目を細め、

「……覗かないでよ」

 とやや低い声で言い残し、洗面所の扉を開けて中に入って行った。


 バタン。


 山坂浩二の目の前に、再び茶色の扉が現れる。

「…………まじかよ」

 山坂浩二はため息をついて頭を下げ、

「舌の汚れが落とせないなんて……」

 と、床に座ったまま両手を体の両端で伸ばして床につけた体勢で呟いた。

「…………まあ、でも」

 彼は顔を上げ、

「どうせ風呂に入ってるんだったら、少しの間洗面所ぐらい使っても大丈夫なんじゃないか」

 と、目の前の扉を眺めながら言い、肘を曲げた後にそれを伸ばすことによる両手の反動を利用して、山坂浩二は軽快に立ち上がる。

 そして彼はおそるおそるドアノブを右手で掴み、ゆっくりと手首を回す。

“ガチャリ”という、金属がこすれあう音が部屋の隅々まで行き渡った。

 彼は慎重にドアを押しながら、目をドアのすれすれの所まで持っていき、洗面所の様子を窺う。

“キィィ”という、扉の金具が働く音が洗面所内に響き渡る。

 山坂浩二の目にはいつもの洗面所の光景が映った。

 月影香子の姿はない。

 そのかわりに、曇りガラス付きの扉で仕切られた風呂場から、水が弾かれる音が聞こえる。

「……よし。今なら大丈夫」

 山坂浩二は胸を撫で下ろして呟いた後、これまでゆっくりと開いていたドアを一気に押して全開にした。

 洗面所には、自由に移動できる場所は畳一つほどの広さしかなく、今の彼から見て右側に洗面台があり、左側には風呂場に繋がる扉がある。

 洗面台の横には脱衣カゴがあるが、山坂浩二はそれをあえて見ようとはしない。

 彼は脱衣カゴから目を背けたまま洗面台の前に立ち、風呂場と相対するように取り付けられている鏡に映った自分の顔を眺める。

 パーツとしては特徴がなく平凡であるが、全体的にはバランスが取れているため、結果的には『中の上』に分類されている。

 ただ、今は自分が出した鼻血がところどころに付着してしまっている。

 また、髪は耳にかかるかかからないほどの長さであり、ところどころで逆立っている。

 山坂浩二は自分の顔を見終えると、鏡の前に置いてあった歯ブラシとプラスチック製の青いコップを手に取った。

 コップに水を注ぎ、その水で口をゆすいだ後、舌を出し、その上に歯ブラシを優しくあてて汚れを落としていく。

 山坂浩二は、ある程度落とし終えると、コップに入っている水で口をゆすいだ。

 舌を磨き終えた彼はコップと歯ブラシを鏡の前に置き、蛇口から流れる水を両手ですくって顔にかける。

「冷た!」という彼の声が、洗面所内で反射する。

 山坂浩二は冬だというのに冷水で顔を洗うのだから、温水が当たり前のこのご時世では見上げたものだ。

 彼は再び顔に水をかけ、「冷た!」という声を出す。そしてもう一度水をかける。

 彼は冷水で顔に付いた鼻血を洗い流しながら、自らの身体が暖まっていくのを感じた。

 人間の顔、特に額の部分には温度センサーが密集しているため、そこを集中的に冷やすことで脳は体温が下がったと感じ、身体を暖めようとする。

 その結果、身体が暖まるのである。

 まあ、山坂浩二がこのことを知っているのかどうかは謎であるのだが。

 それはさておき、山坂浩二は顔を冷水で十分に洗い終えた後、彼の左側にある、手すりのようなものに引っ掛けてある白いタオルを手に取った。

 彼は鏡を見ながら両手を使って、自らの顔をそのタオルで拭く。

 顔からタオルを離すと、鏡に映っている彼の顔には鼻血は残っておらず、目やにもきれいに洗い流されていた。

「まあ、こんなもんかな」

 山坂浩二は鏡に映った自分の顔をまじまじと眺めながら呟き、タオルをもとの位置に戻した。

 そして、彼は両手を高く挙げて体を伸ばしながら、リビングへ繋がるドアへと歩き出した。

「朝飯、月影さんの分も作んなきゃなー」

 山坂浩二はそう呟くと、体を限界まで伸ばし、“う〜”とうなるように言うと、両腕を下げてドアノブに手をかけた。


 その時!

 彼の後ろから、風呂場の扉が開くときに出る独特な音が聞こえた。


 ドアノブを回そうとしていた手が止まる。

 彼の右手は、思うようには動いてくれない。

 山坂浩二はドアノブを右手で掴んだままの体勢で、あの音が何を意味するのかを考えた。


 いや、考えるまでもない。

 風呂場の扉が勝手に開くはずがない。

 人の手によって開かれるはず。

 じゃあ、誰が?

 この部屋には二人の人物がいる。

 山坂浩二自身には不可能。

 では、扉を開いたのはもう一人の人物になる。

 だが、それを確かめるために後ろを見てはいけないことぐらいはわかる。

 少し頭を働かせるだけで答えは導き出せる。

 扉を開いた人物。

 それは…………。


 ドアノブに手をかけたまま、口を半開きにして動きを止めていた山坂浩二。

 背中に悪寒を感じる。

 “ひた、ひた”と、後ろから足音が二つ聞こえた。

 そして、何かが動く音が洗面所のなかで、山坂浩二の耳に突き刺さってきた。

 殺気!

 身の危険を感じた山坂浩二は震える右手でドアノブを回し、扉を一気に引いてリビングとの繋がりをつくり、前を向いたままリビング側のドアノブを右手で掴んだ。

 そして、リビングに足を踏み入れると同時に前を向いたままドアを全力で閉める!

 そして山坂浩二は扉から飛びのいた。

 それとほぼ同時に、扉の洗面所側に何かがぶち当たる音がした。

 その何かは扉を震動させ、山坂浩二の心をも揺さぶる。

 彼は体を扉に向ける。

 扉の震動は止まっていたが、彼の心の震動はまだ続いていた。

 彼は右手を胸に当て、

「……危なかったぁ」

 と息を吐くように言った。

 まるでラグビー選手がタックルをしたような震動だった。もしあの砲撃をまともに喰らっていたら、山坂浩二は五体満足ではいられなかったかもしれない。

 彼は恐怖感で全身を震わせながら扉に背中を向けて台所へと歩き出した。

 しかし、脚も震えてしまっているため、思うようには前に進めない。

 わずか一、二メートルほどの距離が、今の山坂浩二にとっては果てしない旅の道のりのように感じられた。

「朝ごはん、つくんなきゃ」

 まるで、砂漠をさ迷いながら水を求めてオアシスを探す人のような口調で彼は呟く。

 そしてまた一歩踏み出し、

「月影さんの分まで、……つくんなきゃ」

 と、見開かれた目は焦点が定まっておらず、体を左右にぶらしながら歩いている山坂浩二は、うわごとを言っているかのように呟いた。

 彼はふらふらと何かに誘われるように冷蔵庫の前に立ち、虚ろな目をしたまま台所の青いタイルの壁を眺める。

 そして一言。

「今日はいい天気だなあ」

 彼は、窓が取り付けられていない台所の壁を眺めている。

 目は生気を失い、焦点が定まらない。

 今の山坂浩二には、全てのものがどうでもよく感じられた。

 なぜなら、月影香子の言い付けに逆らったから。

 いや、正確には見ていないのだから逆らったというわけではない。しかし、彼が洗面所にいたということは事実であるから、月影香子は『山坂浩二に覗かれた』と思っても仕方がない。

 一度目はハプニングとして認められるかもしれない。

 しかし、二度目はさすがに許してはくれないだろう。

 山坂浩二にとっては、覗いていないが、月影香子にとっては覗かれたのだから。

 だから、彼女が洗面所からこの部屋に帰ってきたとき、

 多分、殺される。

 その恐怖感に耐えられなくなった彼の頭が。知能が。本能が。必死で自らを守ろうとして現実を歪めていく。

 だから、これから何が起こったとしても、心配する気力など残っていなかった。

 山坂浩二は輝きを失った目でタイルを見つめながら、大きく息を吸い込む。

 口を開き、尖らせる。

 そして、


「そーらーは〜ひろい〜なぁお〜おきいなぁ〜」


 ついに壊れた!

 山坂浩二は歌を歌いながらしゃがんだ。そして、冷蔵庫の扉を開けて中から卵のパックを取り出した。

 そして、卵を二つ手に取ってパックを冷蔵庫に戻してそのドアを閉めた。

 山坂浩二は歌い続けながらコンロの前に立ち、フライパンを少し熱した後、そこに油をひく。

 虚ろな目をしている山坂浩二は、フライパンの上で卵を二つ割って中身を落としてフタをした。

 そして、佇む。

「どーおーせー死ぬんだぁ〜やまさ〜か〜は〜」

 虚ろな目をして、

「はーだーかぁみちゃあってぇ殺さぁれーる〜」

 壊れたラジカセのように、

 歌いつづける。


 その時、

 洗面所の扉が開いた。

 出てきたのは、ところどころに縫い合わせた跡がある紺色の冬用セーラー服。それを着て、それと同じ色の膝下五センチほどの長さのスカートを穿いている月影香子だった。

 彼女の耳に入ってきたのは、どこかのお坊さんが唱えるお経のような、単調で低音の歌。

 月影香子は腰に手を当て、台所前に立つ山坂浩二の後ろ姿を眺める。

「ん? どうしたのかしら? 鼻歌なんか歌ったっちゃって。らしくないわねぇ」

 彼女はそう呟くと、

「浩二〜。何作ってるの〜?」

 と、自分に背中を向けている山坂浩二に話しかけた。

 だが、

「………………」

 返事がない。

 月影香子は、「さっきの声が山坂浩二には届かなかったのかな」と思い、先程よりも声量を上げてもう一度呼びかける。

「浩二〜。何作ってるの〜?」

 しかし、山坂浩二はお経のような歌を口ずさむだけで、月影香子の声には反応を示さない。

 月影香子は、二メートル先にいる山坂浩二の後ろ姿を睨みながら、

「浩二!」

 と叫んだ。

 しかし、反応はない。

 こんなに近い距離で聞こえないはずはない、と思った月影香子はもう一度呼びかける。

「浩二!!」

 百メートル先にいたとしても容易に聞き取れる声だったが、山坂浩二はぴくりとも反応しない。

 ただ。歌いつづけるだけ。


 あれ? これって、もしかして…………。

 無視されてる?


 ついに堪忍袋の緒が切れた月影香子。彼女はダンダンと大きな足音をたてながら山坂浩二のもとへと歩き、彼の右肩を右手で掴んだ。

 ここまでされても、彼はまったく反応しない。

 月影香子は歯ぎしりをして、

「無視してんじゃないわよおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉ!!」

 と大声を張り上げて、山坂浩二の体を強引に半回転させて自らと向き合わせた。

 彼女は山坂浩二の顔を怒りのこもった目で睨む。

「あんたねぇ!! 無視ってんじゃ……………」

 途中まで山坂浩二に怒声を浴びせていた月影香子。しかし、睨み続けているうちに彼女はようやく彼の異変に気づいた。

「……って、どうしたのよ浩二!?」

 彼女は山坂浩二の両肩を押さえて、彼の体を揺さぶる。

「どうしちゃったのよ!?」


 目は虚ろで。

 焦点は定まってなくて。

 口は半分開いてしまって。

 身体に力がまったく入ってない。


「ねぇ! ねぇ! ねぇってばあ! 聞こえてる!?」

 月影香子は山坂浩二の身体を激しく揺さぶりながら、大声で問いかける。

 揺らされるがままに揺らされている山坂浩二。

 彼は揺らされているうちに、口を少しだけ動かし始めた。

 まだ、声は出ていない。

 月影香子は彼がようやく反応を示したのかと思い、動き始めた口からどんな言葉が出てくるのか、今か今かと彼の口を見つめていた。

 そして、

「……つ〜」

 声が出た。

 山坂浩二の声を聞いた月影香子は、虚ろな目をしたままの彼を揺さぶりながら、

「それから? ……それからなによ!?」

 と半分脅しているかのように尋ねた。

 しかし、山坂浩二は輝きを失った目をしたまま、月影香子に揺らされるがままに頭を前後左右に動かしているだけ。

 しかし、そんな山坂浩二も、ついに声を出した。

「……つ〜」


 先程と同様の声を聞いた月影香子は、山坂浩二の体を揺さぶるのを止め、彼の両肩に手を置いたまま彼の虚ろな目を見つめる。

 山坂浩二の頭はちょうど上を向いたところで停止していた。


 そして、

「……つ〜」

 ついに返事がっ!?


 月影香子は唾を飲んだ。

 ごくり。

 その音は部屋の中全体に伝わっていく。

 そして。

 彼の口から!?


「つ〜き〜かげさんにぃ〜殺さぁれぇるぅ〜」

 再びお経のような歌!

 月影香子は“えっ!?”とでも言いたそうに、口を半開きにし、目を見開いて山坂浩二の顔を凝視する。

 そして、彼の歌にはまだ続きがあった。

「む〜ね〜はぁちいさぁく〜きゅっきゅっきゅっきゅ〜」

 山坂浩二は歌うのを止め、虚ろな目をしたまま口を半開きにして、ほんの少しだけ笑っていた。

 月影香子は山坂浩二を凝視したまま。思う。


 おい、こいつ。

 いま何て言った?

 胸が……小さい?

 きゅっきゅっきゅっ?

 月影さんに殺されるだと?


 月影香子は歯ぎしりをしながら、山坂浩二の肩から右手だけを離した。そして、その右手の拳を自分の顔の横で握りしめる。

 彼女の身体全体がさまざまな感情によって震えている。

「た、たしかに」

 驚愕で。

「う、ウエストの細さには自信あるわよ」

 屈辱で。

「で、でもね」

 哀愁で。

「あ、あんたなんかに」

 怒りで。

 情けなさで。

 震えていた。

 自分のコンプレックスを、

 変な替え歌なんかで、

 歌われたくない!

 許せないという気持ちが、

「言われたかないわよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!」


 爆発した!


 月影香子は山坂浩二の頬を右手で渾身の力を込めて平手打ちをした。

 もともと全身から力が抜けていた山坂浩二は、あまりの威力に耐え切れず、空中で身体の頭からつま先までの線が床と平行になって一メートルほど飛び、横向きで床へと着地。

 床で横向きに倒れた山坂浩二は、両手を顔の前で伸ばして床につけ、目を閉じて身体を痙攣させている。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 月影香子は平手打ちを繰り出した体勢のまま動きを止め、目を見開いて静かに山坂浩二を見つめていた。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 あれ?

 ひょっとして。

 …………やり過ぎちゃった?

 月影香子の額に大粒の汗が浮かぶ。

 冬なのに。

 暑くないのに。

 寒いのに。

 月影香子は困惑の表情で山坂浩二を見つめ続ける。そして思う。


 あれ?

 そういえば。

 なんでこんなことになったんだっけ?

 えーと。確か。

 リビングに入ったら、浩二が自分に背中を向けたまま歌ってて。

 呼んでも返事が無くて。

 強引に振り向かせたら。

 目が虚ろで。

 口は半開きで。

 体はふにゃふにゃ。

 それで。いきなり歌い始めて。

 月影香子に殺されるとか。

 胸が小さいとか。

 きゅっきゅっきゅっ。とか。

 言うからつい“かっ”となって殴り飛ばしたんだ。

 でも。あれ? 待てよ。

 浩二はいったい。

 なにやってた?

 確か。台所に立っていて…………!


 月影香子は不安に思い、おそるおそる顔を台所の方向に向ける。

 目についたのは。

 火のついたガスコンロ。

 フライパン。

 フタ。

 弱火。

 あれ。なんだかとっても。

 嫌な予感。


 月影香子は床を蹴って山坂浩二のもとへ一目散に駆け寄る。

 山坂浩二のそばまで来た彼女は、しゃがんで彼の両肩を掴み、揺さぶる。

「ちょっと! 起きなさいって!!」

 彼女は叫んだ。

 すると、山坂浩二はゆっくりと目を開き、

「あれ? 月影さん?」

 と返事をし、

「どうしたんですか。そんなに慌てて」

 と、キョトンとした表情をして尋ねた。

 彼の目には輝きが戻り、体から力も抜けてはいなかった。

 月影香子はそれを確認すると、ほんの少しだけ安心したが、

「どうしたんですかじゃないわよ!」

 と、焦りながら言った。

 そして、彼女は台所を指差し、

「あんた」

 山坂浩二の、輝きが戻った目を見つめて、

「何作ってたの?」

 と尋ねた。

 山坂浩二は床に手をつけて上半身を少し起こし、月影香子が指差す方向を覗き込むようにして見た。

 その方向にあったのは、ガスコンロ。

 その上にはフタをされたフライパン。

 そして、フライパンの下で揺らめく小さな青い炎。

(確か、目玉焼きを作ってたような………)

 山坂浩二はしばらくフライパンを見つめたままでいた。

 作り始めてからどれくらい経っただろうか。

 山坂浩二の頭には、そのような疑問が浮かび上がってきた。

 彼にとってはほとんど時間は経っていないように感じられた。しかし、それと同時にかなりの時間が過ぎたようにも思えた。

 山坂浩二は、彼のそばでしゃがみ込んでいる月影香子をよそに、両手で床を押して上半身を完全に起き上がらせた。

 そして彼はそのまま立ち上がった。月影香子は彼の顔を目で追うが、山坂浩二は彼女を見ない。

 山坂浩二はゆっくりと、ガスコンロに向けて歩き出した。月影香子は彼の背中を眺める。

 ガスコンロの前に到着した山坂浩二は唾を飲んだ。

 フタをされたフライパンからは油が弾ける音。

 彼はおそるおそる手を伸ばす。

 そして、彼はフタの中央にある黒い突起物をつまんだ。

 山坂浩二は再び唾を飲む。

 そして、彼は勢いよくフタを取った。

 フライパンの中が明らかになった。

 彼の目に入ってきたのは、二つの目玉焼き。

 長時間の加熱によってガチガチに固まっている。

 山坂浩二は目を見開く。ついでに口が半開きになる。

 そして、

「わあああああああああああああ!!」

 彼は両手で頭を抱えて絶叫した。




「もう。目玉焼きが固いぐらいでくよくよしないの!」

 朝食の準備を済ませた二人は、こたつを挟んで座っていた。

「でも、僕は完熟より半熟のほうが好みなんですよ」

 山坂浩二は皿に乗せられた目玉焼きにケチャップをかけながら言った。彼の視線は下を向いており、月影香子を見ていない。

「それにしても、なんで目玉焼きにケチャップかけるのよ」

「おいしいからです」

 山坂浩二はケチャップの容器のフタを閉めた。そして、月影香子に差し出す。

「でも味付けがケチャップだけっていうのもねぇ」

 彼女は嫌々言いつつも酸味のある赤い液体が入った容器を受け取り、フタを開けて目玉焼きにそれをかけ始める。

「まあ、嫌いじゃないけどね」

 月影香子はケチャップをかけ終えると、その容器をテーブルの中央に立てて置いた。

 山坂浩二は月影香子を見ずに、赤く染まった目玉焼きを一口かじる。

「うわっ。ぱさぱさする」

 そう言いつつも、彼は目玉焼きをもう一口で食べ終えた。そして味噌汁をすする。

「ねぇ、浩二?」

 月影香子は呼びかけた。

「なんですか?」

 山坂浩二は味噌汁の入ったお椀をテーブルの上に置き、顔を上げた。

 月影香子はこたつの上に並べられている朝食のメニューをまじまじと眺めている。

「……食パンないの?」

 彼女は箸を皿の上に置き、両手を膝に乗せて尋ねた。

 山坂浩二は右手に箸を、左手に茶碗を持ったまま、静かに月影香子を眺めていた。口はもごもごと動いていたが、やがて飲み込む。

 そして、口を開いた。

「……まだ……食べるんですか?」

 彼は月影香子の手前にある茶碗を眺めた。それには、まるでお供え物のように米が大量に盛られている。

 山坂浩二は信じられないといった目を彼女に向け、

「……もう、ご飯は残ってませんよ。月影さんが全部食べちゃったじゃないですか。」

 と、冷めた声で言った。

 月影香子は彼の発言を聞くと、下がっていた目線を上げ、山坂浩二の目を見つめた。彼の目からは幻滅感のようなものが、彼女には感じられた。

 月影香子はキョトンとした目で山坂浩二を見ていた。しかし、彼から幻滅感が漂う理由がわかると、一瞬にしてその顔が朱く染まった。

 月影香子はこたつに両手をつけた。そして身を乗り出し、

「ち、違うわよ! もっと食べたいってことじゃなくてただ食パンとハチミツがあるかどうか聞いてみただけなんだから!」

 と、早口で声を張り上げた。

 山坂浩二は身を引いて、

「す、すいません。ないです」

 と答えた。

 月影香子は体勢をもとにもどしながら「あっそ」と吐き捨てた。そして、腰を床につけると茶碗を持って大量の御飯を食べはじめた。

「……まあ、朝ごはんがお米ってのも悪くないけど」

 月影香子は味噌汁をすすり、

「あたし、いっつもハチミツ食パンだから。なんか変な感じ」

 と呟いた。

 山坂浩二は米を飲み込み、

「まあ、僕の昼ご飯の分まで食べてますけどね」

 と呟き、

「いつもは、どのくらい食べてるんですか?」

と尋ねた。

「……一斤」

「……一日で、ですか?」

「違うわよ。朝だけ」

「……食べすぎじゃないですか?」

「朝はしっかりと食べなきゃいけないの。それに、朝たくさん食べても全然太らないし」

「……でも、一斤は食べ過ぎだと思います」

 山坂浩二は呆れたように目を細め、

「それに、ハチミツもかけてるんですよね?」

 と、尋ねた。

「そうだけど?」

 月影香子は、まるでそれが当たり前であるかのように答えた。

「……全部に、ですか?」

「そうだけど?」

 山坂浩二の問いかけに、彼女は即答した。

 山坂浩二はため息をつく。そして尋ねる。

「いったい何キロカロリーあると思ってるんですか? 軽く千はいってると思いますよ」

 彼は味噌汁の最後の一滴を飲み干すと、こたつの中央に置かれている皿の上のりんごを一切れつまみ、半分ほどかじった。

 月影香子は山盛りの御飯を順調に減らしている。山坂浩二の問いかけの後、口の中で細かくされた米を飲み込んで答えた。

「まあ、それくらい普通じゃない?」

 彼女は口を尖らせ、

「だいたい大きなお世話よ。いっつもばかみたいに動いてるんだから大丈夫なの。人の勝手じゃないの」

 と、不服そうに言った。

「まあ、そうですけど」

 山坂浩二は半分残ったりんごを口にほうり込み、

「ちゃんと自炊とかしてるんですか?栄養バランスが崩れると身体に響きますよ」

 と、単調に言った。

 月影香子は味噌汁を飲み干し、お椀をこたつの上に置いた。大量に盛られていたはずの御飯はすでに茶碗の中から姿を消している。そして目玉焼きもすでにない。

「ちゃんとやってるわよ」

 月影香子はりんごに手を伸ばし、

「朝はパン。お昼は食堂で。晩は自炊。晩ごはんぐらいは自分で作ってるわよ」

 と言ってりんごを一切れつまみ、それをほんの少しだけかじった。

 山坂浩二は“はぁ〜”という、頷きの反応を示すだけだった。

「だいたい、誰があんたにチョコを用意してあげたと思ってんの?」

 月影香子は眉間にシワをよせ、りんごを一切れつまんで尋ねた。

 山坂浩二は、はっとしたように目を見開き、

「あ、あの、あれ。ありがとうございました」

 と、左手を膝の上に置き、右手で頭をかきながら言った。視線は下を向き、頬は段々と赤くなってきている。

 月影香子は目を細め、

「で?」

 とだけ言った。

「えーと、その……」

「…………」

「おいしかったです。とても」

「……そ、そう?」

 月影香子は目線を山坂浩二からそらした。

「あの、顔赤くなってますよ?」

「うるさいうるさいうるさいうるさい!」

 彼女は恥ずかしさを隠すかのように声を上げ、

「ど、どんなところが?」

 と尋ねた。

 山坂浩二は天井を見上げて“うーん”とうなりながら考え、

「……隠し味。ですかねぇ」

「別に入れてないわよそんなの」

 月影香子は即答すると、りんごに手を伸ばした。

「あれ。そうなんですか。僕の思い違いですか」

 山坂浩二は少し落ち込んだように言うと、彼女と同様にりんごをつまんだ。

 月影香子はりんごをかじりながら、

「…………まあ、入れたけど」

 と呟いた。

「なにか言いました?」

「なんでもないわよ!」

 月影香子の顔は赤く染まったままだった。




「「ごちそうさまでした」」

 りんごを食べ終えた山坂浩二と月影香子は、顔の前で両手を合わせた。小さな窓からは、朝の光が入り込んでいる。

 山坂浩二は両手を膝の上に下ろし、

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど……いいですか?」

 と尋ねた。

 月影香子も両手を膝の上に下ろし、

「ん? いいわよ」

 と答えた。

 山坂浩二は布団の下で伸ばしていた両脚を自らのもとへと引き寄せ、正座をするかたちになった。

「えーっと。柳川友子さんって知ってますか?」

「…………知ってるけど?」

 月影香子は眉間にしわを寄せ、

「ただの知り合いよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「そうなんですか?」

「そうよ」

 彼女は軽くため息をついて、

「とにかく。あの子についての話はしたくないの。だからもういい?」

 と何かを隠すように早口で言った。

 山坂浩二はどこか不満げに目を細めた。しかし、彼はすぐに目をもとの大きさまで開いた後、

「はい。ありがとうございました」

 と、頭を下げて言った。

 月影香子は顔の前にちらついていた自らの髪の毛を、左手でそっと払いのけた。

「あたしにも聞きたいことがある」

「……なんでしょうか」

「なんで。敬語なの?」

 彼女はゆっくりとした速さで尋ねた。

「それは…………」

 山坂浩二は一瞬言葉に詰まり、

「女の子に対してはそうなってしまうんですよ。なぜだか知りませんが、僕はずっと女の子に避けられ続けているせいで、女の子が怖くなってしまったんです。だから自然と敬語になるんです」

 と、早口で答えた。

「ふうん。で、女の子が怖いからあたしにも敬語ってわけね」

 月影香子はため息をつき、

「……ヘタレ」

 と山坂浩二に向けて言い放ち、

「まあ、昔から情けなかったわね。見た目も頼りなかった。十年経った今でも変わってないわね、あんた」

 と言った。

「……まあ、ときどきかっこよかったけどさ」

 彼女の呟きは山坂浩二には聞こえない。

「とりあえず、私からの質問は終わりよ」

「……じゃあ、僕から質問していいですか」

「どうぞ」

 山坂浩二は深く息を吸って、息を吐いた。

「昨日、月影さんは傷だらけだったじゃないですか。何があったかは聞きませんが」

 山坂浩二は一呼吸置いて、

「どうして今日は傷が無いんですか」

 と尋ねた。

 月影香子は眉間にしわをよせ、彼が自分の裸を見たことを怒ろうとした。しかし、彼女は深呼吸をして自分を落ち着かせ、答えた。

「……自己回復能力」

 彼女は間を置いて、

「私たち、女の退魔師の能力。退魔師についてはこの前話したけど、あれはほんの一部の例にすぎないの」

「あ、あれですか。男は遠距離攻撃と浄化。女は武器を作って、身体能力を上げて、空を飛ぶってやつですね」

「よく覚えているわね」

 月影香子は感心したように言った。

「でも本当は、男の霊力は身体の外に作用して、女の霊力は身体の内に作用するの。ちょっとあいまいなんだけど。例えば、不可視の状態は女も男もなれる、とか」

 彼女は一呼吸置いて、

「男はやろうと思えば、結界を張ったり、遠くにいる仲間に意思を伝えたりできるみたい。女は近接戦闘に特化してるんだけど、生み出せる武器は人によって違うの」

 月影香子は両手を真横に広げた。

「例えばあたしは」

 彼女の指が震え、

「日本刀」

 月影香子は静かにそう告げた。彼女の両手からはうっすらと何かが現れたかと思うと、それはやがて、現代日本では本来の目的で使用されなくなったものへと姿を変えた。

 銀色に輝く刀身。黒いつばつか

 二本とも同じ外見をしている。刀身の長さはだいたい男子高校生の平均身長の半分ほど。

 山坂浩二は顔色を変えず、

「なるほど〜」

 と、言いながら感心していた。しかし、しばらくの無言の後、

「でも、危ないので早く片付けてください」

 と、目をだらしなく開けて冷たく言い放った。

 これにはさすがの月影香子もひるんだようで、抑揚のない胸を自慢げに張っていた彼女はこうべを垂れながら、

「はい、はい、わかりましたよーだ」

 と、まるで幼い子供のように言って、両手を震えさせた。銀色に輝く二本の刀はその姿を薄くぼやけさせ、やがて見えなくなる。

 月影香子の両手から日本刀が消えると、山坂浩二は安心したように“ふぅ〜”と息を吐いた。

「いやぁ、すごいですね。本物の日本刀なんて初めて見ました」

 彼は額の汗を拭うような仕草をし、感嘆した。

 しかし、月影香子はキョトンとした表情になり、

「なに言ってんの? 浩二。あれは霊力で作ったものだから偽物よ」

 真横に広げていた両手を床につけ、 

「あれは霊力で刀に似せているだけ。成分は鉄とかじゃなくて本物とは全く違うから、『刀のようで刀じゃない何か』って感じね」

 と淡々とした口調で言った。

「じゃあ、いったいなにでできてるんですか?」

 山坂浩二は口を尖らせながら尋ねた。

「だから言ったでしょ。霊力だって」

「だから、霊力ってなんなんですか?」

 月影香子は顎に指を当ててしばらく考え込んだ。

 そして、

「……科学の域を超えた存在?」

 彼女は頭を傾げて言った。

 山坂浩二はそっと頷き、

「……わかりました。要は幽霊といっしょなんですね。科学では説明できないんですよね」

「そう。科学じゃ説明できないの。でも『存在』してるのは事実。だから、科学で説明したかったら霊的科学っていう分野をつくるべきね」

「まあ、普通の人には見えませんからね。だから幽霊の存在も信じないんですよ。基本、人って目に見えるものでないと信じませんから」

「でも、浩二は信じてるんでしょ?」

「ええ、まあ。一応満月の夜だけ幽霊が見えますから。」

 山坂浩二は小さくため息をついた。

「信じるか信じないか以前の問題ですよ」

 山坂浩二は再びため息をついた。月影香子は睨むような目で彼を見つめ、

「じゃあ、なんであたしが退魔師ってことは信じてくれないの? さっき武器だって見せたし、この前は不可視の状態になってあげたじゃない」

「だってまだ月影さんが悪霊と戦うところを見てませんから。まだ、僕にとっては、『刀を出して姿を消したりする十年前の知り合い』でしかありませんから」

 月影香子はやや目線を落とした。何かを考えているようだ。

 少しの間考えた後、彼女は目線を山坂浩二へと向け、口を開いた。

「明日って、満月よね」

「はい。今月は明日、十八日が満月です」

「……明日の集合は、夜八時にこの家の前の河川敷広場でかまわないのよね?」

「はい、大丈夫です」

 月影香子はやや間を置いて、

「……あたし、ずっと気になっていたことがあるの」

「な、なんですか?」

「この十年間、ずっと悪霊たちの襲撃から逃げてきたんだけど」

 彼女は少しためらうように一呼吸置いて、

「満月の夜だけ異様な霊力を感じてたの。かなり強力で、悪霊かも、妖怪かも、人間かもわからないようなものをね」

 山坂浩二は何も言わず、ただ黙って彼女な話に耳を傾けていた。

「それはね、なんだか、浩二の霊力に似ているの。でも、なにかが違うの。とにかく変なのよ」

「……確かめに行ったりしなかったんですか?」

「悪霊に追われてそんな暇なかったわよ」

 月影香子は首を左右に振り、

「もし確かめに行ったとして、それが浩二じゃなくて敵だったら。あたしは人生を振り返る時間もなく死ぬでしょうね」

 と、ため息混じりに言った。

「……それほどまでに強力なのよ」

「…………」

 山坂浩二は無言だった。

「だいたい、たかが霊が見えるくらいの霊力を持った人間が、悪霊に襲われないなんてありえない」

「……そうなんですか?」

「動物が食べ物を欲しがるように、悪霊は他の存在の霊力を欲しがるの。でも、一般人を襲っても霊力の収穫は無いに等しい」

「……だから、霊が見える程度の霊力を持つ人間を襲えば、簡単に霊力が得られるって訳ですか」

「その通りよ。だから、あんたが悪霊の被害を受けてないことがおかしいの」

「……どういうことですか?」

「悪霊だって馬鹿じゃないわ。絶対に勝てないっていうくらいの力を持つ相手を襲ったりしないわよ」

「つまり、満月時の僕は、それだけの霊力を持っているって訳ですか?」

「……その可能性が高いのよ。だから、明日確かめる」

 彼女は間を置いて、

「でも、悪霊たちの霊力が馬鹿みたいに上がる時に、やつらを圧倒するほどの霊力をもつ存在なんて、あたしが知ってる山坂浩二か一部の妖怪くらいだから」

 月影香子は床につけていた手を脚の上に置いた。

「……それに、まだあんたに信じてもらってないから」

 彼女はやや目線を下にして、どこか淋しげな表情をした。しかし、すぐに目線を上げ、山坂浩二をまっすぐに見つめる。

「だから、明日の約束……」

 月影香子は息を呑んで、

「絶対守ってよね」


 その言葉は、山坂浩二に“いいえ”とは言わせないほどの力を持っていた。




 その後、二人は別々に家を出て、彼らの通う高原高校へと向かった。

 この日、二人は学校で会うことはなく、また、山坂浩二は普段となんら変わらない学園生活を送った。




 そして、夕方。

 アパートに帰り着いた山坂浩二は、階段を上りきった二階の外の廊下で、自宅の玄関のドアノブにビニール袋がかかっているのを見つけた。

「ん? なんだあれ?」

 山坂浩二は一番奥の扉まで歩き、そのレジ袋を手に取った。

 中には先日月影香子に貸したジャージと、ハチミツの入った手の平サイズのボトルと、袋で閉じられた食パンがあった。

 夕日に照らされながら、彼は袋からジャージを取り出した。すると、何かが床に落ちた。

 彼はしゃがんでそれを手に取った。

 二つに折り畳まれた小さな紙切れだった。

 彼はそれを開いてみた。すると、そこには、


『ジャージありがとう。これ、ほんのお詫び。月影香子より』


 とだけ書かれてあった。

 山坂浩二はほんの少しだけ笑みを浮かべ、立ち上がって自分の部屋へと入って行った。




 そして夜。

 入浴を済ませ、今日の晩御飯を用意した山坂浩二は、彼はめずらしく二階の廊下へと出てきた。

 彼は、廊下の手摺りに両肘を置いて、目の前に広がる銅鏡川とその河川敷広場を眺めはじめた。

「退魔師か」

 彼はため息混じりに呟く。

「俺っていったいなんなんだろうな。何者なんだろうな。満月の時だけ霊が見えて、記憶喪失で、女の子に避けられて、月影さんの話を普通に受け入れるなんて」

 彼は空を見上げる。

 彼の視線の先ではほとんど満月に近い月が、彼らの住む街を静かに照らしながら夜空に浮かんでいる。

「明日、少しでもわかるといいな」

 彼は月を見つめながら願うように言った。

「明日は満月。か」

 彼は少し息を吐き、

「約束。守らないといけないな」


 しばらくの間、山坂浩二は夜空を静かに眺めていた。







 次からいよいよ満月の話ですね。だんだんとクライマックスに近づいています。


 また、プロローグからこれまで、あまり時間が無いためほとんど推敲せずに投稿しています。後日、時間があれば修正するつもりです。


 非常に読みにくく、退屈な物語ですが、最後まで読んでくださると作者としては大変嬉しいです。




 大学受験生がこんな小説書いてて本当に大丈夫なんでしょうかね?




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ