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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第26話 役割を与えられることと、自分で立てることは違う

 誰かに「あなたには価値がある」と言われることは、確かに救いになる。


 だが、その価値が“相手に必要とされる形”でしか成立しないなら、それはまだ自分の足で立っているとは言いにくい。


 役割を与えられることと、自分で立てることは違う。

 弱っている時ほど、その違いは見えにくい。


 別邸の午後、フィオナはエレノアから届いた一覧を膝の上に広げたまま、長いこと窓の外を見ていた。


 山間の施療院。

 沿岸部の巡回拠点。

 孤児院併設施設。


 昨日までは、そこに“可能性”だけを見ていた。

 だが今日は少し違う。


 もし本当にそこへ行くとして、自分は何をするのだろう。

 癒やしの力を使う。

 人を助ける。

 感謝される。


 そこまでは想像できる。


 だがその次が曖昧だった。


 誰が受け入れてくれるのか。

 どんな立場で入るのか。

 王家との関係はどう整理されるのか。

 ルミエール家は何と言うのか。

 そして何より、自分はそこへ“働く者”として行くのか、“傷ついた聖女”として保護されに行くのか。


 その境目が、自分でもよく分からなかった。


「……分からない」


 小さく呟く。


 それでも一覧を閉じないのは、これが今の自分に残された数少ない前向きな材料だからだ。


 人は失った直後、次の居場所の“細部”より、“そこに行けば今よりましになるかもしれない”という予感に縋りやすい。

 だから具体性のない希望ほど、美しく見えることがある。


 そこへ女官が静かに入ってきた。


「フィオナ様、お茶を」


「ありがとう」


 最近、こうした短いやり取りだけは少し滑らかになってきた。

 激情で跳ね返すことが減ったとも言える。


 だがそれは回復というより、疲れて怒る力が減ったことにも近い。


 女官が卓へティーセットを置いた時、一覧に目が留まる。

 すぐに逸らしたが、その一瞬で十分だった。


「……ご関心がおありなのですか」


 慎重な問いだった。


 フィオナは顔を上げる。


「見てはいけないの?」


「そのようなことは」


 女官はすぐに頭を下げる。


「ただ、差し出がましいようですが……お考えになるのでしたら、急がれない方が」


 その一言に、フィオナの胸が少しざわつく。


 また止められるのだろうか。

 また“今は静かにしていてください”という話になるのだろうか。


 だが女官は続けた。


「今のご心境のままで、新しい場所を選ぶのはおつらいでしょうから」


 それは珍しく、少しだけ人間の温度を含んだ言葉だった。


 フィオナは返答に迷う。


 反発したい気持ちもある。

 けれど完全には反発しきれない。


 自分でも薄く感じ始めていたからだ。

 この一覧を見つめている時の自分には、希望だけでなく、見返したい気持ちも混ざっていることを。


「……分かっているわ」


 そう答えた声は、以前のような苛立ちを含んでいなかった。


 それは小さな変化だった。


 一方、王城では王妃がエレノア・ヴァルメルの背景整理を命じていた。


「地方教会との関わりはどの程度」


 側仕えが紙束を広げる。


「強いです。複数の施療院へ寄付実績があり、孤児院支援にも名がございます。ただし、表向きの慈善以外に、教会内の人脈形成にも熱心な方かと」


 王妃は静かに頷く。


 予想の範囲内だった。


 慈善と人脈は、しばしば同じ顔をしている。

 どちらが本心かを単純に分けることはできない。

 むしろ、多くの実務家はその両方を同時に持っている。


「危険、とまでは申しませんが」


 側仕えが言葉を選ぶ。


「フィオナ様にとって、耳触りのよい方ではありましょうね」


「でしょうね」


 王妃は窓の外を見た。


「失った直後の人間は、“正しい助言”より“まだ価値があると言ってくれる声”に引かれるもの」


 その評価に感情はない。

 ただ、よく知っているというだけだ。


「殿下へは」


「まだ伝えません」


 王妃は即答する。


「今の殿下に必要なのは、別邸の一挙手一投足へ反応することではなく、自分の足場を整えることです」


 もしここでフィオナの新しい接触を聞けば、エドガルドはどう反応するか。

 気になるのは確かだろう。

 だがその気になり方が、責任ある整理の延長なのか、それとも未練や罪悪感から来る揺れなのかはまだ不安定だ。


 だから今は伝えない。


 切り分けとは、情報を完全に遮断することではない。

 どのタイミングで、誰へ、何を渡すかまで含めての設計だ。


 その頃、エドガルドは地方施療院補助に関する試算表を自分で見直していた。


 数字は地味だ。

 薬材費、巡回費、維持費、確認手数。

 だが最近は、こういう表を見ている時の方が頭が静かになる。


 何が足りないか。

 どこに抜けがあるか。

 誰が確認するか。


 感情ではなく構造の問いに向き合っている間だけ、自分の失敗も少しだけ別の場所へ置ける気がした。


「殿下」


 文官が新しいメモを差し出す。


「教会付属施設の確認経路、王妃宮経由の意見も反映した草案です」


 エドガルドは目を通す。

 数秒後、少しだけ眉を動かした。


「王妃宮が細かく見ているな」


「はい。今回の件もあり、教会系統への見方は慎重でございます」


 “今回の件”。


 文官は具体名を出さなかったが、何を指しているかは分かる。

 フィオナのことだ。


 エドガルドは一瞬だけ紙面から視線を外した。


 彼女が今どうしているか、まったく気にならないと言えば嘘になる。

 だが、気にすることと動くことは別だ。

 そこを混ぜないようにするのも、今の彼に必要な訓練だった。


「この確認経路でいい」


 そう言って書類を返す。


 文官は礼をして下がる。


 少し前の自分なら、ここで余計な問いを足したかもしれない。

 別邸はどうなっている。

 教会は何をしている。

 フィオナは何か言っていないのか。


 だが今は、そこへ踏み込まない。


 踏み込まないことが冷たさではなく、自分の役割の線引きだと理解し始めているからだ。


 アシュベルン公爵邸では、レティシアが午後の短い面談を終えて庭へ出ていた。


 冬の終わりが近い。

 空気はまだ冷たいが、風の匂いがわずかに変わっている。


 歩きながら、彼女は別邸の報告を頭の中で整理する。


 フィオナは希望に触れた。

 だがまだ、自分で何を求めているのか言語化できていない。

 エレノアはその曖昧さへ“価値”という言葉を差し入れている。

 王妃はそれを止めずに見ている。


 盤面としては分かりやすい。


「お嬢様」


 少し後ろからセバスチャンが言う。


「もしフィオナ様が本当に地方へ移るような話になれば、どう見られますか」


 レティシアは歩みを止めずに答える。


「二通りでしょうね。自分の足で立ちにいく人間として見られるか、王都で居場所を失って新しい依存先へ移った人間として見られるか」


「違いはどこに」


「本人の立ち方よ」


 彼女は静かに言う。


「“私にはまだ価値があるから行く”のか、“ここにいられないから行く”のか。その差は、表には出にくくても振る舞いに必ず出るわ」


 そして少しだけ目を細める。


「ただ、今のあの子はまだ後者に近いでしょうね」


 役割を得たい。

 必要とされたい。

 見返したい。

 認められたい。


 その混ざりものを抱えたまま新しい場所へ行けば、最初だけは熱心に見える。

 だが土台が自分の内側にないぶん、また誰かの評価へ揺さぶられやすい。


 それは自立ではない。


「役割は、空洞を埋める道具にはなるわ。でも、土台の代わりにはならないのよ」


 その言葉は、彼女自身の経験則でもあった。


 夜、別邸でフィオナは一覧の端に小さな印をつけていた。


 どの施療院が現実的か。

 どこなら静かに入れるか。

 どこなら王都から遠すぎず、しかし十分に別世界か。


 まだ行くと決まったわけではない。

 話が進んでいるわけでもない。


 それでも、選んでいるような気持ちになるだけで呼吸が少し楽になる。


 自分はただ待たされているのではない。

 何かを見ている。

 考えている。

 選ぶ側に戻りつつある。


 その感覚が、今の彼女には何より大きかった。


 だが同時に、それはまだ借り物の主体性でもあった。

 選択肢を差し出され、その中で“選ぶ気になる”ことと、自分で道を作ることは違う。


 けれど、人は最初から完全には立てない。

 誰かの手、誰かの言葉、誰かの一覧表に支えられながらしか、次の一歩を踏めないこともある。


 問題は、その支えを足場へ変えられるかどうかだ。


 最凶公爵令嬢は、その夜、書類を閉じながら静かに考える。


 役割を与えられることと、自分で立てることは違う。

 だが、その違いに気づくためにも、いったん誰かの差し出した役割へ触れてみなければならない人もいる。


 フィオナがどちらへ転ぶかは、まだ決まっていない。


 ただ少なくとも、今はまだ、希望と依存の境目を自分で見分けられる段階ではなかった。

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