46話
ヴィクトールが口を閉ざし、十分ほどが過ぎた。
再度思考の海に飛び込もうとした私だが、その試みは驚くほど上手くいっていない。
原因はわかっている。
隣からチクチクと感じる、好奇心の気配だ。
ザクロのように真っ赤な瞳が、瞼の奥に隠されているのはわかっている。
だが、彼の向ける意識が、視線以上に私の神経を刺激する。鬱陶しいことこの上ない。
苛立ちが募る。早く思い出さなければいけないのに、という焦りが、なおさら想起を阻害した。
浅くないため息が口をつく。ハッと気付いた時には、もう遅い。
いつの間にか目を開けていたヴィクトールが、穏やかな笑みをこちらに浮かべていた。
「失礼致しましたわ」
「ふふ、気にしなくても大丈夫だよ。ため息くらい、誰でも吐くさ」
「……聞かなかったことにして頂けますか?」
「勿論、キミが望むのなら」
穏やかな声。優しい言葉。安堵するような微笑みに、気構えさせない態度。
それら全てが自然に組み合わさっている。ともすれば、うっかり騙されてしまいそうな程。
この姿が偽りのものでなければ、私もこの優しさに心を落ち着けてしまっていただろう。
…………気に食わない。それ以上に、恐ろしい。
ヴィクトールから視線を引き剥がし、考える振りをする。
本当は、集中力なんてとうに切れてしまっている。記憶を掘り返すどころか、考え事なんてちっともできない。
そもそも、隣に人がいるのに、自分の世界に浸るなんて失礼だ。
しかし、今回ばかりは許して欲しい。ヴィクトールに話しかける機会を与えたくないのだ。特に、今みたいに弱っている時には。
しかし、
「ねえ、アメリア嬢。もしかして、体調が優れないのかい?」
相手が思い通りになるとは限らない。
ヴィクトールは体を起こすと、私の顔を覗き込む。甘い顔を、心配そうに顰めている。
「顔色が悪い。表情も少し固いね」
「いえ、お気遣いなく」
「そういうわけにはいかないさ。キミのためにならない『見て見ぬ振り』は、優しさじゃない」
横になるかい、とヴィクトールはアイロンのかかった綺麗なハンカチを地面に敷く。
それから、イタズラっぽく「ボクの膝でも構わないよ」と片目を瞑った。
「いえ、私は、」
「ボクのことは気にしないで。少し休んでいるといい。養護教諭を呼んでこよう」
「いえ、だから、」
——……本当に、
「さあ、アメリア嬢、ここに寝て——」
「いい加減にしてください。私は『いらない』と言ってるの」
思わず溢れ出た言葉は、言った私が驚くほど角が立っていた。
ヴィクトールの目が緩やかに広がり、私はすぐさま失言を悔いた。
先輩に対する態度ではないとか、相手の善意を突っぱねてしまったとかではない。
いや、もちろんその気持ちがゼロなわけではないが。
「……ごめんなさい。言葉が過ぎました」
すくっと立ち上がり、頭を下げて謝罪する。
彼の顔を窺い見れば、そこには何の感情も載っていなかった。ぞっと背筋に冷たいものが走る。
慌てて顔を上げると、ヴィクトールは静かに唇を引き上げた。
「うん」
ちっとも笑っていない赤い瞳。
全身が粟立つようで、思わず半歩、後退る。
彼の立ち上がる気配を感じ取り、私は脳内で鳴り響くサイレンに従い、あの、と声を発した。
「私、もう……戻ります。戻れますから」
失礼します、と手早く一礼すると、返事を聞く間もなくスカートを翻した。
やらかした、やらかした、と頭の中が大パニックだ。
脳裏に過ぎるのは、生前何度もチャレンジしたヴィクトールルートの一幕。
宵闇の中、蜘蛛の糸のように美しく繊細な髪が靡く。
月明かりを浴びてキラキラと輝くその中心にあるのは、そのまま夜に溶けてしまいそうなほど幽玄な顔立ち。
妖しくて、美しいその顔で、彼は目の前の少女にこう語りかける。
このまま二人でどこかに逃げてしまおうか、と。
父の傀儡であることに辟易しながら、決して逃げられない籠の鳥。
そんな男が口にする甘い誘いには、決して安易に乗ってはいけない。何度も騙された私は知っている。
そんな男が、どの口で『優しさ』を語るというのだ。
寮の自室に戻ると、後ろ手で扉を閉める。ガチャンという音を聞いて、ようやく足元の力を抜いた。
扉に背を預けて座り込む。今後こそ、誰に見咎められることなく、大きなため息を吐いた。
「最っ悪……」
誰にともなく呟いた悪態は、自己嫌悪の味がする。
ヴィクトール=ベルトラム。
「稀代の魔術師」とまで呼ばれた王宮魔術師エグモンドの五男————そして、風の魔術刻印を持つ、作中一の美男子……らしい。
本来、クルークは長子しか引き継ぐことのできない魔術刻印。それを引き継いでいるのは、彼が妾の子だからだ。
珍しいことではない。長子が刻印に恵まれず、第二夫人や妾を抱える貴族はいる。
しかし、そんな中でもヴィクトールの出自は公にされていない。その理由は、彼の母——フィリーネの立場にある。
彼女はクルークと鳥人族との間に生まれた、混血の身だった。
合いの子として世間から疎まれ、蔑まれたフィリーネはエグモンドの甘言に惑わされる。
そう————自分の子を孕めば、人生が変わる、という言葉に。
魔力持ちは、魔力持ちの胎から生まれる。
生まれる子全てが刻印持ちであるシュタルクの子であれば、その確率はさらに跳ね上がるだろう。
そう考えたエグモンドの企みは、見事、実を結ぶ。しかし、フィリーネは違った。
魔術刻印を持つ子どもを手に入れたエグモンドの目に、役目を終えた胎はもう映らない。
それでも、フィリーネは一度見た光が手放せなかった。チラつかされた地位と名誉に縋るよう、彼女はエグモンドからの寵愛を求めた。
可哀想なヴィクトール————彼の目に、そんな母はどのように映っただろうか。
自らを虐げる男に媚び、へつらい、両手を伸ばし続ける哀れな女。
そんな生き物を、彼は心から憐れみ————同時に、酷く軽蔑したのである。
奥歯がギリッと音を立てた。腹の中がぐつぐつと怒りに煮えたぎる。
同情はする。しかし、それが他の女性に対して不誠実であっていい理由にはならない。
そんな思いから、私は生前、どの攻略対象よりも、このヴィクトールが嫌いだった。
だが、そんなのはどうでもいい。私の個人的な感情だ。
問題は、その個人的な感情を、思わずヴィクトール本人にぶつけてしまったこと。感情のままに、やつ当たってしまったこと。
なんて大人気ない。相手はまだ、十代の子どもだというのに。
数分前の自分を殴りたい気分だ。
ヴィクトールの反応を思い返し、厄介なことになったとため息を吐く。頭の鈍痛は消えない。しかし、
「ああ……明日が憂鬱だわ」
今は心臓の方がずっと痛かった。
そんな地獄のような一日を終えた、翌日のこと。
目の前には、食堂でもらって来たお弁当。頭上には、パーゴラに絡みついたクレマチスの花。
暖かな風が吹くたび、風車のような花弁がそよそよと揺れる。
ここは校内に点在する休憩スペースだ。白を基調としたガーデンテーブルと三つのチェアが、パーゴラの下に設置されている。
長閑な午後の陽気の中、私は何故、こんな場所でヴィクトールと対峙しているのか。
事の始まりは、午後の勉学を終えるチャイムが鳴ってすぐだった。
「やあ、アメリア嬢はいるかな?」
昨日のことなんてなかったかのような空気で、ヴィクトールがやって来た。
ざわりと教室の中が揺れ、ニコラの声無き悲鳴が隣で上がった。
事情を問うような視線がいくつも突き刺さり、できることなら聞こえなかったことにしたい。
もちろん、そんなことはできない。ため息を飲み込み、好奇の視線を無視して、彼の元へ向かう。
形式ばった挨拶を交わし、用向きを訊ねる。
「お昼でもどうだい?」
ヴィクトールの誘いを跳ね除けるのは簡単だ。
しかし、私はそれを二つ返事で受けた。昨日の態度に対して、埋め合わせの気持ちがないでもない。
その上で、私には一つ気がかりなことがあった。
昨日は本当に頭がいっぱいいっぱいで、すっかり意識から抜けてしまっていたけれど。
ヴィクトールもまた、ルイスと同じ————死亡ルートが存在する。
回避できるのであれば。
そう思い、こうしてついて来たのだが……。
「それで、今日は何のご用です?」
何も話し出さないヴィクトールに、こちらから話を切り出す。
どこか遠くを見つめていたヴィクトールの視線が、ゆっくりとこちらを向いた。
「もし先日の件でしたら、改めて謝罪を、」
「ああ、気にしないでいいよ。昨日のことは、ボクも悪かった」
しつこかったよね、と眉尻を下げるヴィクトール。自責の念を煽るような彼の態度は、やけに癇に障る。
しかし、先日醜態を晒したばかりだ。これ以上、自分の品位を貶めるようなことはしたくない。
空咳を一つ落とし、「いえ」と言葉を紡ぎ直す。
「こちらも気にしておりません。それより、今日は、」
「美しい女性と食事を楽しみたい、というのは理由にならないかい?」
「…………」
帰ります、と言えたら、どれほど良かっただろう。
言葉を遮られた上、軽口まで叩かれる。普段の私なら席を立っていただろう。
浅い呼吸を繰り返し、苛立ちを押し込める。引き攣りそうになる口元で、どうにか笑みを浮かべた。
お上手ですね、の声が裏返りそうだ。
「ねえ、ヴィクトール」
改まった私の呼びかけに、彼は風のように静かな笑みを浮かべる。
「昨日のことでないのでしたら、本当に何の用かしら」
「キミは本当に、ボクのことが気になるんだねぇ」
「語弊があるわ。言い方を改めていただけます?」
「おや、照れ屋さんだね。なら、言い方を変えようか」
くすりと笑ったヴィクトール。改まったように肘をつき、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「キミは、ボクのことが嫌いだろう?」
確信めいた声。じっとこちらを見つめる赤い瞳は、何を考えているのかが、全く読めない。
呼吸を三つ落とし、ざわついた心を落ち着かせる。それから彼を見据え、顎を引くように姿勢を正した。
「ええ。……でも、それはお互い様でしょう?」
今度は彼が息を呑む。
「貴方、女性が嫌いなのね」
ほんの少し、的をズラした言葉。しかし、その言葉に、ヴィクトールは口元を歪めて笑った。
ややあって、彼はわざとらしく肩を竦めた。小さく「困ったなぁ」と、独り言のように呟く。
「そんなこと、初めて言われたよ。キミ、ボクの噂を知らないのかい?」
「噂で人のことを決めつけるのは、信条に反するもので。私は、私の目で見た印象でしか語れませんわ」
「それで、ボクが女性を嫌ってるように見えるって? 心外だなぁ」
ちっとも思っていなさそうな顔で、彼は言う。飄々としたその態度に、今度こそ私は顔を顰めた。
「ふふっ……アメリア嬢はわかりやすいね。考えていることが、全部顔に出る」
「嘘が下手な自覚はあります」
「ははっ! 個人的には好きだよ、その性格」
嘘をつけ、と言いたい気持ちをぐっと飲み込み、無理やり口角をあげた。
ヴィクトールもまた穏やかな笑みを浮かべたが、それが心からのものでないことは、鈍い私にもわかった。
互いに偽物の笑みを交わし、私たちは一瞬だけ、友人のような気配を纏う。しかし、それはすぐに霧散した。
ヴィクトールの死亡ルート。それは、彼からの好感度が高い状態で発生するイベントで、特定の条件が整っていないと、回避できない。
イベント自体を避けるのであれば、彼との好感度は常に低く保つことが必須——つまり、余計な交流は避ければいい。
しかし、不本意なことに、私はヴィクトールと接触してしまった。これでは『無関係』を貫き通せない。
こうなってしまったら、せめて親しくなりすぎないよう、牽制をかけなければならない。
「ねえ、アメリア嬢」
ヴィクトールの囁くような声。
春風に浚われてしまいそうなほど柔らかい彼の声は、意図的に小さくされると、聞き取りにくくて仕方ない。
仕方なしに体ごと前に乗り出せば、彼も顔を近付けてくる。細長い、どこか女性的な指先が私の頬に触れる。
「もしボクが、キミと仲良くなりたくてお昼に誘ったんだとしたら……キミはどうする?」
さらりとした声。なのにどこか蠱惑的な話し方は、聞いていると耳元がゾワゾワする。
背筋に悪寒が走り、思わず距離を取りたくなった。
一方で、こんな子供相手に身を引くのも、なんだか大人としての矜持に傷がつく。
舌打ちしたい気持ちを押し殺し、じろりとヴィクトールの赤い瞳を睨みつけた。
「嫌われているご自覚があったのでは?」
「手に入れにくい宝石ほど、手を伸ばしてみたくなる性質なのさ」
「そんな宝石は、手に入れた途端に輝きを失うわよ」
そうかもね、と彼は私の頬から指先を離す。同時に、頬に感じていた不快感が糸を引くように離れていった。
どうやら髪の毛が貼り付いていたのを取り払ってくれたらしい。
物言いたげに見えたのだろう。私の視線に気付いてか、ヴィクトールがひょいっと肩を竦めた。いちいち仕草が絵になる男だ。
乗り出していた体を戻し、目立たないように息を吐く。
「貴方、いつもこんなことをして女の子を口説いているんですか?」
「おや、ヤキモチかい?」
「呆れているんです。許可なく女性の肌に触れるのは、不躾じゃないかしら」
「そうだね。突っぱねられるか、頬を赤らめられるか……反応は様々だけど、」
ちらり、とヴィクトールがこちらを一瞥する。
「まさか無反応とはね」
意外だ、とどこか残念そうなヴィクトール。彼の一挙一動に心を乱されてたまるかと、鋼の心で接したのが功を奏したようだ。
ざまあみろ、という気持ちで「お生憎様ですね」と返す。
春風がパーゴラの花々を揺らす。葉がざわつき、花弁が舞い散った。そろそろお昼の時間も終わるだろう。
「ボクの女性嫌いが本当だとして……だとしたら、ボクの行動は矛盾だらけに見えないかい?」
「ええ、見えますね。だから、私は貴方が信用できないんですよ」
嘘のない言葉に、彼は納得したように頷いた。同時に、私も疑問が湧く。
「ねえ、ヴィクトール」
「なんだい?」
「貴方こそ、どんな気持ちで嫌いな女性を口説いているのかしら?」
ヴィクトールは驚いたように目を瞬き、そして静かに笑った。
その顔は、初めてみる————心底嬉しそうな、心からの笑みだった。




