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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第15話 守るための管理は、もう守っているとは呼ばれない

 人はよく、「心配だから制限する」「大事だから遠ざける」と言う。


 それ自体が嘘とは限らない。


 だが、その制限が相手の自由を奪い、言葉を遮り、行動を管理する段階まで進んだ時、それはもう庇護というより統制に近い。


 そして統制される側は、たとえ相手に悪意がなくても、そこに愛情より先に屈辱を感じる。


 別邸に届いた新たな通達は、見事なまでに丁寧だった。


 外出は事前許可制。

 私的書状は内容確認の上で取り扱う。

 外部との接触は必要最小限に限る。

 静養中は心身の安定を第一とすること。


 文面のどこにも「禁止」という露骨な語はない。

 だが、実質的には十分だった。


 動けない。

 繋がれない。

 好きなようには振る舞えない。


 フィオナは暖炉の前に立ったまま、その紙を見つめていた。


 村で子供を助けた時の、小さな手の温もりがまだ指先に残っている気がする。母親の涙声も、感謝の言葉も覚えている。


 あれは本物だった。

 少なくとも、あの瞬間だけは。


 それなのに、返ってきたのはまた管理の言葉だった。


「……これのどこが、静養なの」


 掠れた声で呟く。


 誰に向けた言葉でもない。

 自分自身へ言い聞かせるような、空虚な問いだった。


 付き添いの女官は部屋の隅で控えている。反応はしない。下手な慰めが火に油だと知っているからだ。


 今のフィオナに必要なのは共感ではない。

 だが、だからといって現実を飲み込めるほど成熟しているわけでもない。


 その中途半端さが、場をさらに重くする。


「殿下が決めたの?」


 沈黙に耐えきれず、フィオナが口を開く。


 女官は少しだけ間を置いた。


「王家よりの方針でございます」


「聞いているの。殿下が、関わっているのかって」


 声が少し強くなる。


 女官は困ったように目を伏せた。

 そこで曖昧にするのは、優しさではなく保身だ。誰の責任かを末端が断言する義務はない。


「王太子殿下の御意向も、反映されているかと」


 十分だった。


 その一言で、フィオナの胸の中に冷たいものが落ちる。


 つまりこれは、王妃や侍従長だけが決めたことではない。

 エドガルドも知っていて、少なくとも止めてはいない。


 いや、むしろ自分で命じた可能性すらある。


 そこまで考えた瞬間、フィオナは紙を握る手に力を入れた。


「……そう」


 それだけ言うのがやっとだった。


 村での一件は、彼女にとって最後の価値確認だった。

 まだ自分には役割がある。

 まだ誰かに必要とされる。

 そう証明したかった。


 けれど王家は、その行動を“価値の証明”ではなく“再発防止が必要な逸脱”として読んだ。


 評価軸が、最初から違っていたのだ。


 本人は善意のつもりでも、制度はリスクとして処理する。

 その差を埋める言葉は、もうどこにも残っていない。


 昼過ぎ、エドガルドは一人で剣術場にいた。


 人払いされた空間で、木剣を振る音だけが乾いて響く。冬の空気は冷たいが、額には薄く汗が滲んでいた。


 何も考えずに身体を動かしていたい。


 そう思う時点で、彼がかなり追い詰められていることは明白だった。


 頭の中では整理がつかない。

 政務書類を見れば、レティシアとの婚約解消が現実として並ぶ。

 報告を受ければ、フィオナがまた問題を増やしている。

 父王と王妃の言葉は、耳の奥に残って消えない。


 だから身体を使う。

 思考を止めるために。


 だが、人は疲れている時ほど、身体を動かしても根本の問題からは逃れられない。

 むしろ無音の時間が増えるぶん、余計に考えてしまうことすらある。


「殿下」


 剣術師範が距離を取って呼びかける。


「少し、力みすぎかと」


 エドガルドは返事をしなかった。

 自分でも分かっている。動きが荒い。焦りが剣筋に出ている。


 最近ずっとそうだ。


 正しい姿勢で構えようとしても、どこかで力が入りすぎる。

 結果だけを求めて、基本が崩れる。


 それは剣だけの話ではなかった。


 フィオナを守ろうとした時もそうだ。

 レティシアを断罪しようとした時もそうだ。

 自分はいつも、「今この瞬間に欲しい結果」を優先して、その後に必要な整えを軽んじてきた。


 そのことを、彼は薄々理解し始めていた。


 だが理解し始めたところで、すでに失ったものは戻らない。


「……少し、休む」


 木剣を下ろし、エドガルドは低く言った。


 師範が一礼する。


 休憩用の椅子に腰を下ろすと、すぐに付きの文官が近づいてきた。手元には新しい報告がある。


「殿下、別邸の件で追加のご報告を」


 エドガルドは眉をひそめる。


「まだあるのか」


「フィオナ・ルミエール様ですが、通達を受けて以降、かなり情緒が不安定とのことです」


「……そうか」


 短い返答。


 だが文官は続ける。


「王城への不満というより、殿下ご自身が制限に関わっておられると知り、強い衝撃を受けている様子で」


 その言葉に、エドガルドは目を閉じた。


 胸のどこかが鈍く痛む。


 当然だと思った。

 制限されれば傷つくだろう。

 自分が決めたと知れば、なおさらだ。


 けれど同時に、ではどうすればよかったのかという問いが浮かぶ。


 放置すればまた動く。

 動けばまた問題になる。

 なら止めるしかない。


 その“しかない”が積み重なった結果、気づけば彼は、守りたいはずの相手の自由を自分で削っていた。


「殿下」


 文官の声は慎重だった。


「今は、何もお言葉を足されぬ方がよろしいかと」


 また同じ助言だ。


 だが、もう反発する気力すらなかった。


「……分かっている」


 エドガルドはそう答えた。


 実際、その通りなのだ。ここで何か言葉を送れば、余計に期待を持たせるだけになる。慰めにもならない。むしろ、自分がまだ個人的に抱え込む意思があると誤認させる可能性の方が高い。


 だから何もしない。


 それが最善だと、頭では理解している。


 けれど頭で理解する最善策は、心にとってしばしば最も後味が悪い。


 一方、アシュベルン公爵邸では、その日の午後、レティシアが久しぶりに庭園を歩いていた。


 雪はもう残っていないが、冬の庭は色が少ない。枝だけの木々と、冷たい風。遠くで水音がかすかに響く。


 セバスチャンが少し後ろをついてくる。


「王太子殿下も、かなりお疲れのようです」


 報告の続きとしてそう告げられ、レティシアは立ち止まらずに答えた。


「でしょうね」


「同情はなさいませんか」


「少しは」


 意外なほどあっさりとした返答だった。


 レティシアは枯れた薔薇の枝を眺めながら続ける。


「でも、これも当然の帰結よ。自分で始めた構図を、自分で片づける力がなかった。だから、感情と責任の両方に引き裂かれている」


 それはまさにエドガルドの現状だった。


 可哀想だと思う気持ちは残っている。

 だが、その可哀想を王太子として支え切る覚悟も技術もない。

 結果、制限という形でしか対応できない。


 守りたいのに、管理する。

 情を残しているのに、距離を取る。

 その矛盾は、当人を確実に消耗させる。


「殿下も、フィオナも」


 レティシアは静かに言う。


「自分が欲しかったものを、“関係”の中で得ようとしすぎたのよ」


 セバスチャンは言葉の続きを待つ。


「殿下は、自分が救う側に立つことで価値を感じたかった。フィオナは、守られる側にいることで価値を感じたかった。どちらも、相手の反応がないと成立しない自己像だわ」


 彼女はそこで振り返った。


「だから崩れたの。相手が期待どおりに動かなくなった瞬間、自分の価値まで揺らいでしまうから」


 それは行動経済学や認知科学でいう自己評価の外部依存に近い。

 承認や役割を他者からの反応でのみ支える人間は、その関係が不安定になった瞬間に意思決定を誤りやすい。


 レティシアが強いのは、その逆だからだ。


 自分の価値判断を他人の反応へ預けない。

 だから相手が泣こうが怒ろうが、必要な線を引ける。


「お嬢様は違うのですね」


「違うというより、そうならないよう気をつけているだけよ」


 彼女は少しだけ目を細めた。


「人は誰だって、認められたいもの。でも、それを他人の手に預けすぎると、最後には“認めてくれない相手が悪い”という思考になる。そこへ落ちたら危ういわ」


 別邸の夕方は、王都より少しだけ早く暗くなる気がした。


 フィオナは部屋の隅に置かれた椅子へ座り、何もせず窓を見ていた。


 外出もできない。

 自由に書けない。

 会いにも行けない。


 まるで自分が、少しずつ透明になっていくようだった。


 王城にいた頃は、何もしなくても誰かが目を向けた。

 言葉を濁しても、誰かが意味を与えた。

 涙をこぼせば、誰かが庇った。


 今は違う。


 泣いても届かない。

 動いても止められる。

 善意すら監視される。


 その現実は、彼女の中にひどく歪んだ感情を生んでいた。


 悲しい。

 苦しい。

 寂しい。

 そして、やはり許せない。


 レティシアが。

 王家が。

 殿下が。

 家族が。


 自分をこの位置へ置いた全てが、許せない。


 その怒りは、しかし外へはまだ出せない。

 出せばまた管理が強まると、さすがに学び始めてもいるからだ。


 だから怒りは内側へ溜まる。


 溜まり続けた怒りは、やがて別の形を取る。

 自己憐憫か、逆恨みか、あるいは衝動的な破局行動か。


 どれに転ぶかは、まだ分からない。


 だが少なくとも、静かには終わらない気配があった。


 最凶公爵令嬢は、その夜も灯りの下で書類を閉じた。


 もう婚約解消の整理は済んでいる。

 王家の処理も見えている。

 自分がこれ以上、あの件へ直接関わる理由は薄い。


 それでも報告は入る。

 盤面の余波として。


 そして彼女は知っている。


 守るための管理は、ある段階を越えれば守られている側にとって裏切りと変わらない。

 だからフィオナは、まだ終わらない。


 終われないのだ。


 自分がいま置かれている場所を、「大事にされているから」ではなく「もう信用されていないから」だと認めるには、まだ痛みが強すぎるから。

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