妹、眠る
「トラメちゃんは、ナギと一緒に寝るんだからね! いくら二人がおおらかでも、恋人でもないお年頃の男女が一緒のベッドで寝るなんて、許されることじゃないんだから!」
夜もとっぷりとふけた頃。ソファに鎮座したトラメの首に笑顔でからみつきながら、ナギは元気いっぱいにそう言いきった。
何とかしろ、という風にトラメが視線を送ってくるが、悪いな、何ともできない。最悪の事態は回避できたのだから、これぐらいの不自由さは容認してくれ。
昼間の乱闘騒ぎを経て、ナギはすっかりトラメになついてしまったのだ。
腕っぷしが強いだけですべてが許せるのかよ?と俺は呆れたが、よく考えたらトラメは俺たち兄妹の窮地を救った格好になるのだから、しかたないか。トラメに助けられなくったって、俺は負ける気などなかったんだけどな。
ま、そんな俺の自尊心やメンツなどどうでもいい。ナギもトラメもマンションから追い出さずに済むなら、それが一番だ。
昼間の一件が魔術師どもの嫌がらせだとしたら、やっぱりナギもトラメも目の届く場所にいてほしい。
「いくら何でもそこまでセコい真似はしないと思うけどねぇ。だけどまあ、用心するにこしたことはないからね! あの四人の素性はきっちり探っておくし、何なら頭の中もちょろっとノゾかせていただくよ!」
七星のやつも、そう言っていた。だから、これでいいのだろう。後はトラメがナギの過剰な愛情表現に耐えるだけだ。
ナギは、本当に素直な性格なのである。気にくわなければ牙をむくし、気に入れば底なしの愛情をかたむけてくれる。トラメはものすごく、ひたすらに、魂の奥底から迷惑そうな顔をしていたが、そんなていどのぬるい拒絶では、まったくひるみもしないのだよ。お気の毒だったね、トラメくん。
ま、ナギの身体がちっこいぶん、トラメの寝床も広くなるだろう。きっと悪いことばかりじゃないさ。
「……だけど、お兄ちゃんはやっぱりもっと友達を選ぶべきだと思う! トラメちゃんは素敵だし、ラケルタちゃんも可愛いけど、他のはあやしい人ばっかりじゃん!」
いやいや、トラメはまだしも、その次に許せるのがラケルタだというのは、やっぱりお前の感受性もどうかしていると思わざるを得ないぞ。アクラブをのぞけば、他の連中はいちおうれっきとした「人間」ばかりなのだからな。
それにしても、とんでもない一日だった。
乱闘騒ぎが終息したのちは、七星の挑発をナギが受けた格好で、本当にボーリング勝負が始まってしまい。実は未経験でルールも把握していなかった七星がここでも勝利をもぎとり、その後はスポーツ勝負が始まってしまったのだ。
七星の準備したハイヤーで移動して、バスケットの1on1勝負、バッティング勝負、リフティング勝負、ついには審判なしの柔道勝負にまで発展し、最後まで血を見ないで済んだのが、いっそ奇跡的なぐらいだった。
そのほとんどは七星の圧勝に終わったのだが。たったの一回、終わりぎわに行われたビリヤード勝負によって、ついに辛くもナギが一勝し……ナギは涙まで流して喜び、七星は、この世の終わりみたいな顔で崩れ落ちた。
そんな凄絶なる茶番劇に丸一日つきあわされた俺たちは、まったくもっていい面の皮だ。
その後は、七星のふるまいで焼肉を食べ、帰ってきた。
えらく高級そうな店だったが、あんまりトラメの舌を肥えさせないでいただきたいものだ。あんな水準を求められても、絶対にこちらは応じられないんだからな。八人分のお会計がいくらだったのか、俺は確認する気にすらなれなかった。
そんな風に、俺がぼんやり本日の出来事を反芻している間にも、ナギはトラメにからみついたまま、楽しげに笑っていた。
「……それにしても、トラメちゃん、どうして夏なのに長袖なの? それも宗教上の理由? 見てるこっちが暑いぐらいなんだけど」
いや。俺はべたべたとからみあっているお前らの姿のほうが暑苦しい。
七月もそろそろ終わりに近づき、いいかげんエアコンなしで過ごすのも限界かもしれない。
「宗教は関係ない? よし! それじゃあ明日はトラメちゃんの服を買いに行こう! ナギが、プレゼントしてあげる!」
おいおい。ゲームセンターのお次は、ショッピングか。隠り世の住人も形なしだな、まったく。
七星のやつも、別れぎわには「また遊ぼうね!」とぶんぶん手を振っていた。
あいつにとっても、やっぱり今日という日は「遊び」だったのか。
それがそんなに楽しかったんなら、いっそ報われない復讐劇なんぞからは手をひいて、カタギになっちまえばいいものを……と、俺としてはそんな風に考えざるをえない。
何にせよ、にわか魔術師たる七星や、幻獣三人娘と遊びほうけた今日という日を、俺は生涯、忘れられない気がする。
「それじゃあ明日にそなえて、もう寝よっか? ナギもすっかりくたびれちゃった」
「あれだけ暴れりゃ、当たり前だろ。……寝ろ寝ろ」
時刻はまだ十時にもなっていないが、一日中あちこちひきずり回されて、俺のほうもクタクタだ。俺はリビングのテレビを消し、誰よりも早くソファから立ち上がった。
ナギの寝室は、俺の寝室の隣りにある。ベッドと空っぽの本棚しか置いていないさびしい部屋だが、トラメが一緒なら大丈夫だろう。
実は、ナギのやつだって、滞在中の二日にいっぺんは、俺の寝床にもぐりこんでくることを習慣にしていたのだ。
よく考えたら、俺がトラメの同衾を違和感なく受け入れることができてしまったのは、そんなナギによって作られた免疫の賜物なのではなかろうか。
「……お兄ちゃん。もしもこの先、お兄ちゃんとトラメちゃんが恋人関係になったとしても、ナギは、反対したりはしないと思う」
トラメを先に寝室におしこんでから、ナギがそんなことを耳打ちしてきた。
俺には、肩をすくめることしかできない。
「俺とあいつはそういう関係じゃないっての。まだ信用できないのかよ、お前は?」
「だから、もしもこの先って言ってるでしょ! そうだとしても、だらしないドーセイ生活なんて、ナギは絶対に許さないんだからね!」
そう怒鳴り声をあげてから、また声をひそめてくる。
「それに、トラメちゃんだったら許せるかもだけど、あの吊りズボンだったら絶対に許さないから。もしもお兄ちゃんがあんなのとつきあいだしたら、ナギは、兄妹の縁を切らせてもらうからね?」
吊りズボンって、七星のことか。まああいつはさりげなく苗字を隠していたし、下の名前でフレンドリーに呼ぶ気になどなれないだろうけども、それにしたって、ひどい俗称だ。
「ご高説は承っておくよ。それじゃあな、おやすみ」
「うん! おやすみ、お兄ちゃん!」
にっこりと、何の屈託もなく笑う。
俺はその頭をくしゃくしゃになでてやってから、ドアのむこうのベッドの上から恨みがましくにらみつけてくるトラメのほうにも、苦笑いをさしむけてやった。
「お前も、おつかれさん。ゆっくり休めよ、トラメ」
もちろんトラメは、返事などしなかった。
ドアを閉め、俺は深く、息をつく。
非常に疲れた。
が、あの不良少年どもとの諍いさえのぞけば、まずは平和な一日だっただろう。何せゲーセンに、ビリヤードに、焼肉なんだからな。
俺はやっぱり、凡庸な日常が、大事だった。
今日という日が凡庸だったかはあやしいところだし、平和というにはあまりに騒がしい一日だったが。それでも、楽しくないことはなかった、と思う。
俺は短気で血の気も多いほうだけれども、平和が一番、という気持ちに嘘はないのだ。
トラメや七星は大事な存在だが、できうれば、あやしい魔術の世界などからはスッパリと手をひいて、あいつらと平和な日々を過ごしたい。それが俺の、正直な気持ちだ。
八雲は、そうは思わないのだろうか。
そして、ラケルタは、本当のところはどう思っているのだろう。
人間と幻獣が友達づきあいすることなどできない、と、かつてアルミラージはそう言っていた。
そんなことを望む幻獣は正気じゃない、と、アクラブのやつもそう言っていた。
どうしてだ?
アクラブは、もしかしたらやっぱり、幻獣の中でもとりわけ荒っぽい種族なのかもしれない。敵の返り血にまみれて戦っているとき、あいつは尋常でなく楽しそうだった。
それはそれでしかたがないことだが、しかし、俺はギルタブルル以外の幻獣が、そこまで血を欲し、戦いを望んでいるようには、どうしても思えなかった。
平和に過ごせるなら、それが一番なんじゃないのか?
トラメはぱくぱくと食事をしているときが一番幸福そうに見えるし、ラケルタも、八雲のそばにさえいれれば、それだけで十分に幸せそうだ。当のアルミラージのやつだって、ズタズタに傷ついた主を抱きかかえながら、あんなに切なそうにしていたじゃないか。
戦いなどを望んでいるのは、誰だ?
七星は、『名無き黄昏』を滅ぼすのが、自分の生きる意味そのものだ、と言っていた。
『暁の剣団』の連中も、とどのつもりは、それが目的だ。
それじゃあ、『名無き黄昏』とやらをぶっつぶせば、あいつらも解放されるのか?
わからない。
あいつらが、許されざる敵と目して疑わない『名無き黄昏』について、俺は何ひとつ知らないのだから。
(俺たちは、この先いったい、どうなるんだろうな……)
けっきょくのところ、わからないのは、そこだった。
振りかかる火の粉は払いのける。今の俺には、それぐらいの指針しかない。
しかし現在、俺やトラメに火の粉をまき散らしているのは、『名無き黄昏』ではなく『暁の剣団』なのだ。
大義ある戦いではない。こんなのは、ただのとばっちりだ。
だから俺は、こんな争いは不毛だ、という思いがどうしてもぬぐいきれないのだろうか。
(みんなが楽しく、平和に生きていく、っていう道はないのかよ?)
そのためだったら、俺も戦えるかもしれない。
いや、それ以外の理由だったら、俺は戦いたくない、のだろう。
今となっては七星だって大事な仲間だとはっきり認識できているが。それでも俺は、無条件にあいつを手伝う気持ちには、なれずにいる。また、七星のほうだって俺にそんなことを望んだりはしていない。
もちろんあいつが窮地に陥ったときは、何を打ち捨ててでも駆けつける所存だし、生命をかけてでも守ってやりたい、という思いでいるが……だからといって、あいつの復讐劇に協力してやりたい、とまでは思えないのだ。
『名無き黄昏』は、許されざる存在……その言葉が、まったくピンときていないからなのだろう。
それじゃあ、それが実感できたとき、俺は、自分の日常を捨ててでも戦いの日々に身を投じる、という覚悟が固まるのだろうか?
今のところは、まったくそんな風には考えられないのだが。
(ま、クヨクヨ考えたって、しかたがないか)
俺は、自室のドアを開け、灯りもつけないまま、まっすぐベッドに倒れこんだ。
ナギ。
七星。
そして、トラメ。
あいつらのためだったら、俺も、生命を張ることはできるだろう。
宇都見。
八雲。
そして、ラケルタ。
あいつらだって、見殺しにすることはできない。
大事だと思える仲間たちと、平和に日常を過ごしたい。
俺の望みは、それだけだ。
邪魔をしてくれるなよ、魔術師ども。
何せ夏休みは、まだ始まったばかりなんだからな。
そんな想念にひたりながら、俺の意識はすみやかに睡魔の向こう側へと誘われていったのだった。