#33 馬車の中でできること
「な……何が……できるの?」
セシルの囁くような声が、かすかに震えた。
バスチアンの腕の中は温かい。
彼の膝の上に抱き寄せられたまま、逃げることもできず、ただ彼の鼓動を感じていた。
ふと、ある小説の場面が脳裏をよぎる。
王子と子爵令嬢の切ない恋の物語。
馬車の中で、王子が言った。
『私の行いは、常に正しきものとして認められるのです。』
そして熱い口づけ。
次の章では、彼女はなぜか自分で歩けず、王子に抱き下ろされていた。
しかも彼のコートを羽織ったまま……。
それって、もしかして……。
「ああ……わたくし……やっと、わかったかもしれないわ!」
セシルは思わず声を上げた。
そういうことだったのね! あの場面は、そういう意味だったのね!?
その発見に胸が高鳴る――その瞬間、首筋に熱い吐息がかかる。
「え……?」
驚きに目を瞬かせる間もなく、バスチアンの腕が優しく、彼女を包み込む。
すでに抱き寄せられていたはずなのに、その腕がわずかに強まるのを感じた。
彼の体温が、まっすぐに伝わってくる。
「セシィ。今、そう呼んでも?」
耳元で、甘やかな囁きが零れる。
その響きに、セシルの思考が一瞬で止まった。
セシィ……それは、彼が理性が保てなくなる愛称。
彼の唇が、すぐそばにある。
わずかに触れる吐息すら熱を帯びている気がして、セシルは息を詰める。
密室の中、バスチアンが恋人としての親しい口調へと変えたのに気がついた。
その瞬間、空気が変わった。
セシルの頬が一瞬で熱を持った。
「だ……だめです!」
まるで、心の奥を直接撫でられたように、胸の鼓動が早まる。
いったい何を言ってるの……!?
声が裏返りそうになりながらも、必死に制止する。
今、まさか……本当に、それを実践するつもりなの?
息を詰まらせるセシルをよそに、バスチアンは涼しい顔で微笑む。
そして、まるで何気ない仕草のように、指先でそっと彼女の頬に触れる。
「……っ!!」
慌てて手を払いのけようとするが、すぐにもう片方の手が絡めとるように添えられる。
柔らかく、それでいて逃がす気のない絶妙な力加減。
ダメ、これはダメ。ここでは絶対ダメよ!
すぐ外に、エミールがいる!
御者もいるし、馬車の前後には護衛騎士。
後ろの馬車には随行員や侍女も……!
窓には保護魔法がかけられ、外からは見えない。
でも、だからって、こんなの……!
セシルはぷるぷると首を振り、彼の腕を押し返そうとする。
「本当に? 君の身体に確かめてもいい?」
「……!」
言葉が詰まる。
バスチアンは、そんな彼女の反応を楽しんでいるかのように、ゆっくりと指先を滑らせる。
頬から顎へ、そして……
「…ぁ…っ……」
喉元に指が触れた瞬間、セシルはぴくりとして、思わず声を漏らした。
くすっと、低い笑い声が落ちる。
「……ここも敏感だね。」
「~~~~っ!!」
彼の唇がセシルの首筋に移動する。
肌に触れないギリギリの位置で、吐息だけでキスをする。
「だ……だめよ、ティアン………もう……放して……。」
「俺は何もしていない…………まだ、ね。」
言って、彼はすこし離れて、セシルの瞳をのぞき込んだ。
「じゃあ、君に選ばせてあげる。」
「え………何を?」
バスチアンの指先が、遊ぶように彼女の手の甲をなぞる。
何気ない仕草なのに、指の温もりがじわりと広がり、心臓の音が速まる。
「これから窓の保護魔法を解呪する。
それから、君にほんのささやかな、優しいキスをする。
それならいいかな?」
「さ……ささやかな?」
セシルは反射的に身を引こうとしたが、逃げ場などない。
バスチアンの青い瞳が愉しげに細められる。
「そう。あいさつと同じだよ。心配ないだろう?」
「…………。」
そんなわけがない。
キスを始めてしまったら、それで終わるわけがないのだ。
わかっているのに、彼の声は甘く、心を溶かすようで……。
「それか、窓はこのままにしておく。
俺たちは好きなことができる。」
「……っ!」
彼の微笑は、まるでセシルの心の内を見透かしているようだった。
「………ああ、もちろん俺は、君が嫌がることは何もしないよ?」
にこりと、彼は微笑んだ。
「……どうして、その二つしか選択肢がないの?」
問い返しながら、自分でも声が少し震えているのがわかった。
でも、どこにも逃げ道がないような気がして……。
「ふふっ……君の聡明なところ、大好きだよ。」
くすくすと喉を震わせ、彼は楽しそうに囁く。
「じゃあ三つ目の選択肢もあげるよ。」
「……?」
「窓の魔法を解除する。」
「え、それだけ?」
「うん、それだけ。」
「何も、し……ない、の?」
問いかけた瞬間、自分でも驚くほど掠れた声が漏れた。
言葉にして初めて、自分の中にあった小さな期待に気づいてしまう。
そして、気づいた途端、胸の奥がひどく熱くなる。
バスチアンの指が、そっと彼女の手を包み込む。
「君が今、思い描いたこと以外はしないよ。」
その動きはどこまでも優しく、けれど、逃がすつもりがないのがわかる。
「…………。」
それってつまり………!?
セシルの脳内に、たった今まで彼が並べ立てた『選択肢』が蘇る。
窓を開けて……ささやかなキス?
窓を閉じたまま……『好きなこと』をする?
バスチアンと過ごしたフェルモントでの夜が、ちらりと、脳裏をよぎった。
想像した途端、喉が熱くなる。
違う……! そんなこと、考えるつもりじゃなかったのに……!
こんなところで、こんな風に考えてしまうなんて……。
手のひらがじっとりと汗で湿り、鼓動が変に高まる。
ぐるぐると混乱する彼女を、バスチアンは優雅に観察している。
「セシィ?」
答えを求めて、バスチアンが、いたずらっぽく微笑む。
触れている彼の手はまだ熱い。
その指先がわずかに動くだけで、心臓がうるさい。
「…………………窓は、このままでいいわ。」




