月下の茶番劇
「起きろ……目を覚ませ、ミナト」
遊び疲れて昏々と眠り続けていた俺の耳に、低く押しひそめられた女の声が、しのびこんでくる。
何だかとっても心地いい声音だ。
だが、日中の馬鹿騒ぎで疲れ果てていた俺は、寝返りをうってその声から逃げようとした。
すると、今度は温かく小さな手の平が無遠慮に肩をゆさぶってきて、安らかな眠りの世界から俺の意識をひきずりだそうと試みてきた。
「もうちょい寝かせてくれ……後で何でも食わせてやるから……」
無意識に、そんな言葉が口をついて出る。
ということは、俺はその声の主が誰かということをきちんと認識できていたのだろうか。
「腹はまだ満ちている。横言をぬかしている場合か。とっとと起きろ、うつけ者め」
しぶしぶまぶたを持ち上げると、不機嫌そうな黄色い瞳が、闇のむこうから俺の顔をのぞきこんでいた。
「何だよ、まだ真っ暗じゃねェか……お前の部屋は、隣りだろ。添い寝だったら、ナギに頼めよ……」
「その小娘を起こさぬよう忍び出てきたのだ。いいかげんに起きぬと痛い目に合わすぞ、貴様」
「腹が減ってないなら、何の用だよ? ……わかったわかった。そんなおっかない目でにらむなって」
しょうことなしに、俺は半身を起こしてやった。
昼間と変わらぬ甚平姿で、トラメがベッドのかたわらに立ちつくしている。
枕もとの間接照明しか点けていない室内はほぼ真っ暗で、隣りのベッドからは宇都見の安らかな寝息が聞こえていた。
備えつけの時計を見ると……午前二時半?
くそ、夜明け前どころか、まだ真夜中じゃないか。俺たちは○時近くまでトランプに興じていたのだから、これはあまりにひどい仕打ちだ。
しかし、俺の非難がましい顔つきになどはまったく頓着せず、トラメは俺の右手首を握りしめ、むりやり部屋の外へと引っ張っていこうとしはじめた。
その性急な行動と、強く光る黄色い目に、ねぼけきっていた俺の頭脳も少しだけ理性を取り戻す。
「どうしたんだよ。まさか、魔術師どもでも襲ってきたってのか?」
「違う。あの娘とギルタブルルが、この建物を出ようとしているのだ」
「なに?」
宇都見を起こさぬよう気をつけながら、俺たちはそっと部屋を出た。
トラメは俺の右腕をつかんだまま、さらに回廊を突き進んでいく。
「ちょっと待てよ。あの娘って、もちろん七星のことだよな? あいつらが建物を出ようとしてるって……ただの散歩か何かじゃないのか?」
「そんなわけがあるか。我の目を節穴だとでも思うているのか、貴様は?」
「いや、そういうわけじゃないけどよ。……おい、ちょっと待て、トラメ! お前、いったい何をするつもり……」
回廊の途中にあった窓に手をかけはじめたトラメの姿に、俺はついつい大きな声をあげてしまう。
とたんに右手が強くひかれて、俺の目の前にトラメの黄色い瞳が肉迫してくる。
「騒ぐな。あの小娘が目を覚ましたら厄介だろうが。我の配慮を台無しにする気か、貴様は」
ああ、ナギを巻き込まないように配慮してくれたのか。
それは本当に、心の奥底から感謝する。だけど、顔が近すぎるぞ、トラメ。
「……我らの今後の命運は、あの娘の動向に強く影響されることになるであろう。何を企んでいるのかは知れぬが、しかと把握しておく必要はある」
その言葉にも異存はない。
だけど、どうしてそんな風に窓を引き開けて、俺の腕をぐいぐいと引っ張ってくるんだよ?
いちおう言っておくけれど、ここは十階なんだぞ、十階。
「いた。何とか、まにあったな」
嫌な予感は、的中した。
トラメは、その窓からひらりと身を投じてしまったのだ。
俺の右腕をしっかり握りしめたまま、な。
ジェット・コースターなど比にならない落下感が、俺の背骨を凍りつかせ、俺は、失神しそうになった。
走馬灯も脳裏を横切ったかもしれない。
真っ暗でロクに風景も見えなかったのが、せめてもの幸いだ。
落下地点は、ホテルの正面側の歩道だった。
そして、そこには確かに、七星とアクラブが二人して俺たちを待ち受けていたのだった。
「うわぁ、びっくりした! 投身自殺かと思ったら、ミナトくんとトラメちゃんじゃん!」
ああ、俺もてっきりそうかと思ったぜ。無理心中じゃなくて何よりだ。
トラメの手さばきによって何の痛痒もなく石の歩道に降ろされた俺は、その場にへたりこんだまま、「よお」と七星に挨拶してみせた。
強がりだよ、もちろん。
数瞬前までちぢみあがっていた心臓は、突然の暴挙に猛然と抗議するかのように、俺の胸郭内で激しいビートを刻んでいる。
何の望みをかなえてもらったわけでもないのに数年分の寿命を消費しちまった気分だよ、まったく。
「そんな格好でどこに行くんだ? 夜のお散歩って雰囲気じゃあねェなぁ、七星」
七星は、リゾートチックなワンピース姿から、いつもの活動的な吊りズボン姿へとフォーム・チェンジしてしまっていた。
しかも、その頭にかぶっているのは、ハンチングではなく暗視ゴーグルつきの航空隊みたいなヘルメットだ。
こいつがこんなモノをかぶる姿を、俺はこれまでに一度しか見たことがない。言うまでもなく、魔術師どもとの全面対決が催されたあの夜以来、だ。
「もなみたちはお仕事だよ! ミナトくんたちこそ、こんな時間にどうしたのさ?」
七星は悪びれた様子もなく、むしろ不思議そうに首を傾げている。
そのきょとんとした小動物みたいな表情をにらみ返しながら、俺はようようトラメのかたわらに立ち上がった。
「お仕事って何だよ? ここには遊びに来たんじゃなかったのか?」
「それはそうだけど、もなみは忙しいカラダなの! おまけに大富豪だけど貧乏性だから、リゾートの合間に、たまってる仕事をいくつか片付けておこうと思っただけさぁ」
「……そんな物々しい格好で、どこに行く気だ?」
「それはヒミツ! ミナトくんには関係ないでしょ?」
「関係ないってことあるか! あの魔術師どもがからんだ話なら、俺たちだって立派に関係者だろ?」
「だから、そうじゃないんだってば。これは『暁』がらみのお話じゃなくって、『黄昏』がらみのお仕事なの」
七星は、あくまであっけらかんとしている。
「まあ支障のないていどにお話させていただくと、この近所に『黄昏』のメンバーの生まれ故郷があるんだよ。だからまあ、ちょっとした素行調査をしておこうと思ったわけ! ね? コレはもなみのごく個人的な復讐劇にまつわるお仕事なんだから、ミナトくんには何にも関係ないでしょお? だから、お部屋に戻ってグッスリおやすみなさい! 明日も朝から遊びまくるんだから、きちんと回復しといてよね!」
これを本気で言っているんだから、まったく破綻した人間なんてのは手に負えない。
俺はひとつ溜息をついてから、もう一度七星の屈託ない笑顔をにらみつけてやった。
「あのな、事情はわかったけど、それを知っちまったからには、おめおめと戻れるかよ? お前が危険な場所に出向こうとしてるってのに、素知らぬ顔でグースカ寝ていられると思うか?」
「いやいや、ちっとも危険じゃないんだよ! そこはただの生まれ故郷で、『名無き黄昏』とは無関係、ってとこまではしっかり調べがついてるんだから! そうじゃなかったら、もなみだってこんな片手間で乗りこもうなんて思わないよお。もなみがどれほど用心深い人間かってことは、昼間にも説明してあげたでしょ?」
「……危険じゃないなら、俺も連れていけ」
ほとんど反射的に、俺はそう口走ってしまっていた。
今度こそ、七星の顔から笑みが消える。
「どうしてさ! 心配してくれるのはありがたいけど、ほんとに危険なんてないんだから! ミナトくんはおとなしく寝てなきゃダメだよお」
「そんな説明だけで安心できるかよ。このままじゃあ呑気に眠ってもいられないから一緒に連れていけ、って言ってるんだよ」
「だから、危険はないんだってば!」
「だったら、俺を連れていったって不都合はないだろ?」
七星は口を引き結び、どうしたものかなあと言わんばかりに腕を組んだ。
「……あのね、ミナトくん。わかってると思うけど、今のところラケルタちゃんは完全に戦力外なの。ミワちゃんはほんの数日前から魔道学の基礎をかじりはじめたばっかだし。今いるメンバーで、いざというときに魔術師と対等に戦えるのは、もなみと、アクラブと、トラメちゃんだけなんだよ?」
「それで?」
「それでって! ミナトくんがひっついてきちゃったら、当然トラメちゃんだってもれなくついてくるんでしょ? だあれも戦える人のいない場所に妹ちゃんやウツミショウタくんを取り残すことになっても心配じゃないの?」
「だって、あいつらの身に危険が降りかかる可能性なんて、隕石直撃ぐらいの確率でしかないんだろ? それとも、本当はもっと危険度が高いのか?」
「ううん。結界の外に出ようとしてるもなみたちのほうが、むしろ危険度は高いぐらいだけど、でも……」
「そら見ろ。お前のほうが危険なんじゃねェか」
「違うって! そんなの、危険度○・○一パーセントと○・○二パーセントぐらいの差でしかないよ!」
「それでもお前のほうが危険な場所に出向こうとしてるってことに変わりはねェだろ」
「ううう、この、わからずや! 嫉妬しないであげるから、今日のところは妹ちゃんたちを重んじてあげてよ!」
「重んじてるよ。残されるナギたちのほうが、危険度がちょっとでも高いってんなら、頼まれなくったって俺はここに残る。……だけど、そうじゃあないんだろう?」
七星は腕を組んだまま、実に深々と溜息をついた。
七星の溜息なんて、人魚の涙なみに貴重だよな、たぶん。
「……もなみはね、ミナトくんに、隠し事はしても嘘はつかないって決めてるの。大事な大事なお友達だから」
「そいつは見上げた心がけだ。で、ここからこっそり抜け出そうとしてるお前と、何も知らずに眠ってるナギたちと、より危険な立場にあるのはどっちだって?」
「……○・○一パーセントぐらいの差で、もなみ」
「よし。それじゃあ、俺も連れていけ」
すると今度は、七星の顔にじわじわと怒りの表情が浮かびはじめた。
おお、おっかない顔だ。トラメたちもそうだけど、なまじっか容姿の優れている連中が怒りだすと、本当に迫力のある顔になるよな。
そんな俺の感慨もよそに、じり、っと七星が距離をつめてくる。
「あのねぇ、ミナトくん。こーゆーの、もなみ的には、ものすっごく迷惑なんだけど!」
「そいつはご挨拶だな。だけどまあ、ワガママのぶつかりあいってことで勘弁しろ。お前だって、ふだんはさんざん俺たちのことを振り回してくれてるんだから……」
「そうじゃなくってさ! ミナトくんの気持ちは嬉しいよ? ……でも、嬉しすぎて、迷惑なの!」
「ああん?」
「……もなみの現在の心情をぶっちゃけてあげよっか? もなみはね、ミナトくんまで危険な目に合わすぐらいなら、今日のお仕事は中止にしよっかなって気分になってきちゃったんだよ!」
「だ、だけど危険はないんだろ? さっきの言葉は嘘だったのかよ?」
「嘘はつかないって言ってんじゃん! 何を聞いてんのさ、ミナトくんのばかっ!」
七星は組んでいた腕をほどき、子どもみたいに地団駄を踏んだ。
「そんな危険度も低いお仕事なのに、ミナトくんを巻き込みたくないって考えちゃったんだよ! そんなおかしな話ってある? 危険度は低くても大事な大事なお仕事なのに! こんなことぐらいでもなみの勤労意欲がねじふせられちゃうって、いったいどういうこと?」
「わけのわからんキレ方をするなよ。危険がないなら、中止にすることないだろ」
「当たり前だよ! 中止になんか、するもんか! もなみは『名無き黄昏』に復讐するためだけに、今日という日まで生きのびてきたんだから!」
叫びざまに、七星がものすごい勢いでつかみかかってきた。
殴られる、と俺は思った。
それぐらい、七星の表情は怒りに満ちみちていたのだ。
俺をにらむその目つきは、ほとんど憎悪に狂っている、と言ってもいいぐらいの激情を燃やしてもいた。
が……七星は、俺を殴ったりはしてこなかった。
ただ、俺の胴体に両腕を巻きつけ、俺の胸もとに顔をおしつけてきただけだ。
あれあれ。これじゃあいつもと変わらないじゃあないか?
「ミナトくんのことは大事だけど、それとこれとは話が別! もなみにとってこの復讐劇は最重要課題なの! 生きる意味なの! あいつらは、大好きだったパパとママの仇なの!」
オランウータンのような怪力が、ぎりぎりと俺の肋骨をきしませる。
ああ、やっぱり怒っているのか。本気でアバラをへし折られそうな勢いだな、これは。
「ミナトくんのせいで復讐心が鈍っちゃったら、もなみはパパにもママにも、自分が生きてきた十六年間の人生にも顔向けできないよ! そんなことになったら大変だよ? アイデンティティの崩壊だよ? もなみはたぶん自分のことが許せなくって、みずから爆死するだろうね! 二度と輪廻転生できないように、細胞のひとかけらも残さずに消えてなくなっちゃいたいと思うだろうね! ああ恐ろしい! ミナトくんは、もなみを堕落させる悪魔だ! 堕天使だ! メフィストフェレスだ!」
「……そんなことにはならねェよ。お前に復讐をあきらめろなんて、そんな無責任な発言は、俺にはできそうにないからな」
答えながら、俺は七星のかぶっているヘルメットをポンポンと軽く叩いてやった。
半分は、ギブ・アップの意思表示だ。毎度のように思うことだけれども、どうしてこいつはこんなにほっそりとしているのに、こんなに馬鹿力なんだろう。
「ただし、前にも言ったけど、もっと生き延びる努力もしろ。復讐を果たせるなら死んでもいい、なんていう考えには絶対に共感してやれねェからな。俺のことを大事なお友達と認定してくれてるなら、復讐劇を果たした後にも仲良く遊んでいけるような頑張り方をしてくれよ、頼むから」
「……」
「ん、何だ?」
「……もなみだって前にも言ったけど、そんな甘っちょろい夢は見られない。『名無き黄昏』を壊滅させた後に、もなみが元気に生き残ってるなんて、そんなの、宝くじで六億円当てるぐらいの確率でしかないんだからね!」
「隕石の次は、宝くじかよ。……だけどお前なら、宝くじを当てることだって隕石を落とすことだってできそうだけどな」
「ふん! おだてたって、もなみの考えは変わらないよ!」
少しずつ、七星の声にも理性が回帰しつつあった。
ベア・ハッグをきめている両腕からもちょっとだけ力がぬけ、その代わりにヘルメットが胸もとにゴリゴリとおしつけられてくる。
痛い痛い。暗視ゴーグルが痛い。
「……で、ミナトくん、話を元に戻すけど、本気でもなみにひっついてくる気? 危険なことはないけれど、面白いことだって何にもないよ? ほんとにただの素行調査なんだから」
「ああ。邪魔はしないから連れていってくれよ」
「……わかった。それじゃあ三分後に出発いたします」
「三分後?」
「三分間、ミナトくんのぬくもりを堪能するともなみは固く心に誓ったのです。よく考えたら、こんなに密着するのってあの夜以来だし」
馬鹿言ってんな。昼間だってさんざんベタベタしてきただろうが、お前は。
「あああ。幸せだなあ。そりゃあ復讐心も鈍るよなぁ。もなみだってお年頃の女の子だもんね! たったひとりの異性の存在が、十六年間の存在理由をゆるがすなんてことも、この世にはあるのかもしれないねぇ。……ま、そんなことになったら、もなみは本気で爆死するけど!」
「阿呆なことを言ってないで、とっとと離れろ。怒りがおさまったかと思ったら、もうそれかよ」
「だあって気持ちいいんだもん! あのさあ、何の脈絡も必然性も計画性もなしに、ただ一時の情欲に流されて、もなみと接吻でもしてみないかい?」
「情欲なんざない! いいから離れろ、万年発情女!」
「あはは。ひどい言い草だなぁ! でもあと二分半は絶対に放さないよん」
ああそうかよ。どのみち七星の怪力をふりほどくことなんて出来ないんだから、俺としては満天の星空を見上げながら溜息をつくことしかできなかった。
この救い難いぐらい支離滅裂な茶番劇を、二人の幻獣娘は最後まで無関心に言葉もなく傍観しておりましたとさ。
メデタシメデタシ。