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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第5話 聖女は自ら綻びを広げていく

 人は追い詰められると、本来なら取らないはずの行動を取る。


 正確には、普段から心の奥底にあった欲望や恐れが、抑制を失って表に出る。


 フィオナ・ルミエールもまた、その例外ではなかった。


 その日の夕刻、彼女は王城の一角にある私室で、一通の手紙を書いていた。何度も書き直し、何度も破り、ようやく最後に残った一枚へ震える指で署名を入れる。


 宛先は、王太子エドガルドではない。


 王妃でも、監査官でもない。


 彼女が選んだのは、社交界で比較的口の軽い侯爵夫人だった。


 しかもその内容は、表向きは相談と懺悔を装いながら、実際には極めて計算されたものだった。


 自分はただ恐怖のあまり萎縮していただけであること。

 レティシアの視線や言葉がどれほど冷たく、自分に圧力を与えていたか。

 王太子殿下に迷惑をかけたい気持ちは本当になかったこと。

 ただ、誰にも理解されず、苦しかったこと。


 直接の断罪ではない。


 露骨な嘘も、今は避けている。


 だが読む者が読めば、自然とこう解釈するように作ってある。


 ――フィオナはやはり被害者なのではないか。

 ――レティシアのやり方も、少々行き過ぎていたのではないか。


 完全に勝てなくてもいい。


 ただ世論を曖昧にして、白黒を濁せればいい。


 フィオナがそこへ辿り着いたのは、ある意味では自然な流れだった。人は全面敗北を受け入れられない時、勝利ではなく“引き分けの物語”を求める。


 そしてそのために、もっとも手軽に使えるのが、感情に訴える曖昧な言葉だ。


「……これで、少しは」


 自分に言い聞かせるように呟き、フィオナは侍女へその手紙を託した。


 その判断が、どれほど危険かも知らずに。


 一方その頃、アシュベルン公爵邸では、レティシアが書架の前で一冊の本を手に取っていた。


 政治哲学の古い本だ。だが彼女は読書のためにそこにいるわけではない。思考を整理する時、一定の静けさが必要なだけだった。


「お嬢様」


 セバスチャンが静かに部屋へ入り、一礼する。


「動きがございました」


「フィオナかしら」


「はい。侯爵夫人アメリア・ベルグレイス宛に、私的な書簡を送ったようです」


 レティシアは本を棚へ戻した。


「予想より少し早かったわね」


「内容はまだ押さえきれておりませんが、届け先が届け先です。早晩、社交界に漏れるかと」


「当然でしょうね。あの夫人は、自分が情報の起点になることを好むもの」


 レティシアは窓辺へ歩み寄る。夕暮れの光が、彼女の銀髪を淡く染めた。


「面白いのは、フィオナが“まだ正面からは反撃できない”と理解していることよ」


「と、申されますと」


「本当に愚かな人間なら、ここでまた私を露骨に悪者にする。でもあの子は、そこまで馬鹿ではない。だから“私は悪くありません、ただ傷ついていました”という形で物語を再構成しようとする」


 これは極めて人間らしい選択だ。


 人は自分が不利な時ほど、事実そのものを変えるのではなく、解釈の枠組みをずらそうとする。自分は加害者ではない、ただ弱かっただけ。嘘をついたのではない、怖くて言葉が曖昧になっただけ。


 責任を薄めるこの手法は、短期的には非常に有効に見える。だが一つ条件がある。


 相手が、その曖昧さを放置してくれる場合に限る。


「潰しますか」


 セバスチャンの問いに、レティシアは即答しなかった。


 数秒だけ考え、それからゆっくりと首を横に振る。


「まだよ」


「泳がせるので?」


「ええ。今あの手紙を潰せば、彼女は学習するわ。曖昧な被害者演出でも危ないと知って、次はもっと慎重になる」


 レティシアは薄く笑う。


「でも、成功体験を与えれば、人は同じ手法を強化するものよ」


「なるほど」


「今回はこちらから手を出さない。むしろ少し広げさせる」


 これは学習心理学そのものだった。


 人は報酬がある行動を反復する。たとえ偶然うまくいっただけでも、“このやり方で助かった”と認識すれば、それを再利用する。フィオナのように承認への依存が強い人間なら、なおさらだ。


 だから今は止めない。


 少しだけ成果を感じさせて、もっと自分から動かせる。


「では、社交界に流れるのを待つと」


「ええ。ただし、夫人の周囲で“その話、少し妙ではありませんこと?”と感じる人間が一人か二人いれば十分よ」


 レティシアは机へ戻り、一枚の紙を取り出した。


「ベルグレイス侯爵夫人は、自分だけが内幕を知っていると思うと饒舌になる。でも、明確に反論されると保身に走るタイプよ。だから真正面からぶつけない。受け取った側が、自分で不安になる程度の違和感だけ与える」


 セバスチャンはその意図をすぐに理解した。


 噂は、否定するとかえって強化されることがある。だが“あれは本当なのかしら”という疑念が混じると、語る側の勢いは削がれる。


 しかもその疑念が、自分の家格や立場の損得と結びついた瞬間、噂を広める者は急に慎重になる。


「誰を使われますか」


「伯爵夫人クラリッサ。あの方は無駄話が嫌いで、しかもベルグレイス夫人を少し見下している」


「確かに適任です」


「伝えるのは一言だけでいいわ。“聖女様のお手紙だそうだけれど、あの夜の目撃者が多すぎるのに、今さら私的な感情論で覆る話かしら”――それだけで十分」


 理屈を積み上げる必要はない。


 人間は長い説明より、短い違和感に強く引っ張られる。とくに、自分が賢い側に立ちたい時ほどそうだ。伯爵夫人がその一言を漏らせば、周囲は“確かに”と思う。そしてベルグレイス侯爵夫人もまた、“軽率に乗ると自分の見る目が疑われる”と感じ始める。


 つまり、フィオナの曖昧な再構成は、広がる前に熱を失う。


 誰かが強く叩くまでもなく。


 その夜、ベルグレイス侯爵夫人の私邸では、小規模な夜のお茶会が開かれていた。


 招かれているのは、親しい貴婦人たちだけ。そこで例の手紙が話題に上るまで、そう時間はかからなかった。


「まあ、フィオナ様もお可哀想ですわね」


 侯爵夫人が、どこか得意げに言う。


「表に出せない苦しみを、私だけに打ち明けてくださったのですもの」


 その場にいた何人かは、表情を崩さず相槌を打った。だが伯爵夫人クラリッサだけは、カップを置きながら淡々と返した。


「そうかしら」


 場が少し静まる。


「クラリッサ様?」


「いえ、失礼。あの夜のことは、目撃者が多かったでしょう。レティシア様が堂々としていたことも、王太子殿下の側近が拘束されたことも、皆が見ている」


 伯爵夫人は扇を軽く揺らした。


「それなのに今さら“本当は怖かっただけなのです”というお手紙が来ると、少し不自然ですわね。もっと早く、もっと公の形で申し出るべき話ではなくて?」


 その一言で、空気が変わった。


 強い反論ではない。だが十分だった。


 侯爵夫人の頬にわずかな強張りが走る。


「ま、まあ……心が乱れていたのでしょう」


「でしょうね。ただ、乱れていた心のまま、軽率に人の名を匂わせるお手紙を書くのは、あまり感心いたしませんわ」


 伯爵夫人は微笑みすら浮かべずに言った。


「もし内容が誤解を招けば、受け取ったこちらまで巻き込まれますもの」


 その瞬間、同席していた他の婦人たちの顔つきも変わった。


 そうだ。面白い話ではある。だが乗ってよい話かは別だ。


 ここでフィオナ側の曖昧な物語に同調したと見なされれば、アシュベルン家にどう思われるか分からない。しかも事実関係はいまだ王家の精査中だ。早まって色をつけるのは、どう考えても得ではない。


 人は善悪より先に、損得で沈黙を選ぶ。


 結果、侯爵夫人の手元にあった手紙は、その夜を境に“広まるはずの武器”ではなく、“扱いの難しい火種”へ変わった。


 翌朝、その報告を受けたレティシアは、ごく小さく頷いただけだった。


「予想どおりね」


「ベルグレイス侯爵夫人も、今は様子見に入ったようです」


「そうでしょう。彼女は勇気があるのではなく、調子に乗りやすいだけ。風向きが危ういと分かれば、すぐに引くわ」


 レティシアは書類の端を整える。


「フィオナの方は?」


「まだ自分の手紙が大きな成果を生んでいないことまでは把握していないかと」


「なら結構」


 彼女は静かに言った。


「自分ではうまくやったつもりでいてもらった方が、次が雑になるもの」


 その視線は冷静だった。


 勝ち誇るでもなく、怒るでもなく、ただ相手の思考の流れを読んでいるだけ。フィオナが次に何をするか。どういう心理で動くか。何を守りたくて、どこで判断を誤るか。


 それが見えている以上、焦る必要はどこにもなかった。


 そして、案の定。


 その日の午後、フィオナのもとには“侯爵夫人が心配してくださっている”という、少しだけ都合のよい伝言だけが戻ってきた。


 明確な支持ではない。だが拒絶でもない。


 中途半端な反応だった。


 けれど、人は自分が望むように解釈する。


 フィオナはそれを“まだ味方はいる”と受け取った。


 失いつつある立場のなかで、わずかな肯定を見つけた時、人はその価値を過大評価する。溺れる者が細い枝にしがみつくように。


「まだ、大丈夫……」


 そう呟いた彼女の顔には、ほんの少しだけ安堵が戻っていた。


 だがその安堵こそが、さらに踏み外す前触れだった。


 最凶公爵令嬢は、相手の心が折れる瞬間だけを狙ってはいない。


 相手が自分で“まだやれる”と思い込む、その一歩先を待っている。


 その方が、壊れる時に音が大きいからだ。

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