第十七話 誇り高き少女①
三月十一日金曜日。
学年末試験のすべての科目が終わり、多数の生徒が開放感に満たされている頃。月影香子が在籍する一年一組でも帰りのホームルームが行われ、その後はクラス全員で教室の掃除を簡単に済ませて下校となった。
教室掃除でモップ掛けをしていた月影香子は、廊下の掃除道具置き場までモップを戻しに行っている。他の生徒の分も全部まとめて持ってきており、片手に二本ずつ。先端部分はそれほど大きくないので負担にはならない。ただ、校内は土足で移動するので、彼女が持っているモップは黒ずんでいる。洗うためのバケツに入れた水も、掃除が終わった後は真っ黒だ。
月影香子は顔色一つ変えずに歩き、モップを掃除道具置き場に吊るすと、軽い足取りで教室へ戻って行った。
下校する生徒たちとすれ違う。部活動が面倒くさいと愚痴をこぼす者。友人と遊びの相談をする者。教室で弁当を開く者。さまざまだ。
自分の机まで戻ってきた月影香子は、机の横に掛けてあった黒の学生鞄を右手に取ると、すぐに教室から出て廊下の喧騒へと足を踏み込んだ。
彼女は引き締まった表情で廊下を歩いていく。拳は握られ、一歩ずつ踏みしめるような足運び。試験が終わってどこか気の抜けた生徒たちが大半を占めるなか、月影香子は浮いた存在だった。
中央階段のあたりまで来ると、月影香子は一年五組の教室へと顔を向けた。教室の窓や扉は開いているが、中はまだ騒がしい。多数の生徒が雑巾や箒、モップを持って廊下と教室を行き来している。
月影香子は鼻で笑うと、
「遅いわね」
と呟いて中央階段へ向き直り、そのまま下の階に向かった。
校舎から出て、すぐに校門を抜ける。腰を少し通り過ぎる長さのポニーテールを揺らしながら、月影香子は歩道を歩いていく。横断歩道を渡り、アーケードを抜け、大通りを横切り、銅鏡川沿いの道路に入る。
「はあ。ここを一人で歩くのにも慣れてしまったわね。浩二と出会うまでは、学校には飛んで行ってたもんね。まさか、歩いていくのがこんなにもいいものだとは思ってもいなかったわ。浩二と友子と一緒に学校に行って帰るのは本当に楽しかった」
月影香子は寂しそうに笑みを浮かべた。
平日の正午の時間帯だからか、人通りは少ない。河川沿いのこの道を走る自動車もない。銅鏡川に沿って植えられている桜の木は、つぼみを作る前の段階にあるらしく、春の到来がまだ少し先であることを教えてくれる。
寒さが和らいでいる、冬と春の間。
別れがあっても、新しい出会いはほとんどない。
月影香子は満たされない表情をしながらも、歩みを止めることはなかった。
「テストは終わった。たぶん、全部平均点は超えてるはずだわ。これで留年はない。浩二と友子と一緒に二年生になれる」
彼女はポニーテールの根本に両手を添える。
「でも、そのためには、まだやらなくちゃならないことがあるわ。さくらと宗一が何を考えているのかは知らないけど、あの二人の思い通りにさせてはいけないのよ」
その女子高生は両目を静かに閉じると、髪を留めていた茶色のヘアゴムを外し、頭を左右に振った。
ひざ裏まで伸びたその艶やかな黒髪が、彼女の動きに合わせてうねる。
髪を下ろした月影香子はゆっくりと両まぶたを上げた。
「ここからが本番。あたしたちは、絶対に屈しないわ。さくら、宗一」
その退魔師の少女は目つきを鋭くして、アパートへと帰っていった。
月影香子は自室に戻ると、制服姿のまま昼食をとった。生卵や梅干し、味付け海苔を大量に使いながら米を五合平らげ、食器を流しに置くと、部屋の鍵だけを持って外へと出ていった。
鍵を閉め、ドアノブを軽くひねって施錠の確認。
扉に手ごたえがあることがわかると、月影香子は外廊下の階段を歩いて階段を下り、アパートの物陰に隠れる。
周りに人がいないことを入念にチェックして、半霊体化を行った。
これで、強い霊力を持たない人間には彼女の姿や声が認識できなくなる。月影香子は小さく息を吐いてアパートの駐車場に出ると、何の躊躇いもなしに空へと飛び上がった。未来橋付近にある標高百メートル程度の山を見下ろせる位置まで来ると、彼女は訓練所のある北方向に顔を向けた。
「秀さん、紗夜さん、友子。この三人のうち、最初に誰と話さなきゃいけないのかはそんなに考えなくてもわかるわね。でも、問題はその方法よね。あたしはまだ一人。だから、押し掛けて説得するのは無理」
月影香子は肩を落としながらため息をついた。
「あの人なら、あたしの所に来るのを待ったほうがよさそうね。訓練所で体でも動かしながら気長に待つとしましょうか。あの人さえ味方に付けば、残党を立ち直らせることに時間はかからないはずだから」
彼女は活気に満ちた表情で、わずかに口元を上げる。
それは自信の表れなのだろう。
そして数秒間の沈黙の後、月影香子は訓練所に向けて全速力で飛翔した。