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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第16話 信用を失った者は、優しさより先に意味を疑う

 同じ言葉でも、信頼がある時には配慮として届く。


 だが信用を失ったあとでは、管理や牽制や、場合によっては侮辱として受け取られる。


 人は現実そのものより、自分がどんな位置に置かれているかの解釈で傷つく。


 別邸での生活が始まって数日、フィオナはようやく一つの変化に気づき始めていた。


 侍女たちの態度は、表面上は丁寧なままだ。

 食事は整えられ、部屋は清潔に保たれ、必要な衣類も不足しない。

 誰も怒鳴らないし、乱暴に扱われることもない。


 けれど、その丁寧さには温度がなかった。


「お茶をお持ちしました」


「暖炉の薪を替えております」


「本日は風が強うございますので、窓辺はお冷えになります」


 どれも正しい言葉だ。

 だがそのどこにも、「フィオナ様のお気持ちは」とか「おつらいでしょう」といった感情への橋がない。


 前ならあった。


 少なくとも王城では、もっとあった。

 心配そうな目。

 寄り添うふり。

 少し大げさなくらいの気遣い。


 今はない。


 それは侍女たちが冷たいからではなく、余計な感情接触が危険だと学習したからだ。


 フィオナも、それを薄々感じている。


 だからこそ、かえって苦しい。


 怒られた方がまだ楽だった。

 責められた方が、相手を悪者にできた。

 だが事務的に扱われると、自分が“感情を向ける価値のない対象”へ近づいているようで耐えがたい。


 昼前、別邸付きの女官が小さな箱を持って部屋へ来た。


「王妃宮より、お見舞いの品です」


 差し出されたのは香の良い茶葉と、乾燥果実、喉を労わるための蜜だった。冬の療養にはちょうどいい、実用的で上質な贈り物である。


 普通なら、十分に配慮のある品だ。


 だがフィオナの指先は、箱へ触れる前に止まった。


「……お見舞い?」


「はい」


 女官は一礼する。


「ご静養の助けとなればと」


 フィオナは箱を見つめたまま、心の中で一瞬にしていくつもの解釈を走らせた。


 本当に気遣っているのか。

 それとも、静かにしていろという意味か。

 外へ出るな、手紙を書くな、これでも飲んで大人しくしていろという、上品な封じ込めではないのか。


 信用を失うと、人は優しさをそのまま受け取れなくなる。


 いや、もっと正確に言えば、「優しさとして受け取ったあとで裏切られること」を恐れて、先に意味を疑うようになる。


「ありがたく、頂戴いたします」


 口ではそう言った。


 だが声音は硬い。


 女官はそのわずかな硬さを聞き取りながらも、何も触れなかった。ただ必要な礼を尽くして下がる。


 扉が閉まったあと、フィオナは箱を机へ置いた。


 開ける気になれない。


 親切かもしれない。

 実際、親切なのだろう。

 でも、その親切を素直に受け取った瞬間、自分が“静養対象”であることも受け入れてしまいそうで嫌だった。


 こうして人は、支援されること自体を屈辱に感じ始める。


 それは弱っている証拠だ。

 だが本人にその自覚は薄い。

 むしろ「こんな優しさで丸め込まれたくない」という方向へ自意識が動く。


 一方、王城では王妃が静かな疲労を抱えていた。


 執務机の上にはいくつもの文書が積まれている。その一角に、別邸への見舞い品の記録も置かれていた。


「受け取ったそうです」


 側仕えの報告に、王妃は短く頷く。


「そう」


 それだけだった。


 王妃もまた、感情で動いていないわけではない。フィオナの年若さも、精神的な未熟さも、ある程度は理解している。別邸へ移したのも、見せしめとして潰すためではなく、これ以上の混乱を防ぎつつ、最低限の面目を保たせるためだった。


 だが、理解していることと、近づけることは別だ。


「殿下は」


「本日は国王陛下との政務確認に」


「そう」


 王妃は息を吐いた。


 エドガルドも疲れている。フィオナも不安定だ。両者を不用意に接触させれば、感情だけが再燃して事態がぶれる。それが見えている以上、今は切り分けを崩せない。


 組織における優しさとは、何でも許すことではない。

 むしろ、近づければ互いに傷を深めると分かっている時に、あえて距離を守ることでもある。


 だがその優しさは、受け取る側にはとても分かりにくい。


 午後、エドガルドは父王との短い協議を終えたあと、一人で回廊を歩いていた。


 最近は人の視線が気になる。

 あからさまに噂されているわけではない。むしろ皆、前より慎重に接する。

 だが、その慎重さ自体が気を遣われている証拠で、かえって気づかされる。


 自分は失点したのだ、と。


 その時、向こうから歩いてきたのは監査官付きの書記官だった。丁重に礼を取りつつ、少しだけ立ち止まる。


「殿下」


「何だ」


「王太子側近の件ですが、追加で二名、聴取対象が広がっております」


 エドガルドの表情が険しくなる。


「まだ増えるのか」


「現時点では関連確認でございます」


 それもまた、きつかった。


 フィオナとの件だけでは終わらない。自分の周辺そのものに、まだ整理すべき膿が残っている。つまり今回の問題は、単なる恋愛感情の暴走ではなく、日頃の人の置き方、側近の選び方、確認の甘さまで含めて問われている。


 エドガルドは、ようやくそこに触れ始めていた。


 自分はレティシアを見誤っただけではない。

 フィオナを庇っただけでもない。

 自分の周囲に、場当たりで人を置き、耳触りのいい言葉を選び、整わないまま決断してきた。


 その総決算が、今来ているのかもしれない。


 だが、そこまで思考が届くたび、胸の奥に刺さるものがある。


 それならなおさら、あの夜の自分は何だったのか。

 正義を執行したつもりで、ただ自分の未熟さを大広間に晒しただけではないのか。


 その問いは、彼の自尊心に重くのしかかった。


 アシュベルン公爵邸では、レティシアが午後の報告を受けていた。


 内容は主に王家側の反応整理と、社交界の沈静化の進捗だ。すでに大きな波は過ぎている。今は残響だけが続いている段階だった。


「王妃殿下から別邸へ見舞いが入ったそうです」


 セバスチャンの報告に、レティシアは目を細める。


「そう」


「意外ではございませんか」


「いいえ」


 彼女は静かに首を振った。


「王妃殿下は、切り分ける時ほど最低限の面倒は見る方でしょう。完全に突き放すと、周囲に余計な物語を与えるもの」


 それは単なる情ではない。

 統治感覚でもある。


 追放に見せず、療養に見せる。

 排除に見せず、保護に見せる。

 その言葉の違いは、当人には些細ではないが、外から見た印象管理としては非常に大きい。


「フィオナ様は、どう受け取ると」


「素直には受け取れないでしょうね」


 レティシアは即答した。


「もう信用を失っている人ほど、親切を親切のまま受け取れないわ。試されている、黙らされている、丸め込まれる、と意味を足してしまう」


 これは認知の歪みというほど大げさではない。

 人間なら誰でも起こりうる、ごく自然な防衛反応だ。


 裏切られた、切られた、信用されていない、そう感じている時に与えられる優しさは、しばしば毒にも見える。受け取ると負けた気がするからだ。


「すると、ますます苦しいですな」


「ええ」


 レティシアは少しだけ視線を落とす。


「だから気の毒だとは思うのよ。でも、気の毒だからといって、また近づけていい理由にはならない」


 そこは一貫していた。


 痛みは理解する。

 だが、信頼と役割は別に評価する。


 多くの人はここを混ぜる。

 可哀想だから任せる。

 辛そうだから線を引けない。

 傷ついているから責めてはいけない。


 そうして、もっと大きな問題を生む。


 レティシアは、それをしない。


 夕方、別邸ではフィオナがついに見舞いの箱を開けた。


 茶葉の香りが柔らかく広がる。乾燥果実も、蜜も、たしかに質が良い。雑にあしらわれたものではないことは分かる。


 分かるからこそ、彼女の心は余計に揺れた。


「……どういうつもりなの」


 箱の中身へ向かって呟く。


 完全に見捨てるなら、こんなものはいらない。

 気遣うなら、なぜ自由は返さない。

 優しくするなら、なぜ会わせない。


 この矛盾に、彼女は耐えられない。


 だが実際には矛盾ではない。

 王家の論理では、「生活は守るが、接触と行動は制限する」は両立する。

 むしろそれが最も秩序だった対応だ。


 ただ、フィオナの心はそんな二層構造を理解したくない。


 優しいなら全部優しくしてほしい。

 拒むなら全部拒んでほしい。

 中途半端が一番残酷だ。


 そう感じるのは自然だった。


 そして自然であるがゆえに、危険でもある。


 白か黒かでしか世界を捉えられなくなると、人は相手の複雑な意図を「裏切り」へ単純化しやすい。そうして怒りが育つ。


「……だったら、最初から」


 フィオナの唇がかすかに震える。


「最初から優しくなんて、しないでよ……」


 その言葉は、王妃へ向いているようでいて、実際にはもっと広い相手へ向けられていた。


 エドガルド。

 王城。

 社交界。

 家族。

 そしてたぶん、自分自身にも。


 優しさがあったから、期待してしまった。

 期待したから、失った時に壊れる。


 もし最初から何も与えられなければ、ここまで痛くなかったのに。


 そう考えるのもまた、人間らしい自己防衛だった。


 夜、アシュベルン公爵邸の書斎で、レティシアは一日の報告を閉じた。


 窓の外は暗い。暖炉の火が静かに揺れ、紙の端を橙に染めている。


 この件は、もう自分が手を動かす段階ではない。

 だが人の心は、処理が終わってもすぐには終わらない。

 とくに失った側は、公式な整理のあとに本当の痛みを知ることが多い。


「お嬢様」


 セバスチャンが控えめに問う。


「今回の件、殿下は今後どうなられると」


 レティシアは少し考えた。


「変わる機会ではあるわね」


「機会、ですか」


「ええ。失点した人間には二つの道があるもの。恥を恨みに変えるか、恥を構造理解に変えるか」


 そして、静かに続ける。


「殿下が後者へ進めるなら、今回の失敗も無意味ではないでしょうね」


 それは突き放した評価ではなく、事実だった。


 痛みは人を歪めもするし、育てもする。

 違いを生むのは、自分の失敗を“誰かのせい”だけで終わらせないかどうかだ。


 ではフィオナはどうか。


 そこまで考えたところで、レティシアは何も言わなかった。


 まだ分からないからだ。

 ただ一つ言えるのは、信用を失った者は、優しさより先に意味を疑うようになるということ。


 そしてその段階に入った人間は、とても脆い。

 何かを許されたから立ち直るのではなく、自分で自分の解釈を変えられない限り、同じ場所をぐるぐる回り続ける。

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