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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第20話 最凶公爵令嬢は何事もなかったように社交界へ戻る

 人は劇的な転落や逆転を好む。


 だからこそ、その後に何事もなかったように立っていられる者を恐れる。


 派手に怒るでもなく。

 勝ち誇るでもなく。

 傷ついた顔も見せず、ただ元の位置へ戻ってくる。


 その静けさは、ときにどんな威圧よりも強い。


 夜会当日、アシュベルン公爵邸では支度が淡々と進んでいた。


 鏡台の前に座るレティシアの髪を侍女が整え、セバスチャンが招待状と会場の出席者一覧を簡潔に読み上げる。部屋の空気に緊張はある。だが慌ただしさはない。


「主催はベルフォール侯爵家。出席者は主要家門の次男三男、侯爵夫人方、それに何人かの未婚令嬢」


「王家関係は」


「王妃宮寄りの方が数名。殿下ご本人は不出席です」


 レティシアは小さく頷いた。


 当然だろうと思った。今この場にエドガルドが現れれば、必要以上の注目を集める。王家としても、まだ彼を無闇に社交の中心へ置く時期ではない。


「ちょうどいいわ」


「ちょうどよろしいと」


「ええ。余計な演出が入らないもの」


 侍女が最後に耳飾りを整える。


 今夜のレティシアは、深い藍を基調にしたドレスを選んでいた。以前の断罪劇の夜のような鮮烈な赤ではない。静かで、冷たく、しかし目を引く色だ。


 強さを誇示するのではなく、揺らがない印象を残すための選択だった。


 人の第一印象は数秒で決まる。

 しかもその数秒で得た印象は、その後の会話の内容より長く残ることが多い。

 ならば今夜必要なのは、“勝者らしく見える言葉”ではなく、“何も揺らいでいない人間”に見える姿だった。


「参りましょう」


 立ち上がったレティシアを見て、セバスチャンは一礼する。


「今夜の皆様は、お嬢様を値踏みしようとするでしょうな」


「させておけばいいわ」


 彼女の声は平静だった。


「値踏みした結果、近づくべきか距離を取るべきか、自分たちで決めるでしょう」


 それで十分なのだ。


 社交界とは、誰かを言葉でねじ伏せる場所ではない。

 何も言わなくても相手が勝手に計算を始めるような空気を作った方が早い。


 ベルフォール侯爵邸の大広間は、華美すぎない上品さで整えられていた。


 磨かれた床、柔らかな灯り、流れる小編成の音楽。会話の音量も控えめで、露骨な好奇の視線だけが空気の底に沈んでいる。


 そこへレティシアが姿を見せた瞬間、やはりさざ波のように人の視線が動いた。


「あれが……」 「本当にお出になったのね」 「顔色一つ変えていないわ……」


 囁きは小さい。だが意味は濃い。


 皆、見たがっていたのだ。

 婚約解消の後のレティシアを。

 怒っているのか、傷ついているのか、それとも勝ち誇るのかを。


 だが、そこにいたのはどれでもなかった。


 レティシアはいつも通りの速度で歩き、主催家へ必要な礼を尽くし、そして必要以上に周囲を見回さない。視線を集めていることを知っていても、それに応じる演技を一切しない。


 その振る舞いだけで、場の温度が少し変わる。


 人は、見世物になることを拒否する相手には踏み込みにくい。

 とくに、その拒否が怒りではなく自然体の形で示されると、なおさらだ。


「レティシア様」


 最初に近づいてきたのは、年嵩の伯爵夫人だった。敵意はない。だが好奇心はある。そういう距離感の相手だ。


「このたびは、お変わりなくお元気そうで何よりですわ」


「ありがとうございます、伯爵夫人」


 レティシアは微笑む。温度は低すぎず、高すぎず。会話を閉じすぎず、開きすぎない程度。


「冬の間は体調を崩しやすい季節ですもの。伯爵夫人もご自愛くださいませ」


 それだけ。


 自分の件には一切触れない。

 相手が踏み込みたければ踏み込める余白はある。

 だが、あえてそこへ踏み込むほどの親密さは与えない。


 伯爵夫人は一瞬だけ探るような間を置いたが、結局それ以上は触れなかった。


「ええ、ええ。本当にそうですわね」


 そして話題は、最近の寒さと、春先の領地の花の話へ流れていく。


 それでいい。


 社交において勝つとは、相手を黙らせることではない。

 相手が自分から無難な話題へ退いていく状況を作ることだ。


 会場のあちこちで、似たようなやり取りが続いた。


 若い令嬢が少し緊張しながら挨拶へ来る。

 中位貴族の夫人が当たり障りのない話題を振る。

 誰も露骨には聞かない。

 聞けないのだ。


 なぜならレティシアが何も隠していないからだ。

 隠していない人間に暴こうとする形になると、質問する側の方が下品に見える。


 その空気を、彼女は完全に掌握していた。


「お見事ですな」


 少し離れた位置から様子を見ていたセバスチャンが、頃合いを見て近づき小声で言う。


「何がかしら」


「皆様が、お嬢様のご機嫌ではなく、ご境遇でもなく、“今後どう接するべきか”を考え始めております」


 レティシアはグラスを軽く傾けた。


「それでいいのよ。感情を読ませるより、その計算をさせた方が早いもの」


 その頃、王城ではエドガルドが夜の執務を終えようとしていた。


 以前より帰室が遅くなっている。自分で仕事量を増やしたわけではない。だが、一つひとつの確認に時間がかかるようになったのだ。


 雑に目を通せなくなったとも言える。


「本日の分は以上です」


 文官が一礼し、最後の書類を片づける。


 エドガルドはようやく椅子の背に体を預けた。


「……レティシアは、今夜の夜会へ出ているそうだな」


 何気ないようでいて、文官はその問いに少しだけ注意を払った。


「はい。ベルフォール侯爵家の催しに」


「そうか」


 それだけで会話は終わるかと思われた。


 だがエドガルドは、珍しく自分から続けた。


「皆、何と言っている」


「表立ったことは何も」


 文官は事実だけを述べる。


「むしろ、非常に落ち着いた場になっているようです。皆様、必要以上に触れてはおりません」


 その返答に、エドガルドは小さく目を閉じた。


 想像できてしまう。

 レティシアはきっと、何もなかったように立っているのだろう。

 恨み言も、勝ち誇りも見せず、ただそこにいるだけで周囲の態度を決めさせている。


 その姿を直接見なくても、容易に想像できることが、かえって痛かった。


 自分はあの夜、彼女を壇上から引きずり下ろしたつもりだった。

 だが今、社交界へ戻る彼女は、むしろ以前より強い位置に立っている。


 なぜか。


 それは、彼女が勝ったからではない。

 勝ったあとに余計なことをしなかったからだ。


 その事実が、今のエドガルドにはよく分かった。


「殿下」


 文官が控えめに呼ぶ。


「お休みになりますか」


「……ああ」


 けれど立ち上がる前に、エドガルドは一つだけ付け加えた。


「明日、救貧施策の草案をもう一度持ってこい。恒常配分案も含めてだ」


「承知いたしました」


 それはレティシアとは何の関係もないようでいて、確かに繋がっていた。


 劇ではなく仕組みを見る。

 感情の役より、後の運用を優先する。

 そうした修正が、彼の中でも少しずつ始まっているのだ。


 一方、別邸のフィオナは夜になっても落ち着かなかった。


 今日はなぜか、いつも以上に胸がざわつく。

 理由ははっきりしている。

 今夜、王都の社交界では、もう自分のいない場が平然と続いているのだろうと想像してしまうからだ。


 レティシアも。

 ほかの令嬢たちも。

 たぶん殿下でさえも、自分抜きでそれぞれの時間を進めている。


 その事実は、孤独よりもっと深く彼女を傷つけた。


 自分がいなくても世界は回る。

 それどころか、自分がいない方が穏やかに回るのではないか。


 そういう疑念が、一度浮かぶと消えない。


「……嫌」


 暗い部屋の中で、フィオナは小さく呟いた。


 何が嫌なのか、自分でももう半分は分からない。

 レティシアが憎いのか。

 王家が冷たいのか。

 殿下が守ってくれないのか。

 それとも、自分が何も持っていなかったと知り始めていることそのものが嫌なのか。


 たぶん全部だ。


 人は失った後、自分の内側が空だったと気づくと、とても静かに壊れていく。


 叫び散らすより先に、何もかもが遠く見え始める。

 そしてその静けさは、次の衝動の前触れであることも少なくない。


 夜会の終わり頃、ベルフォール侯爵邸の大広間では、人々の視線がすでにレティシアから少し離れ始めていた。


 それが成功の証だった。


 最初は皆、彼女を見た。

 次に、どう接すべきかを測った。

 そして今は、“もう特別に触れなくてよい存在”として扱い始めている。


 それは決して価値が薄れたのではない。

 むしろ逆だ。


 不用意に触れると自分の方が崩れると理解され、結果として過剰な干渉を受けなくなったのである。


 帰りの馬車の中、セバスチャンが静かに口を開く。


「今夜で、お嬢様の立ち位置は完全に戻りましたな」


「戻ったのではないわ」


 レティシアは窓の外の灯りを見ながら答えた。


「少し変わったのよ。以前より“扱いを誤ると危ない”と、皆が知っただけ」


 その言葉は、事実として正確だった。


 彼女は元の位置へ戻ったのではない。

 事件を経て、以前よりも静かな警戒を伴う位置へ移ったのだ。


 そしてそれは、社交界ではむしろ有利に働くことも多い。


「お嬢様はお強い」


 セバスチャンが言う。


 だがレティシアはわずかに首を横に振る。


「強いというより、終わったことに熱を残さないだけよ」


 それができる人間は、思っているほど多くない。


 怒りや屈辱や勝利感は、どれも強い熱を持つ。

 人はその熱に酔いやすい。

 けれど酔っている間は、前へ進めない。


 レティシアはそれを知っている。

 だから置いていく。


 置いていけない者たちとの差は、そこから開いていくのだ。

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