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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第13話 閉ざされた道の数だけ、人は自分を追い詰める

 人は、一つの道を失ったから壊れるのではない。


 戻れるかもしれない道。

 まだ届くかもしれない言葉。

 誤解が解けるかもしれない希望。


 そうした細い可能性が一本ずつ消えていく時、ようやく本当の損失を理解する。


 そして理解したくない者ほど、最後の一本に執着して、もっと深く沈む。


 別邸での夜明けは静かだった。


 厚いカーテンの隙間から淡い朝の光が差し込み、冷えた空気の中で暖炉の残り火がかすかに赤く光っている。フィオナはほとんど眠れないまま朝を迎えていた。


 目を閉じるたびに思い浮かぶのは、ここ数日の出来事ばかりだった。


 殿下の冷えた声。

 王妃宮の侍女の無機質な言葉。

 別邸への移送。

 そして、書状の取り次ぎ制限。


 どれも一つひとつは、決定的な処刑宣告ではない。

 だがその代わりに、どれもじわじわと逃げ場を狭める。


 それが彼女にはたまらなく苦しかった。


「フィオナ様、朝のお支度を」


 侍女の声がしても、すぐには返事ができない。


「……ええ」


 ようやく答える声は、自分でも驚くほど乾いていた。


 鏡の前に座り、髪を整えられながら、フィオナはぼんやりと自分の顔を見つめる。


 痩せた。

 目元が暗い。

 少し前まで“儚く可憐”と褒められていた表情は、今ではただ疲れて見える。


 人は、守られている時は脆さを魅力に変えられる。

 だが守る者がいなくなった瞬間、同じ脆さはただの不安定さになる。


 フィオナ自身、どこかでそれを感じ取っていた。


「本日は庭へ出られますか」


 侍女が事務的に問う。


 療養先らしい問いだ。身体を休め、空気を吸い、静かに過ごせという意味しかない。


「……気が向いたら」


 そう返したあと、フィオナはふと口を開きかけた。


 誰かから何か届いていないか。

 王城から言伝はないか。

 殿下は何か仰っていなかったか。


 聞きたかった。


 だが聞いたところで、返ってくるのはきっと同じ空気だ。何もないか、あるいは“承っておりません”という平坦な答えだけ。


 その想像が先に立ち、フィオナは結局黙った。


 こうして人は、拒絶を恐れるほど確認行動を減らしていく。

 だが確認しないことは、不安を消すのではなく、曖昧な恐怖を長引かせるだけだ。


 午前の遅い時間、別邸に一人の来客があった。


 王城からではない。

 フィオナの実家、ルミエール子爵家からの使者だった。


 その報せを聞いた瞬間、フィオナの胸に嫌な緊張が走る。


 助けに来てくれたのだろうか。

 それとも様子見か。

 いや、そんなはずはない。家族なのだから、自分の味方でいてくれるに決まっている。


 そう思いたかった。


 応接間へ入ると、そこにいたのは父ではなく、子爵家の執事長だった。年配の男は礼を失さぬよう深く頭を下げたが、その表情には困惑と慎重さが滲んでいる。


「お久しゅうございます、フィオナ様」


「父は?」


 フィオナは思わず問い返した。


 執事長は一瞬だけ言葉を選ぶ。


「旦那様は、領地との往復にてご多忙でございますゆえ……まずは私が」


 その瞬間、フィオナは小さな違和感を覚えた。


 父が来ない。

 母でもない。

 執事長だけ。


 それはつまり、家としてもまだ“どの温度で接すべきか”を決めきれていないということだった。


「それで、何のご用ですか」


 少し硬い声になったのは自分でも分かった。


 執事長は恭しく封書を差し出す。


「旦那様より、お言葉を預かっております」


 開いた手紙は、思っていたよりずっと短かった。


 体調を案じる言葉。

 軽率な行動を慎むようにという忠告。

 王家とアシュベルン家の整理が済むまで、ルミエール家としても不用意には動けないこと。

 しばらくは静養し、余計な書状や接触を避けるようにという指示。


 味方ではあった。


 だが、庇護ではない。


 家もまた、自分を守るためではなく、自分を“これ以上広げないために”手を伸ばしている。


 フィオナの指先が冷えていく。


「……父は、わたくしに会いたくないの?」


 執事長は表情をわずかに曇らせた。


「そのようなことは」


「じゃあ、なぜ来ないの」


 問いが鋭くなる。


「わたくしは娘でしょう? こんなことになって、一人でこんな所にいて、それなのに手紙だけ?」


 執事長は答えに詰まった。


 その沈黙が、何より答えだった。


 ルミエール家もまた、今のフィオナを“感情だけで抱え込むには危うい存在”として見始めている。もちろん見捨てたいわけではない。だが、深入りすることで家まで巻き込まれるのは避けたい。


 その極めて現実的な損得勘定を、彼女は本能的に感じ取ってしまう。


「……そう」


 フィオナは視線を落とした。


「家も、そうなのね」


「フィオナ様」


 執事長が穏やかに呼びかける。


「旦那様も奥様も、ご心配はしております。ですが今は、何より静かにしていただくことが最善かと」


「最善」


 フィオナは乾いた笑みを浮かべた。


「みんな同じことを言うのね。静養しろ、静かにしろ、動くなって」


 その声には自嘲と怒りが混じっていた。


「でも、静かにしていたら、わたくしは何もかも失ったままになるじゃない」


 その一言が、彼女の本音だった。


 静かにすることは、秩序ある大人の対応ではある。

 だが同時に、それは“すでに失ったものを受け入れる”行為でもある。


 フィオナには、それがまだできない。


 損失回避の心理が強く働いている時、人は不利でも動く方を選びやすい。何もしなければ失うだけだと感じるからだ。たとえ動いても取り戻せないとしても、“まだやれることがある”と思っていた方が精神的に楽なのである。


 執事長が去ったあと、フィオナは長い時間、一人で椅子に座っていた。


 父も来ない。

 王城とも繋がれない。

 社交界は静かだ。

 殿下から言葉もない。


 道が、また一本消えた。


 しかも今度は、彼女の最も原始的な安心――実家なら味方でいてくれるはずだという感覚まで揺らいだ。


 人は追い詰められると、思考が二極化しやすい。


 全部終わりだ。

 いや、まだ何かあるはずだ。


 その極端な振れ幅の中で、冷静な判断はますます難しくなる。


 そして彼女は、やはり後者へしがみついた。


 まだ何かあるはず。

 このまま完全に終わるなんて、おかしい。

 誰か一人でも、本当の気持ちを分かってくれれば。


 その日の夕方、アシュベルン公爵邸では公表後の反応整理が行われていた。


 会議というほど重いものではない。だが集まる情報の質は高い。主要家門の受け止め方、王城内の沈静化の度合い、王太子側近の追加聴取状況、フィオナの別邸での様子。


 レティシアは淡々と報告を確認していく。


「ルミエール家も、娘を引き取るにはまだ動けないようです」


 家令補佐の報告に、レティシアは書類から目を上げた。


「予想どおりね」


「実家が即座に庇護しないのは、少し意外ではございますが」


 その言葉に、レティシアは首を横に振る。


「いいえ。むしろ自然よ」


 彼女は静かに言った。


「家は感情だけで動けるほど自由ではないもの。しかも今回は、王家と公爵家の整理の余波がまだ残っている。下手に娘を引き取って、“不満を抱えた当事者を自家へ戻した”と見られるのは得策ではないわ」


 家令補佐が頷く。


「つまり、ルミエール家も様子見に入ったと」


「ええ。そしてそれは、フィオナにとって一番きついはずよ」


 人が最後まで信じたいのは、制度ではなく身内だ。

 組織が切っても、家は庇う。

 世間が離れても、家族だけは味方だ。


 その前提が揺らぐと、損失感は一気に深くなる。


「お嬢様」


 セバスチャンが少しだけ声を落とした。


「お気の毒とは、やはりお思いになりませんか」


 レティシアは少し沈黙した。


 質問の意図は分かっている。彼女がただ冷酷で処理しているのか、それとも人の痛みを理解したうえで切り分けているのか。その確認だ。


「気の毒よ」


 レティシアは素直に答えた。


「でも、それと信頼は別だわ」


 そして続ける。


「人が苦しい時に気の毒だと思うことはできる。でも、その人に再び近づいていいか、任せていいか、言葉を信じていいかは別問題よ」


 その区別は、感情に流されやすい人ほど苦手だ。

 可哀想だから許す。

 傷ついているから任せる。

 泣いているから信じる。


 そうした短絡は優しさに見えて、実際には判断放棄であることが多い。


 レティシアはそこを分けていた。


「だから皆、距離を取るのね」


 セバスチャンが静かに言う。


「ええ。残酷に見えるでしょうけれど、合理的ではあるわ」


 その夜、フィオナはとうとう一つの行動に出ようとしていた。


 書状がだめなら、直接ではない別の手段。

 王城ではなく、社交界でもなく、家でもない場所から。


 彼女の中には、まだ一本だけ残っている感覚があった。


 自分は“聖女”なのだから、民衆の前に出れば何かが変わるかもしれない、と。


 王家が距離を置いても、貴族が沈黙しても、民は違うかもしれない。

 自分の癒やしの力を見せれば、誰かがまた必要としてくれるかもしれない。

 それが新しい道になるかもしれない。


 その発想は、一見すると前向きに見える。


 だが実際には、損失を取り返したい焦りから来る代替行動だった。


 しかも本人は、それを“自分らしさを取り戻すため”と解釈している。


 そこが危うい。


 最凶公爵令嬢は、その時点ではまだ知らない。


 だが盤面は確実に次へ動き始めていた。


 閉ざされた道の数だけ、人は残った一本に執着する。


 そしてその一本が細いほど、掴んだ時に自分の手を切るのだ。

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