#64 月乙女の吐息の下で
その言葉を口にした瞬間、セシルの胸に張りつめていた緊張が、すっとほどけていった。
バスチアンは、彼女の手をしっかりと握りしめたまま、じっと見つめている。
深紅の瞳には、確かな愛情と、ひどく熱のこもった光が宿っていた。
セシルは小さく息をつき、彼に微笑み返した。
けれど、その瞬間、ふわりと足元が揺れた。
「……あっ……」
膝から力が抜けていく。
まるで自分のものではないみたいに。
今までの緊張が解けた途端、聖水の効果が遅れてセシルの身体を襲ったのだ。
戸惑う間もなく、全身を駆け抜ける熱。
じんわりと内側を溶かしながら、思考をゆっくり侵していくような、奇妙で甘い感覚。
身体の芯が熱を帯び、肌が火照る。
喉の奥が乾き、吐息が微かに震える。
それはまるで、花が夜露を吸い上げるように……静かで、けれど抗うことができない。
体がぐらりと傾いだ瞬間、バスチアンが咄嗟に抱き留めた。
「セシィ!」
その腕は力強く、だけど優しい。
そして、セシルは気づいてしまう。
彼の瞳の奥が、さっきよりもさらに深く濡れていることに。
抱きしめられた身体が、熱い……。
いつしか温室の中は月乙女の吐息が満開に開いていた。
甘すぎる香りが漂い、熱を帯びたふたりの間に絡みつくように広がっていく。
ほんのわずかに残っていた理性を、静かに蕩かしながら。
セシルの胸が、とくんと震えた。
バスチアンはゆっくりと息を吸い込み、指先でセシルの唇の輪郭をなぞる。
「あっ……ティアン……。」
セシルの身体の奥がきゅんと爆ぜる。
彼の声が、まるで熱を孕んだ夜風のように、耳元を撫でた。
「だから……聖水など必要ないと言っただろう?」
彼の言葉は、唇の端に熱を宿したまま、柔らかく落ちる。
「そう……かも。」
セシルは吐息の合間に、ぽつりとつぶやいた。
「もうっ。……あなたにだけ、飲ませればよかったわ。」
身体の奥が、苦しいほどに熱い。
はやく……この熱をなだめてほしいと、叫んでいた。
それを見て、バスチアンがふっと笑う。
片手で彼女の腰を抱いたまま、もう一方の手を伸ばして、窓辺に並ぶ植物から艶やかなエメラルド色の果実をひとつもぎ取る。
それを唇に運び、カリッと噛むと、甘い果汁が弾けた。
「……ほら、飲んでみて。きっと中和される。」
そう囁いて、彼は果実をセシルの唇の間でそっと絞る。
「……んっ……。」
甘く爽やかな香りが広がる。
しかし、それよりも強く残るのは……セシルの唇に触れる彼の指先の熱。
「……少しは楽になった?」
こぼれた果汁が唇から顎へと伝い落ちる。
バスチアンはその一滴を、そっと指で拭った。
「……少し、だけ。」
頷くセシルの頬が、ふわりと染まる。
その赤みに気づいて、彼がくすりと笑う。
「……でも、まだ足りない?」
そう囁きながら、吐息だけで首筋をなぞる。
セシルは、小さく喉を鳴らした。
その仕草を見た瞬間、バスチアンの瞳がさらに深く濡れる。
「でも……わかってると思うけど……」
彼はゆっくりと顔を寄せた。
彼の唇に残る果実の甘さが、セシルを誘う。
彼の視線が、セシルのドレスをかすめ、熱を帯びさせる。
セシルは耐えきれずに、バスチアンの袖をそっと引いた。
くすりと笑う吐息が、耳元をくすぐる。
「……ここは王宮の温室だ。転移魔法は使えない。」
その言葉とともに、彼の唇が首筋に触れる。
熱い。
それだけで、脚が震えた。
「だから……。」
バスチアンは再びセシルを抱き抱える。
その両腕が、彼女をやさしく包み込む。
「……あっ……。」
逃れられないその腕の中、バスチアンの指先から黄金の光がふわりと放たれる。
「……そんなの……なくていいのに……。」
セシルは小さく身をよじる。
「いや、絶対に必要だ。」
彼は急いた口調を隠し切れずに、セシルの耳元に囁く。
「そうでないと……君をソレイユまで馬車に乗せる自信がない。」
そう言って、手早く、けれど念入りに魔法をかけた後、再び彼女を背中から抱きしめた。
彼の体温がセシルの背中にぴったりと重なる。
セシルは自らの熱から逃れるように前方に腕を伸ばした。
指先に、乙女の吐息の木の幹がざらりと触れた。
呼吸が整わない。
熱が逃げない。
どうか……お願い……。
「……セシィ。そのままそこに捕まっていて。」
低く落とされた声に、身体が震える。
「ティアン……。」
崩れ落ちそうになるのを堪え、セシルはぐっと木の幹に手を突いた。
温室の天井近くで咲いていた月乙女の吐息の花弁が、ふるりと震え、はらりと舞った。
雪のような花びらが、熱を孕んだ空気の流れに乗って、セシルの肩へ、背中へと触れていく。
「綺麗だ……セシィ……。」
首筋にバスチアンの熱い吐息がかかる。
二人の上に、ふたたび銀白の花弁が舞い落ちる。
ひとひら。
そして、もうひとひら……。
「君に……ふさわしい冠だ……。」
セシルは、かすかに目を閉じた。
その耳元で、彼が息をひそめるように囁く。
「ああ、セシィ………愛してる……。」
甘い香りに包まれる温室の中、頭上の梢からは絶え間なく、月乙女の吐息の花が零れ降る。
翌朝。
朝の光が硝子越しに差し込む中。
銀白に降り積もった月乙女の花弁を踏み分けて、ふたりは手を繋いで温室を後にした。
ありがとうございます。次回最終回です☆




