第24話 賑やかな朝に、消えた人影
朝の黒金家は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
「本日の翠様の身支度は、私が担当いたします」
「いいえ、本日のローテーションは私のはずです。昨日は桔梗さんが独占なさったではありませんか」
洗面所の前で、二人のメイドが静かに、けれど鋭く睨み合っている。
朝の恒例行事だ。この屋敷には、私のお世話役の座を巡る、ちょっとした攻防が存在する。
何が彼女たちをそこまで駆り立てるのか、正直なところ、私にはよく分からない。単に仕事熱心なだけ、なのだろうか。
「お二人とも、お控えください。本日は私が──」
涼やかな声と共に、桔梗さんが音もなく現れた。
「……桔梗さん。また、ですか」
「仰る通りです。私、翠様のお世話役の座は、当面譲るつもりはございませんので」
にこやかに、だが有無を言わさぬ圧をもって、桔梗さんはそう言い切った。
方向音痴という弱点さえなければ、この屋敷で彼女に敵う者はいない──そんな評判は、伊達ではないらしい。
『今日も、平和だなぁ』
私は、この微笑ましい攻防を横目に見ながら、朝食の席へと向かった。
大広間に着くと、月愛姉がすでに席についていた。
「翠くん、おはよう」
「おはよう、姉さん」
そう挨拶を交わしていると、配膳をしていたお世話係の一人が、月愛姉にそっと耳打ちをしているのが見えた。
「……お嬢様、本日も、翠様を見つめるお目が、一段と優しゅうございますね」
「ちょっ……! 何を言って……!」
月愛姉の頬が、見る見るうちに赤く染まっていく。
何を耳打ちされたのか、私には聞き取れなかった。ただ、お世話係の女性が、どこか微笑ましそうに二人のやり取りを見守っていたのが、少しだけ気になった。
「ところで、翠くん。お父様が、今日の夕方に話があるんですって」
月愛姉が、思い出したようにそう言った。
「話?」
「うん。何の話かは、私も聞いてないんだけど……」
そう言う月愛姉の表情に、ほんの一瞬、何かを期待するような色が浮かんだ気がした。
私は、特に気に留めず、朝食に手をつける。
いつも通りの、穏やかな朝だった。
けれど、その日の午後。
屋敷の裏手を歩いていた私は、ふと、普段は使われていないはずの倉庫の近くで、人影を見た。
一瞬だけ見えたその横顔は──剛さんに、よく似ていた。
「……剛さん?」
声をかけようとした瞬間、その人影は、建物の陰へと滑るように消えてしまった。
『……気のせい、か?』
けれど、数週間も姿を見ていない人物が、よりによって今日、こんな場所に現れるものだろうか。
胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。
夕方、隆盛さんが話があると言っていたことと、何か関係があるのだろうか──そんな予感を抱えたまま、私は屋敷へと戻った。




