第27話 借り物の希望でも、一度は歩かなければ見えないものがある
最初の一歩が、自分の純粋な意志から出るとは限らない。
誰かに示された道。
誰かに言われた言葉。
誰かが用意した役割。
それでも、人はそこへ一度足を乗せてみないと、自分に何が欠けていて、何が足りないのかを本当には知れないことがある。
借り物の希望は脆い。
だが、脆いから無意味とも限らない。
別邸の朝、フィオナは昨夜印をつけた一覧をもう一度開いていた。
印は三つ。
一つは山間の礼拝堂併設施療院。
一つは沿岸部の巡回施療所。
そしてもう一つが、孤児院を兼ねた小規模施設だった。
どれも王都の華やかさとは無縁だ。
だが、それぞれに違う空気があるように思えた。
山間は静けさ。
沿岸は忙しさ。
孤児院は、必要とされる密度。
フィオナが最後の一つへ指を止めたのは偶然ではなかった。
子供たち。
弱い者。
守るべき存在。
そこには、彼女がこれまで自分へ与えてきた“聖女らしさ”の物語と噛み合うものがある。
しかも、村で一度感じた“感謝される感覚”とも繋がる。
「……ここなら」
呟いた瞬間、自分が何に惹かれているのか、半分は分かっていた。
純粋な奉仕の心だけではない。
ここなら、自分はまだ“良い人”でいられる。
まだ必要とされる側に立てる。
そういう安心も含まれている。
だが今の彼女には、その混ざりものを完全に排除することはできない。
人は、完全に澄んだ動機だけで立ち直れるほど強くないこともある。
少なくとも最初は。
「フィオナ様」
女官が入ってくる。
「本日は少しお顔色が」
「悪くないわ」
フィオナは一覧を伏せた。
それは半分だけ本当だった。
顔色そのものは、数日前より少しだけましだ。
理由は簡単で、心が次の対象を見つけ始めたからである。
絶望だけを見ている時、人は摩耗し続ける。
だが希望らしきものが一つでもあると、体は少し持ち直す。
ただし、その希望の質までは体は見分けない。
「お返事を……出したいの」
フィオナが言うと、女官は一瞬だけ沈黙した。
「ヴァルメル夫人へ、ですか」
「ええ」
「内容確認が必要になりますが」
以前のフィオナなら、その言葉にすぐ刺を立てたかもしれない。
だが今は違う。
「分かっているわ」
その返答に、女官はわずかに目を上げた。
フィオナ自身も、自分の声に前ほどの反発がないことへ少し驚く。
別に納得したわけではない。
制限がなくなったわけでもない。
ただ、今は怒りより先に、“この話を先へ進めたい”気持ちの方が強いのだ。
それもまた、希望の一種だった。
王城では、王妃が別邸から回ってきた書状確認の要旨を受け取っていた。
「ヴァルメル夫人宛。内容は礼状と、地方施設に関する関心の表明」
側仕えが簡潔に読み上げる。
「踏み込んではいないようです」
「そう」
王妃は短く頷く。
礼状。関心。情報希望。
まだその程度なら、表向きに問題はない。
だが重要なのは、そこへ込められた心理の熱量だ。
その熱量は記録だけでは読めない。
だからこそ王妃は、止めるか通すかだけでなく、“今どの段階か”を慎重に見ていた。
「返信が続けば」
「関係は育つでしょうね」
王妃は窓際へ視線をやる。
「今のフィオナにとって、あの夫人は“理解してくれる外の世界”の窓になりつつある」
「危険ですか」
「危険にも、救いにもなり得るわ」
その答えは曖昧に聞こえる。
だが現実にはそれが最も正確だった。
新しい関係は、人を救うこともある。
同時に、新しい依存先にもなる。
違いを分けるのは、相手の意図だけではない。本人がその関係をどう使うかでもある。
「今の段階では、まだ判断を急がない方がいいでしょう」
王妃はそう結論づけた。
エドガルドはその時、地方施療院補助案の承認前最終版へ署名を入れていた。
文面は整い、確認経路も追加され、監査の条項も以前より細かい。
派手な施策ではない。
だが以前の彼なら、ここまで地味な詰めに時間を割かなかっただろう。
署名を終え、ペンを置く。
その小さな動作にすら、最近は以前と違う重みを感じていた。
「殿下、次は地方視察候補地の絞り込みですが」
「後で見る」
文官が下がりかけた時、エドガルドはふと問う。
「補助対象の孤児院併設施設……実際にはどういう者が働いている」
文官は振り返る。
「薬師、治療師、修道女、あとは一部で奉仕志願者もおります」
「奉仕志願者か」
「はい。長く留まる者は多くありませんが」
エドガルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、その言葉が少し引っかかった。
誰かに必要とされたい者。
傷を抱え、何かの役に立ちたいと願う者。
そういう人間が地方の施療や孤児院へ惹かれることは、想像に難くない。
そして今の自分は、その構図にすぐフィオナを重ねて考えそうになる。
だが、そこで止める。
考えることと、感情に巻き込まれることは違う。
最近ようやく、その線引きを覚え始めていた。
アシュベルン公爵邸では、レティシアが午後の静かな時間に領地からの報告書へ目を通していた。
婚約解消や王家の一件が落ち着いたことで、視界がまた本来の広さへ戻りつつある。
領地の冬支度。
人員配置。
会計見通し。
どれも地味だが、自分の地盤を支えるものだ。
そこへセバスチャンが追加の報告を持ってくる。
「フィオナ様、ヴァルメル夫人へ返信を」
「通したのね」
「はい。内容は礼状と施設への関心確認とのこと」
レティシアは書類から視線を上げた。
「まだ、自分で一歩を選んだという感覚が欲しい段階でしょうね」
「借り物の希望でも、ですか」
「ええ」
彼女は淡々と答える。
「人は何もないところからはいきなり立てないもの。最初は誰かの言葉でも、誰かの一覧表でもいいのよ。ただ、それを“自分で噛み砕く”段階へ行けるかどうかが大事なの」
それができなければ、新しい依存になる。
できれば、足場の一部になる。
「今のフィオナ様は」
「まだ前者寄りでしょうね」
レティシアは正直に言った。
「でも、最初から完璧な再起なんてないわ。むしろ、一度どこかへ寄りかからないと、自分の弱さの形すら分からない人もいる」
それは意外と厳しくない評価だった。
レティシアは、弱さそのものを軽蔑しているわけではない。
ただ、その弱さを他人のせいだけにして処理しようとする人間を信用しないだけだ。
「なら、見守るしかないと」
「ええ。私が関わることではないもの」
その境界は変わらない。
夕方、別邸へ再びエレノアから返書が届いた。
今回は前より少し具体的だった。
孤児院併設施設の一つについて、規模、必要とされる支援、滞在するならどのような扱いになるか。
もちろん、今すぐ来いとは書いていない。
ただ、もし本当にご関心があるなら、いずれ見学という形も不可能ではない、とだけ添えてある。
その“いずれ”が、フィオナにはたまらなく魅力的に見えた。
まだ決まっていない。
だから怖くない。
けれど、現実へ繋がる気配はある。
人は、完全な決断より“あと少しで手が届く可能性”に強く惹かれることがある。
そこにはまだ夢を乗せられる余地があるからだ。
「見学……」
その言葉を口にしただけで、胸が少し高鳴る。
ただし、その高鳴りの中身はまだ混ざっている。
役に立ちたい。
必要とされたい。
自分にも別の場所があると証明したい。
見捨てた相手へ、失ったのはそちらだと思わせたい。
どれが一番強いのか、自分でも分からない。
だが少なくとも、何もない空白だけを見ていた数日前よりは、前を向いている気がした。
それは事実だった。
ただ、その前が本当に自分の進む方向かどうかは、まだ分からない。
夜、王都の空はよく晴れていた。
エドガルドは地味な実務の中で少しずつ足場を固め、レティシアは自分の領分へ視界を戻し、フィオナは借り物の希望に手を伸ばしている。
それぞれが違う形で“次”へ触れ始めていた。
借り物の希望でも、一度は歩かなければ見えないものがある。
だが、その希望が足場になるか、また別の鎖になるかは、歩き出したあとでしか分からない。




