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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第12話 手紙は気持ちではなく負債として読まれる

 同じ文章でも、読む側の立場が変われば意味はまるで変わる。


 恋文として読まれる言葉。

 懇願として読まれる言葉。

 あるいは、火種として処理される言葉。


 制度の中にいる者ほど、最後の読み方を選ぶ。


 翌朝、王城東棟の執務区画では、フィオナから流れた私的書簡が、すでに個人の感情では済まない文書として扱われていた。


 侍従長の机上に置かれた封書は開封済みで、内容は簡潔に要約され、関係者限定の報告として整理されている。


 王太子周辺の侍従および侍女へ、別邸滞在中のフィオナが私信を送付。

 内容は王太子への感情的伝達の依頼。

 正式整理後にもかかわらず、私的経路による接触の継続を図ったものと認められる。


 短い。だが、それで十分だった。


 組織は長文の感情を嫌う。

 嫌うというより、処理しやすい形に削る。


 「苦しかった」も「分かってほしい」も「最後に一度だけ」も、要約されれば同じだ。

 ――正式整理後の私的接触の試行。


 人が自分の気持ちをどれだけ大切に抱えていても、制度の中では驚くほど平坦なラベルへ変換される。


 そこを理解できない人間ほど、組織の壁に何度も頭を打つ。


「殿下、お時間を」


 侍従長が執務室へ入った時、エドガルドは前夜から続く報告書の山に目を通していた。


 疲れているのは明らかだった。姿勢は保っているが、目元は重く、機嫌も良くない。


「何だ」


 侍従長は余計な前置きをせず、封書の写しを差し出した。


「別邸のフィオナ・ルミエールより、殿下周辺に私的書簡が流れております」


 その一言で、エドガルドの眉が寄る。


「……何?」


「内容はご確認ください」


 紙を受け取り、数行読む。


 途中で、彼の表情が目に見えて硬くなった。


 文面そのものは露骨ではない。だが、それが余計に悪い。


 助けてほしいと明言していない。

 会いたいとも書いていない。

 ただ、“本当の気持ちだけでも知ってほしい”“ご迷惑になるつもりはない”“どうか無理のない範囲で”といった逃げ道つきの言葉が並んでいる。


 責任は取らない。

 だが相手には何か動いてほしい。


 その構造が、今のエドガルドにはひどく重たく感じられた。


「何故、こんなことを……」


 ほとんど独り言だった。


 侍従長は表情を変えない。


「正式整理の後でございます。看過できぬと判断いたしました」


 エドガルドは紙を持ったまま黙る。


 彼の中には二つの感情が同時にあった。


 一つは、フィオナが可哀想だという感覚。

 もう一つは、ここまで来てもまだ周囲を巻き込むのか、という強い疲労。


 そして後者が、確実に前者を侵食し始めていた。


 人は誰かを助けたいと思っていても、その相手が自分の生活や立場や秩序を乱し続けるなら、次第に距離を取りたくなる。

 それは冷酷だからではない。自己保存だ。


「返答は」


 やや間を置いて、エドガルドが問う。


「不要かと存じます」


 侍従長の答えはきっぱりしていた。


「むしろ、何らかのお言葉を返せば、再度の期待を生みます」


 正しい。


 エドガルドにも、それは分かった。


 分かるからこそ、苦い。


 何も返さないのは残酷に思える。だが、曖昧な優しさを返す方がもっと残酷だということを、今の彼はようやく理解し始めていた。


「……別邸には」


「以後、王太子周辺への私的書簡は取り次がぬよう通達を出します」


「そうしろ」


 その返事は短かった。


 ほとんど反射に近い了承だった。


 そして言ってから、自分で少しだけ顔をしかめる。


 今の一言で、自分は何をしたのか。


 フィオナを守る選択ではなく、王太子周辺をフィオナから遮断する選択をしたのだ。


 つまり自分は、彼女との関係に一枚、制度の壁を足した。


 それは必要な処理だった。

 だが同時に、感情のレベルでは明確な断絶でもある。


 侍従長が退室したあと、エドガルドはしばらく手元の紙を見つめていた。


 昨夜までなら、怒りの方が先に立ったかもしれない。

 あるいは、やはり自分が支えねばならないのではと錯覚したかもしれない。


 だが今は違う。


 最初に来たのは、疲労だった。


 またか。

 まだ終わらないのか。

 なぜ整理の後に、さらに面倒を増やすのか。


 その感覚は、もう庇護者のものではない。


 負担を切り離したい側の感覚だった。


 一方、別邸ではフィオナが返事を待っていた。


 朝から落ち着かず、窓辺へ行っては戻り、紅茶に口をつけては冷めるまで放置し、何度も侍女へ「何か届いていない?」と聞く。


 そういう行動は、自分の不安をさらに増幅させる。


 脳は待機状態を嫌う。結果が確定しない時ほど、最悪の想像と都合のよい期待を何度も往復し、人を疲弊させる。


 フィオナもまさにそうだった。


 殿下はきっと分かってくれる。

 でも、もし何も返ってこなかったら。

 あの侍従はちゃんと渡したのだろうか。

 いや、もしかしたら今ごろ殿下も苦しんでいて――。


 希望と不安が交互に押し寄せる。


 人はこの状態になると、事実を見るのではなく、自分の感情が少し楽になる解釈を探すようになる。


 昼を過ぎても返事はない。


 夕方になってもない。


 代わりに届いたのは、別邸付きの管理役からの事務的な伝達だった。


「フィオナ様」


 年配の女官が頭を下げる。


「今後、王城各所への私的な書状の取り次ぎにつきましては、事前に内容確認を要することとなりました」


 意味を理解するまで、数秒かかった。


「……内容確認?」


「はい。王家よりの指示でございます」


 フィオナの喉が、ひゅっと狭くなる。


「それは……わたくしが、勝手なことをしたと?」


 女官は一瞬だけ視線を伏せる。


「別邸のご身分とご状況に鑑み、連絡経路を整理する必要があるとのことです」


 整理。


 またその言葉だった。


 整理。

 静養。

 手続。

 不適切。


 誰も彼女を感情で責めない。

 だがその代わり、彼女の行動は次々に制度の言葉で囲い込まれていく。


 フィオナの顔色が変わった。


 これは単なる返事が来ないという話ではない。

 自分の言葉が、最初から自由には届かない位置へ移されたのだ。


「そんなの……監視じゃない……」


 掠れた声で言う。


 だが女官は答えない。


 監視かどうかは重要ではないからだ。

 組織にとって重要なのは、問題の再発を防ぐことだけである。


 フィオナはその場に立ち尽くした。


 自分の言葉は、もう誰かの胸へ直接は届かない。

 まず先に、読むべきでない人間たちに読まれる。

 判断される。

 通すか止めるか決められる。


 その現実は、彼女にとって耐えがたかった。


 なぜなら今までの彼女は、「感じたことを表せば誰かが意味づけしてくれる世界」で生きていたからだ。

 だが今は逆だ。

 「表した感情が、先に危険性として意味づけられる世界」へ移された。


 そこでは、彼女のやり方は通用しない。


 夜、アシュベルン公爵邸には王城側の追加反応も報告として届いていた。


「私信の取り次ぎ制限まで入りましたか」


 レティシアは書面を読み終え、小さく呟く。


「はい。王太子周辺との私的接触を防ぐための整理と」


「早かったわね」


 セバスチャンが問い返す。


「お嬢様のご想定よりも、でございますか」


「ええ。でも不思議ではないわ」


 レティシアは報告書を閉じた。


「正式整理の直後に私信が飛んだなら、王城側は“感情の問題”ではなく“再発リスク”として処理するもの。特に今回は、すでに皆が疲れているからなおさらよ」


 疲労は判断を変える。


 余裕のある時、人は多少の曖昧さや感情の揺れを受け止められる。

 だが連続して問題が起これば、許容量は急速に減る。

 すると、今までなら流せたものまで「もう無理だ」と切られ始める。


 フィオナが見誤ったのは、まさにそこだった。


「これで、殿下もようやく理解し始めるでしょう」


「何をですか」


「庇うという行為には、感情だけでなく維持コストがあるということを」


 レティシアは淡々と答える。


「誰かを守ると決めたなら、その人が起こす二次的な混乱まで引き受ける覚悟がいる。でも殿下は最初からそこまで考えていなかった。可哀想だから守る、だけで始めたのよ」


 それは人としては自然だ。


 だが責任ある立場では弱い。


 可哀想、傷ついている、助けたい。

 その感情自体は否定されない。

 問題は、その先に生じるコストを引き受けられるかどうかだ。


 エドガルドは、そこを最後まで持てなかった。


 だから今、感情ではなく疲労によって関係を閉じ始めている。


「……人は、壊れる時に自分の本音が出るものね」


 レティシアは窓の外を見た。


「フィオナは、守られたいことを隠せなくなった。殿下は、もう面倒を増やしたくないという本音を隠せなくなった」


 どちらも、最初から心の中にはあった。


 ただ平時は、もっと綺麗な言葉で覆えていただけだ。


 今はその覆いが剥がれてきた。


 だから局面が進む。


 別邸の夜は静かだった。


 だがフィオナの中では、静けさとは正反対のものが渦巻いていた。


 返事が来ない。

 書状は自由に出せない。

 王城との道が、また一つ閉じた。


 それでも、まだ完全には諦められない。


 諦めた瞬間、自分は本当に全部を失ったと認めることになるからだ。


 だから彼女は、眠れないまま暗い天井を見上げる。


 人は、現実を受け入れるより、まだ何かあると信じている方が楽な時がある。

 たとえ、その「何か」が自分をさらに追い詰めるだけだとしても。


 最凶公爵令嬢は、その夜も何も言わなかった。


 もう盤面は十分に傾いている。


 あとは、相手が自分で閉じた道の多さに気づくまで、静かに見ていればいいだけだった。

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