#34 星降る尖塔の都で
数日の旅を経て、ようやくエクリプス王国の王都が視界に広がった。
遠くからでも分かる、無数の尖塔が立ち並ぶ幻想的な光景。
「……夢のように美しいわ」
馬車の窓から外を眺めながら、セシルは思わず息を呑んだ。
これから始まる異国での滞在。
胸の奥に、期待と緊張が入り混じる。
城門をくぐり、王宮へと向かう道すがら、街の景観がゆっくりと広がっていった。
壮麗な王宮の周囲には、今まで見たことのないほど高く、美しい建物がそびえ立っている。
空へと伸びる尖った三角の屋根を持つ塔の群れ。
それはまるで、天へと手を伸ばそうとするエクリプスの王都そのものだった。
「ここは『星降る尖塔の都』と呼ばれているんですよ」
案内役の者が誇らしげに語る。
セシルは、自国の図書館で調べた書物を思い返したが、この独特な建築様式についての記述はなかった。
不思議に思い、尋ねてみると……。
「これは、ここ十年の間に急速に発展した建築技術によるものです。
新たな設計法が発見され、それによって次々と華麗な建物が建てられました。」
その勢いこそが、エクリプス王国の繁栄を象徴しているのだと感じられる。
街並みに見惚れているうちに、馬車は滞在先の離宮の建物へと到着した。
王宮に隣接するその離宮もまた、いくつもの優美な尖塔が組み合わされた壮麗な建物だった。
そして、セシルの部屋は、その尖塔のひとつの最上階に用意されていた。
リュミエールでは、屋根裏に近い最上階の部屋は使用人のためのものと決まっている。
しかし、この国では、最も高い場所の部屋こそが最も高貴な者にふさわしいとされているらしい。
そのため、バスチアンの部屋はセシルのすぐ下の階にあり、さらにその下の階には他の随行員たちが宿泊している。
一番下の階には護衛騎士たちの部屋が用意されていた。
「塔、なのですね。」
バスチアンが、感慨深げに呟く。
セシルは、彼の視線を受け止めながら、小さく微笑んだ。
「本当に……素敵な、塔ね。」
お互いの視線が探るように絡む。
彼の頭の中には、間違いなく、あのリストの一項目が浮かんでいるはずだった。
『14.閉じ込められた塔から脱出する』
「……わざと閉じ込められるのは、つまらないわね。」
セシルが何気なく言うと、バスチアンは微かに口角を上げた。
「ええ、それではただのかくれんぼですよ。」
「でも、異国で騒ぎを起こすのはまずいわ。」
「もちろんです。」
彼はわざとらしくため息をつく。
「……外交上の問題になりかねませんから。」
「ええ……。」
セシルはちらりと彼を見やり、思わせぶりに目を細めた。
「まあ……しばらく滞在するし……もしかしたら、そんな機会も……?」
「……あるかもしれませんね。」
バスチアンの紅い瞳が、考え深げに瞬いた。
やがて、どちらからともなく微笑み、二人は並んで塔を見上げた。
太陽に照らされた尖塔は、静かに青空に向かって伸びていた。
*******
セシルたちは、王宮に到着すると、まずはトライン王子への挨拶に向かった。
広々とした謁見の間に通されると、そこには華やかな衣装を身にまとったトライン王子が立っていた。
だが、その顔にはどこか疲れがにじんでいる。
「この度はおめでとうございます。」
セシルが微笑みながらそう言うと、王子は一瞬きょとんとしたあと、少しぎこちなく頷いた。
「あ、ああ……ありがとう。そうなるといいんだけど……。」
そう言いながらも、彼の表情は晴れない。
結婚式を間近に控えた王子は、どうにも落ち着かない様子だった。
「仮面舞踏会が開催されることは、伺っておりますわ。」
セシルが話を向けると、トライン王子は小さくため息をついた。
「ああ……。王国の伝統だからね。
結婚式の前夜に仮面舞踏会を開き、そこで妃を探し出す。それが最初の試練と呼ばれている。」
「試練、ですの?」
「そうさ。仮面をつけた女性たちの中から、正しい妃を見つけ、正しい手順で求婚しなければならないんだ。」
「ええ、それは、本で拝見しましたわ。」
「そうか。」
王子は苦笑する。
「舞踏会の場では、ただ求婚するだけじゃない。いくつか演出が求められている。」
「ええ、『間違えた求婚』をするのですよね?」
「そう、それも知っていたんだね。」
トライン王子は少し驚いたようだった。
「ええ、独特な習慣ですわね。」
「王族の婚姻は政治的な意味を持つからね。
仮面舞踏会には国内外の王族や貴族が参加する。
彼らの姫君を称え、偽りとはいえ求婚することで、場を盛り上げ、関係を和らげるためなんだ。」
「なるほど……そうなのですね。」
セシルは納得したように頷いた。
「もちろん、その相手はあらかじめ決めておくよ。
もし予想外の相手に本気で『はい』と言われてしまったら、大変なことになるからね。」
「ふふっ、確かに。それを華麗に演じ切るのも、王子としての腕の見せどころですわね。」
「そういうこと。」
トライン王子も少しだけ笑みを見せた。
「そして最後に、正しい妃を見つけ、伝統に従った正しい言葉で求婚する。
その後、私達はワルツを一曲踊り……そして、舞踏会は再び華やかに幕を開ける。
来賓たちが夜通し踊るんだよ。仮面をつけたまま、国や立場の違いを忘れてね。」
「とてもロマンチックですわね。」
セシルが微笑むと、王子は視線を落とした。
「ロマンチック……なのは、ここまでだよ。そのあとがね……。」
「……?」
王子の言葉に、セシルは首をかしげた。
「舞踏会の喧噪の中、私達はひっそりと退場する……。」
彼は一度そこで言葉を飲み込み、絞り出すように、言った。
「……初閨の間へ、ね。」
それから自嘲するように、小さく笑った。
「そして翌朝、礼拝堂の祭壇にその『証』を捧げて初めて、正式な結婚式が執り行われる。」
セシルの微笑みが、ぴたりと止まる。
「……え?」
「もし、それが果たせなければ……結婚式は翌日へと延期される。
そして、その間、仮面舞踏会は終わらない。」
「舞踏会が、終わらない……?」
「夜が明けても、鐘は鳴らない。誰も帰れない。宴は続く。
すべての参加者が待ち続ける中、私と新妃が成功し、『証』を捧げるまでは……。」
セシルは絶句した。
「………とても……伝統的な、様式なのですね……。」
ぎこちなく言うと、トライン王子は力なく頷いた。
「ああ、そうなんだ……。」
そう言ったきり、彼は黙り込んでしまう。
やはり、相当なプレッシャーなのだろう。
「何と言っていいか……。
もし、わたくしに何かできることがありましたら、おっしゃってくださいませ。」
社交辞令のつもりで口にした言葉だった。
だが、トライン王子は少し考え込んだあと、「じゃあ……」と切り出した。
「私の、三人目の求婚の相手になってもらえますか?」
思いがけない申し出に、セシルは一瞬驚いた。
だがすぐに微笑み、優雅に頷く。
「ええ、もちろんいいわ。嬉しいわ。」
王族同士の親善のためとはいえ、こうした特別な役割を任されるのは光栄なことだった。