プロローグ〜世界を見下ろす「正義」の社交場
ロンドンの中心地、ウェストミンスター。
歴史あるビッグ・ベンのすぐ近くにある、クイーン・エリザベス2世・カンファレンス・センターの会議室は、ひどく冷めた空気に包まれていた。
二◯XX年、夏の終わり。
きらびやかなスーツを着た各国のエリート外交官たちは、手元の資料を退屈そうに眺めている。
そこに書かれているのは、東欧の小さな国・モルタヴィア共和国で起きている内戦のデータだ。彼らにとって、それは遠い異国の「ただの数字」に過ぎなかった。
そんな冷え切った壇上に、一人の女性が歩み出る。
名前はエレナ・ポパ。
つい最近まで、モルタヴィアの首都キシナヴィアで歴史の授業を教えていた普通の女性だ。
彼女の着ている服は酷くボロボロで、手は泥と傷で荒れ果てている。
けれど、その瞳だけは、凍てつく冬の嵐のように鋭く、強く燃えていた。
エレナは、用意されていた英語の原稿を迷わずゴミ箱へ捨てた。そして、マイクを両手で強く握りしめ、冷淡な各国の要人たちをまっすぐに見据える。
「みなさん」
彼女の声がマイクを通してスピーカーから響いた瞬間、お喋りをしていた外交官たちの動きがピタリと止まった。
「みなさんがこの綺麗な部屋で、温かいコーヒーを飲みながら『平和的な解決』なんていう格好いい言葉を並べている今も、私の故郷では人が獣のように殺されています」
エレナは、固い唾を飲み込んで、言葉を続けた。
「私は、難しい政治の話をしに来たのではありません。あなたたちが書類の上で処理している『犠牲者数』という数字の裏にある、人間の生々しい悲鳴を伝えに来たのです」
彼女は、大国の軍事力に支えられたトランス・ドニストール陣営の代表団を指さした。
「今年の3月。私の住む町にやってきたのは、昨日まで『隣人』として一緒に笑っていたはずの男たちでした。彼らは最新の武器を構え、笑顔のまま私たちの家に押し入ってきたのです。彼らは私の夫と、まだ幼い娘を銃口で脅し、床に組み伏せました」
『ここは俺たちの土地だ。モルタヴィア人の居場所なんてない』
「男たちはそう言って笑いました。私たちはただ、自分たちの言葉を話し、普通に暮らしていただけなのに……。彼らは大国の力を後ろ盾にして、私たちの日常をめちゃくちゃに踏みにじったのです」
会議室は、水を打ったように静まり返った。
「彼らは私の目の前で、夫の頭を撃ち抜きました。血が床一面に広がっていくのを、私は娘を抱きしめながら、ただ見ていることしかできませんでした。泣き叫ぶ娘の髪を掴み、彼らのリーダーはこう言ったのです。『この地は偉大な大国のものだ。お前たちのようなネズミに吸わせる空気はない』と」
エレナの言葉は、激しい怒りを超えて、聴衆の心に刃のように突き刺さっていく。
「夫を殺された後、私たち女性を待っていたのは、言葉にすることすら恐ろしい地獄でした。不法に作られた収容所に閉じ込められた私たちは、夜になるたび、男たちの部屋へと引きずり出されました。それは単なる兵士の暴走ではありません。私たちの心と身体を徹底的に破壊し、二度とこの土地で立ち上がれないようにするための、冷酷に計算された戦略だったのです」
「彼らは言いました。『お前たちに俺たちの血を植え付けてやる。そうすれば、二度と歯向かえないだろう』と。
これを『ただの内戦』なんて言葉で誤魔化さないでください。これは戦争なんかじゃない! 巨大な隣国が、操り人形を使って仕掛けた、むき出しの『軍事侵略』です!」
エレナは、ボロボロになった左手の手首を突き出した。不自然に歪んだ傷跡が、生々しく残っている。
「彼らはただ人を殺しているのではない。モルタヴィア人という存在そのものを、まるで、民族ごと根絶やしにするような暴力と恐怖でこの世から消し去ろうとしているのです」
壇上の女性は、会場にいる大国たちの席をゆっくりと見渡した。
「私たちは、あなたたちに『かわいそうに』と言ってほしいわけではありません。お金や食べ物を恵んでほしいわけでもありません。私たちが求めているのは、あなたたちが掲げる『国際正義』が、ただの綺麗事ではないという証明です」
「あなたたちが『双方、冷静に話し合ってください』なんていう無意味なメッセージを出すたびに、侵略者たちは裏で大笑いしています。国際社会が、大国の顔色をうかがって、小さな国を見捨てることを知っているからです」
「みなさん、悪党を前にして『中立』を気取るのは、平和主義ではありません」
「目の前の虐殺を見て見ぬふりをするのは、犯人に味方しているのと同じ、最悪の共犯です!」
エレナは演台から一歩、後ろに下がった。その背筋は、各国の代表団を前に語り始めたときよりもずっと気高く、まっすぐに伸びている。
「私の夫の遺体は川に捨てられ、私の家は奪われました。でも、彼らは私の声まで殺すことはできなかった! 私は、故郷を追われたすべての女性たちの、そして悔し涙を流しながら死んでいった人たちの代わりに、ここにやって来ました」
「もしあなたたちが、この快適な会議室で何も行動を起こさないのなら、いつか世界中で同じ地獄が繰り返されるでしょう。その時、あなたたちは自分の子供たちに、どんな言い訳をするつもりですか?」
エレナは一礼もせず、鋭い眼差しを残したまま、堂々と壇上を降りた。
会議室には、重苦しい、息が詰まるような静寂だけが残された。拍手をする者すら誰もいない。ただ、窓の外でロンドンの霧が濃くなっていくように、暗い影が、その場にいる全員の心を締め付けているようだ。
その直後、呆けたように壇上を見上げていた記者たちが、ようやく自分たちの職業を思い出したかのように舞台の脇を歩く女性に殺到する。その姿を逃すまいと、各国の新聞、テレビ局のカメラがエレナのあとを追うように一斉に焦点を合わせ始めた。
そんな会議場の光景を余すこと無く目にしていたオレたちチーム・ヴェスパのメンバーは、今回のクライアントであるモルタヴィア共和国の外交上の勝利を確信した。
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