第十八話 誇り高き少女②
十分後、月影香子は退魔師残党の訓練場に降り立った。
見た目は何の変哲もない倉庫だ。外面は灰色で、バスケットボールのコートが八つは入る大きさ。高さはビル五階程度だろう。正面はシャッターが下りていて、長年使われていない雰囲気を出している。
正午は過ぎているが、日はまだまだ高い。
月影香子は倉庫を見上げた後、半霊体化をやめ、側面の非常口へと向かった。高さ二メートルほどの扉の前に立ち、ドアノブを回して扉を恐る恐る押し開いていく。
倉庫内を覗き込むように顔を前に出していく月影香子。彼女の表情は平静を装っていたが、中の様子がわかると同時に肩を落とした。
「やっぱり、誰もいないわよね」
彼女は目線を床に下げて倉庫内に足を踏み入れる。
誰かがいるかもしれないという期待は、わずかながらにあったのだろう。しかし、戦意を喪失した退魔師たちは当然のようにそこにはいない。戦いを拒否している者が、訓練など行うはずがなかった。
月影香子は両目を固く閉じて首を左右に振った。
おそらく気持ちを切り替えるためだろう。
再び前を向いた彼女の表情は、先ほど見せたような落胆の色など微塵も感じられず、引き締まったものに変わっていた。
月影香子がこれから行おうとしていること。
そのための覚悟を決めているかのようだった。
倉庫内を歩き、ちょうど中央に着いたところで、彼女は正面のシャッターに体を向けて立ち止まった。
「さてと、ここで来るのを待ってるわよ」
月影香子はそう呟くと、それ以来は倉庫設備に用を足しに行く場合を除いて、その場に立ち尽くした。
やがて日は暮れ夜が訪れる。
彼女はこれまで口を開かずにいたが、何かを感じたのか右後ろに顔を向けた。目線の先には何もない。あるのは倉庫の静寂のみ。
そこで、月影香子は眉をひそめた。
「この霊力は、友子? それにしては、やけに弱いわね。たぶん、またバカみたいな修行でもしてるんでしょうけど」
彼女はそう呟くと、正面に顔を向け直した。
両目を閉じ、ため息をつく。
「あんたを止めるのはもう少し先になりそうね。だから、あたしがあんたのところに行くまでは、好きなようにやってなさい」
月影香子は天井を見上げた。
夜になり、電灯もつけていないので倉庫内は暗闇に包まれている。ただ、半分より少し欠けた月が南西に出ているので、明かりがないというわけではない。
「待つのにも疲れたわね」
月影香子はどこか落ち着かない様子だ。体をわずかに揺らしたり両手を閉じたり開いたりしている。
ついには倉庫の中を歩き回り始めた。
彼女がこの場所にいる目的は定かではないが、残党を立ち直らせるための第一歩をここで踏み出すつもりではあるのだろう。
しかし、
「ああ、もう我慢ならないわ!」
と、ついには不満が爆発してしまったようだ。両拳を握り締め、天井に向かって大声で叫んだ彼女は、右手に一本の日本刀を作り出し、その場で素振りを始めた。
「あたしが! ここで! 訓練! してるんだから! はやく! 来なさいよね!」
右腕一本のみの素振り。そのリズムに合わせて月影香子は声を上げる。銀色の刃が空を斬り、回数を追うごとに少女の気迫が増していく。
月影香子が訓練を開始してから一時間ほど経ったころ、倉庫内に変化は訪れなかった。彼女は右手の日本刀を青色の霊力の粒子に変化させて体に取り込み、今度は左手に日本刀を作り出した。
形状はまったく同じだ。刀身は彼女の身長の半分ほど。
月影香子は汗を浮かび上がらせ、肩で息をしながら、左腕のみの素振りを行った。また同じように一時間ほど続けたが、訓練所に新たな人影が現れることはなかった。
次は両手に刀を一本ずつ持っての素振りだ。
その後は半霊体化しての飛行および飛行中の素振り。倉庫内を縦横無尽に飛翔し、空気をかき回していく。
「せい! やあ! はあああああ!」
訓練に熱が入り、月影香子は声でさらなる気合いを入れながら、夜通し体を動かし続けた。
朝日が昇る。
徹夜の訓練でさすがの月影香子も疲労が溜まったのか、コンクリートの床に腰を下ろした。汗が引き、呼吸が落ち着く。
彼女は両手を床につけて天井を見上げた。窓がいくつかあるので、倉庫内に日光が差し込み、天井まではっきりと見える。
天井には数十個の電灯が設置されていて、その一つ一つが外的な衝撃で割れないように柵で覆われている。
月影香子は深く息を吐いた。
「結局、昨日は誰も来なかったわね」
物悲しそうな表情。
朝の澄んだ空気の中で、退魔師の少女は目を閉じた。
数秒の静寂の後、開かれた彼女の双眸は再び強い決意を宿していた。
「こうなりゃ我慢比べだわ。あの人だけは、近いうちにここに来るわ。残党の仲間が訓練所にいることを期待して、一人で様子を見に来るはずなのよ」
月影香子は右手を腹に当てる。
下がりかけたまぶたを左手の指でなでる。
「眠いしお腹も減ったけど、チャンスを逃すわけにはいかないわ。ここに来たとき、あの人の残党を立ち直らせたいという気持ちが一番高まってるはずだから。あたしがここを離れるわけにはいかない」
そうして、彼女はまた、一日中訓練所に留まった。
用を足したり、訓練をしたりする以外は、床に座って正面のシャッターを睨み付けていた。だが、時が経つにつれて訓練の時間が長くなり、日没を迎えてからは休むことなく体を動かし続けた。
月は昨日よりも満ちていた。
山奥で命がけの修行をしている少女の気配も感じ取っていた。
やがて月は沈み、
そして再び日は昇る。
月影香子は正面のシャッターに背中を預けて立っていた。一睡もせず、喉に何も通さず、激しい訓練を行いながら待ち続けた。
それでも、待ち人は現れなかった。
疲労が一気に押し寄せてきたのか、彼女は天井を仰ぎ見ながら荒い呼吸をしていた。眉間にしわが寄り、歯を食いしばって、意識を留めていた。
「二日待っても、来ないか……。これはもう、諦めて、あたしが直接説得しに行くしかないわね。さすがにお腹減ったわ……」
首を前に倒して、目線を床に移す。
「それにしても、月が出てる間は、あんまり疲れないのね。さくらの言った通りだわ。確かに、ほんの少しだけど、最近は日に日に霊力が大きくなってるのがわかる。村にいた頃は気づかなかったわね。この前の満月の夜までは、毎日のように悪霊に襲われてたからわからなかった」
月影香子は疲労の中に笑みを浮かべた。
「ほんと、あたしって何者なのよ」
そう呟き、彼女はシャッターから背中を離して歩き始めた。日本刀を一本作り出し、右手に持つ。
「待つのは今日で終わりにするわ。あんたは、ちゃんと来るわよね?」
彼女は言葉を漏らして、訓練に没頭した。
そして夕方。
ほぼ休むことなく訓練を続けた月影香子だったが、この頃になると訓練は行わなくなっていた。
手ぶらで、汚れたセーラー服のまま、倉庫内の中央で佇んでいた。正面シャッターには背を向けて、顔からは覇気が失われていた。
「さすがに、もう諦めたほうがよさそうね。体力的にも精神的にも限界だわ。もう待たない。何があろうとあたしからいってやるわ。これ以上待っても時間の無駄よね」
月影香子の声は弱々しかった。
「あの人は、必ず来てくれると思ったんだけどなあ」
寂しげな微笑み。
「まあ、考えが甘かったわよね」
そして、ふっと力を抜いた。
期待をしていたのだろう。残党のうちの誰かが、メンバーを思って訓練所に足を運ぶだろうと考えていたのだろう。
しかし、三日間待っても誰も来はしなかった。
信頼していたのに、裏切られたような気分だった。
いや、期待すること自体、自分勝手なことだったのだろう。待ち人を責めても仕方がない。一人で期待して一人で落ち込んでいるだけだ。
「あたしって、愚かよね」
そう吐き捨てて、月影香子は天井を見上げた。
窓から夕日が差し込んできて、倉庫内も鮮やかに彩られている。この赤色は、一日を無事に終えられたという安心感を与えてくれる。
彼女は柔らかに、口元を上げて両目を閉じた。
「そろそろ帰ろっか」
それは、待つのをやめるという宣言だった。
甘いことを言っている場合じゃない。
自ら行動を起こさなければ、何も変わらない。
そんな意味が込められた言葉だったのだろう。
そのとき、
彼女の後ろから、扉の開く音が、聞こえてきた。
月影香子は目を見開いた。疲れ果てた表情は消え去り、目力が宿る。急いで振り向いた。それに少し遅れて、彼女の長髪が波打つ。
非常口に人影。
月影香子は心底驚いたようで、口を小刻みに開閉しているものの声が出ていない。言葉が喉で止まっている。
訪れた人物も驚いてはいるようだが、月影香子よりも余裕はあるようだ。
彼女が口を開く。
「香子、ちゃん……?」
聞き覚えのある、優しさに溢れた声。肩のあたりからウェーブしたダークブラウンでセミロングの髪。スラックスタイプのスーツに包まれた、グラマラスな体。
「紗夜、さん……?」
月影香子の口から漏れた言葉。
それは、浄化の退魔師残党の副リーダーの名前。その人、水谷紗夜こそが、彼女が三日間待ち続けた女だった。




