#32 魔獣に襲われて死にそうなくらい怖いです
セシルたちの一行は、王都を出発し、エクリプス王国へ向かう。
馬車での旅は数日に及ぶ。
国境を隔てる山岳地帯は険しく、魔獣が生息する危険な地帯だ。
外国訪問でこの地域を通過する際には、馬車に隠れ身の魔法をかけ、魔獣の気配に悟られないようにするのが常だった。
それなのに、今回はなぜか何度も魔獣との遭遇があった。
この日も、冷たい風が吹き抜ける峠道を進む中、突然、小さな魔獣が現れた。
小鹿ほどの大きさの、トカゲのような異形の生物。
背に光る棘を持ち、鱗は黒曜石のようにきらめいていた。
黄色い目がぎょろりと動き、鼻先がひくつくと、鋭い爪を振り上げ、馬車へと一直線に飛びかかった。
「っ……!」
並走していたエミールが即座に剣を抜き、迷いなく馬を飛び降りる。
一閃。
銀の軌跡が空を裂き、魔獣の動きがピタリと止まる。
ゴトリ、と地面に崩れ落ちた魔獣の体から、青い血が飛び散った。
馬車の窓にも、その血がべったりと付着する。
セシルは窓越しにその様子を眺めていた。
一瞬ひやりとしたものの、エミールの剣捌きは見事だった。
バスチアンが馬車の扉を開け、外の様子を確認しに行く。
エミールと短く言葉を交わし、馬車に戻る前に魔法で扉についた血をさっと消し去った。
そして、馬車に戻ると、小さく咳払いをしてから、真顔で告げた。
「……ああ、とても凶暴な魔獣でした。もう少しでこの馬車がやられるところでしたよ。」
「えっ?」
そんなに危なかったかしら?
確かに魔獣は襲いかかってきたけれど、エミールが一瞬で斬り伏せたはず。
外国訪問を何回もしているセシルからすると、この程度のトラブルは、日常茶飯事だった。
「恐ろしい思いをなさいましたね。
王女殿下は、『魔獣に襲われて死にそうに』なられたのですから。」
「あっ……。」
もうやらないことにしてあった、恋のリストの『16.魔獣に襲われて死にかける』。
バスチアンは、魔獣の血を見てしまったセシルの気を少し引き立てようとして、わざと冗談めかして言ってくれたのだろう。
セシルは、それに応えて、そっと彼の胸に身を寄せる。
「ああ……フレアベリー卿。わたくし、とても怖かったわ……。」
彼の腕にそっと手を添え、『か弱い令嬢風』に囁いてみる。
バスチアンが優しく、セシルの手を握った。
「もう大丈夫です、王女殿下。
今はこうしていても、立派な言い訳がありますよ。」
お互いに演技力は最低だ。
でも、こんな他愛のないやりとりが、少しだけ気分を上向かせてくれる。
それに、耳元で優しく囁かれると、心の奥にじわりと甘さが広がる。
セシルはそっと目を伏せ、彼の肩にもたれかかる。
バスチアンは何も言わずに、ただ優しく彼女を抱きしめる。
すると、ふと、遠慮がちに声がかかった。
「あのぅ……フレアベリー様……。」
はっ……!
侍女のクロエが同じ馬車にいるのを、すっかり忘れていた!
「わたくし……馬車を移らせていただきますね。」
クロエは扉を塞ぐように座っているバスチアンにそういうと、馬車の扉を開け、ほぼ逃げるように後続の馬車へ移動してしまった。
バスチアンは、それを見届けると、ゆっくりと扉に手をかける。
カチャリ、と鍵がかかる微かな音が、密室になった空間に響く。
セシルは、なんとなく居心地が悪くなり、そっとバスチアンから距離を取った。
「……ね、ねえ、今日の魔獣、どうして馬車に飛びかかってきたのかしら?
魔法がかかっているから、いつもは魔獣には気づかれないでしょう?」
バスチアンの表情が少しだけ真剣なものに変わる。
「それは私も気になっているところなのです……。」
「バスチアンがわざと魔法をかけなかったの?」
「そのようなことは致しません。
こちらの隠れ身が通じない魔獣なのかもしれませんね。
見たことがない魔獣だったことも……少し気になります。
詳しく調査したほうがよいと思いますので、エクリプスから戻ったらすぐに、第一騎士団に報告しておきます。」
第一騎士団……それはセシルの幼馴染である、シャルトリューズ公爵ジェラールが指揮する魔獣討伐隊だ。
「そうね。ジェラールがなんとかしてくれるわね。」
ふと疑問に思い、セシルはバスチアンに尋ねた。
「そういえば……バスチアンは、剣は持たないの?」
バスチアンが微かに自嘲するような笑みを浮かべる。
「剣を抜くより先に、指先から魔力が出てしまうんですよ。」
そう言って、彼は軽く手をかざす。
瞬間、彼の指先にほのかな光が灯る。
「魔法のほうが先に反応してしまうから、剣は向いていなかったのです。」
「そう……。」
剣と魔法、どちらも極めることができる者は限られている。
バスチアンほどの魔法の才があれば、剣に選ばれなかったのも無理はない。
「でも、本当は両方できたほうがいいにきまっています。
エミールは魔法も使えるし……きっといい近衛騎士になりますよ。」
バスチアンの声が、少しだけ寂しげだった。
セシルが何か言おうとした、その瞬間……
彼の手がするりと背にまわり、次の瞬間には、セシルは膝の上に引き寄せられていた。
「きゃっ……!」
一瞬で膝の上に抱き上げられ、息が詰まる。
「それでも……この旅の間は、私が王女殿下をお守りします。」
彼の胸元に手を添え、押し返そうとするものの、ぎゅっと抱きしめられたまま離してくれる気配はない。
「ええ…わかってるわ。」
バスチアンを見上げると、彼は微笑みながら、唇の端を指でそっとなぞる。
「……やっと二人きりになれましたね。
馬車の中では……『手を繋ぐ』以外のこともできるんですよ?」
バスチアンが、指先からふわりと光を放つ。
瞬間、窓に淡い魔法の膜がかかり、森の木漏れ日がゆるやかに遮られる。
外の景色はぼんやりと霞み、馬車の中は穏やかな影に包まれた。
ゆるやかな馬車の揺れ。
そして、彼の赤い瞳がセシルを捕えて、甘く揺らめく。