妹、襲わるる
「ナギ、そんなとこで何やってんだよ?」
ナギはトイレではなく、何のゲーム機も置かれていない非常階段の入り口あたりで、ひとりぽつねんと膝を抱えていた。
そのしょんぼりとした顔が、俺の姿を発見するなり笑顔を浮かべようとして、すぐにまた打ち沈む。
俺のかたわらに、トラメを発見してしまったためだろう。これはちょっと失敗だったかもしれない。
「ゲームに負けたぐらいで、そんな落ちこむな。俺だってお前にはいつも連戦連敗だろうがよ」
「だって、お兄ちゃんはへったくそだもん。……ナギなんかにかまってないで、オトモダチと遊んでくれば?」
唇をとがらせて、ぷいっとそっぽをむいてしまう。
これでもし本当に俺がその言に従ったら、怒り狂うか大泣きするくせに、まったく難儀な妹だ。
「あいつらとはもう十分に話したよ。それより、お前とは半年ぶりだろ。みやげ話でも、聞かせてくれよ」
「……やだ」
「お前とゲーセンなんてのも数年ぶりだよな。ひさびさに勝負するか?」
「……しない」
「……ちっとばかり咽喉がかわいたな。お前も何か飲み物でも……」
「いらない」
おお、こいつは困った。どうやら完全にへそを曲げられてしまったようだ。こうなったらなかなか機嫌をなおしてくれないんだぞ、こいつは。
七星のやつめ、話を丸くおさめるなり、よけいに状況を悪化させやがって。振り回されるこっちは、たまったもんじゃない。
「……たった半年ばかりも会わない間にわけのわからん連中とドッサリお近づきになっちまったけどよ。ああ見えて、そんなに悪い連中ではないんだ。お前に迷惑はかからないように気をつけるから、いいかげんに機嫌をなおしてくれよ」
「いいってば。ナギのことはもうほっといて。……ナギは、ママのところに行く」
「って、今日は同窓会なんだろ? ホテルに戻ったって誰もいないんだろうがよ」
帰国した際、ナギは我が家たるマンションに寝泊まりするが、母親はシティ・ホテルを拠点にして毎晩のように遊び歩くのが通例なのだ。
一身上の都合により、俺と母親はあんまり反りが合わないので、帰国の挨拶と別れの挨拶以外ではほとんど顔を合わせることもない。
今回にいたっては帰国の挨拶にすら来なかったわけだが、とにかく、母親のもとに戻ったって、ナギには何ひとつメリットなどないはずだった。母親には会いたい連中がわんさかいるようだが、小五で日本を離れてしまったナギには、俺以外に遊ぶ相手もほとんどいないわけなのだから。
「ほっといてってば! お兄ちゃんには、関係ないでしょ? ママには全部ナイショにしておいてあげるから、どうぞご勝手に!」
「お前なあ、かわいげのないこと言うなよ。俺だって、半年にいっぺんお前に会えるのを楽しみにしてるんだ……なんて、こっぱずかしいことを言わせたいのか?」
「……そう思うんだったら、ナギの知らない人を家になんか入れないでよ!」
おっと、これまた直球勝負だ。
俺は腕を組み、わざわざ後をついてきたくせに他人顔で煮干しをかじっているトラメを振り返る。
ナギの滞在なんて、せいぜい二~三週間だ。それぐらいの期間、トラメに隠り世にひっこんでもらうというのは……まあちょいとケガのことがあるから心配だが、もちろん可能だろう。
しかし、何度も言う通り、あのけったくその悪い『暁の剣団』の連中とは、まだ何の和平条約も正式には交わせていないのだ。こんな危なっかしい時期にトラメを隠り世に戻すぐらいなら、いっそのこと、ナギには母親のもとに戻ってもらったほうが安全かもしれない。
しかし、また……こんなちょっとしたすれちがいで、ナギとの関係が致命的に壊れてしまう危険性もなくはない気がする。何せ俺たちは、半年にいっぺんしか顔を合わせられない間柄なわけだから。
とはいうものの、ナギとトラメが共存共栄できるとも思えない。ならばけっきょく、何かを犠牲にしないとおさまらないのか。
俺は、おおいに思い悩むことになった。……そして、自分ひとりの想念にとらわれるあまり、ナギの心情をおいてけぼりにしてしまった。
「もういいよ! バイバイ! その人と結婚することになっても、ナギは結婚式なんて出てあげないからね!」
などととんでもない捨て台詞を残し、ナギはその場から消え失せた。
退路は俺たちがふさいでしまっていたものだから、背後のドアを開けて非常階段のほうに逃げてしまったのだ。
俺は溜息をかみ殺しつつ、すぐさまナギの後を追った。
「痛えっ! いきなりナニしやがるんだ、このガキ!」
と、金属製のドアを開けるなり、野太い男の怒声がわんわんと反響した。
幸か不幸か、そちらにもナギの逃げ道はなかったのだ。
コンクリの壁に、コンクリの階段。薄暗い空間には白くて甘い煙がたちこめ、一階へと通じる階段の踊り場に、いかにもガラの悪そうな男たちが四人ばかりもたむろって、ナギの行く手をはばんでしまっていた。
タンクトップの大男。茶色い短髪の猿みたいな男。鼻ピアスをした細目の男。キャップを後ろ向きにかぶった小柄な男。このあたりではあんまり見ない、当世風の格好をした不良どもだ。
そいつらの足でも踏んでしまったのだろうか。男のひとり、細目の鼻ピアスがナギの細い腕をひっつかんでいて、そんな光景を見ただけで、瞬間的に俺は怒鳴り声をあげそうになってしまった。
「うるさいなぁ! こんなところでくつろいでるのが悪いんでしょ? ばかじゃないの、あんたたち?」
んが、ナギのほうが先にわめいたので、俺は冷静になることができた。
いかんいかん。俺まで理性を失ってしまったら、おしまいだ。
俺は背後にたたずむトラメに「お前はここを動くなよ」と言いおいてから、二段飛ばしでナギに追いついた。
「おい。ちょっと待ってくれ。そいつは俺の妹で……」
「それに、何このニオイ? タバコじゃないでしょ? 日本でだって、コレは犯罪だったはずだよねぇ? 頭悪すぎなんじゃない?」
やめとけよ、ナギ。それが事実でも、警察に通報すれば済むことだ。
アメリカ暮らしの長いお前にはこんな連中も幼いヤンチャ坊主にしか見えないんだろうが、たぶん全員俺よりは年長だし、それに、けっこう危ない目つきをしているぞ、こいつらは。
「頭悪いのはどっちだよ? そんなヤバいもん、こんなとこで吹かすわけねぇだろ! こいつは合法なんだよ。ご、う、ほ、う。マジモンのクサなんかより、よっぽどキョーレツだけどなぁ」
短髪の猿顔が、まさしくチンパンジーみたいに顔をゆがめて、げらげらと笑う。
へえ、こんな片田舎でも合法ドラッグを楽しむ輩なんてのは存在するのか。我が故郷も意外に先鋭的なんだな、と俺は感心したいぐらいの気分だった。
「で、そっちのニイちゃんは何なんだぁ?」
「イモートがどうとかって言ってたぜぇ?」
「いいねぇ、妹プレイ! オレたちも楽しませてくれよ、ガキンチョちゃん」
危機感は、まったくない。
数週間前だったらどうかはわからないが、幻獣や魔術師の壮絶な死闘を見届けてきた俺からしても、こんな連中はポメラニアンぐらいの脅威にしか感じられなかった。
が、ポメラニアンにだって、噛まれれば痛い。痛い思いなど、誰もしたくはないだろう……だからあんまり俺の神経を逆なでしないでくれるかな、お兄さんがた?
「なあ、そいつに文句や要求があるなら、保護者の俺が聞いてやる。とりあえずその手を離してやってくれよ。中学生の女なんかをいじめたって、一銭の得にもなりゃしないだろ?」
「はあ? ナニ言ってんだよ、オニイチャン?」
「お前の言うこと聞いて、何かオレたちにメリットあんのかぁ?」
「言うこと聞いてほしかったら、妹プレイより魅力的な条件を提示してみろよ、オニイチャン」
うん、三下だな。品性のカケラも感じられないし、目つきは危ないが迫力も感じられない。
四対一では分が悪いが、いざとなったら逃げの一手だ。何の自慢にもならないが、俺もナギも、逃げ足には自信がある。
と、いうことで。
「悪いけど、イマイチ何を言ってるのか聞きとれねェや。俺の言葉も聞きとれてないのかな? その手を離せって言ってるんだよ、お兄さんがた」
ナギの迷惑げな視線は黙殺し、俺は、妹の腕に手をかけている鼻ピアスの手首をわしづかみにしてやった。
「あいててて」とわめいて、男はあっけなくナギの腕を解放してくれる。
痛いだろ? ここんとこのツボを攻めるのは、護身術の基本らしいんだよ。それを教えてくれたのはこのナギのやつなんだから、こんな中坊相手に悲鳴をあげるような恥をかかずにすんで良かったな、お兄さん。
「てめえっ! ぶっとばされてぇのか?」
逆側にいたキャップの小男がわめき声をあげ、つかみかかってくる。
華麗に避けたいところだが、そうすると男の拳がナギに当たってしまうかもしれない。やれやれだ。ぶっとばされたいのはどっちだよ? 俺はしかたなく右肘を持ち上げて、それを男の下顎にぶつけることで、その突進をくいとめた。
カウンターで、モロに入った。ゆえに、男はへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。
あーあ、けっきょくこうなるのか。
人間相手の喧嘩だなんて、いったい何ヶ月ぶりだろう。
「へん、弱っちいの! あんたたちみたいなチンピラに、ナギのお兄ちゃんが負けるもんか!」
挑発すんな。それに、頼まれもしないのに名乗りをあげる馬鹿がどこにいる。こんな連中に顔や名前を覚えられても、いいことなんてひとつもないんだぞ?
警戒するように距離を取りはじめた残りの三名の立ち位置をざっと確認してから、俺はナギに一声かけておこうと、横目でそちらを盗み見た。
そして、息を飲み、もう一度きちんとナギの姿を見なおした。
正確には、そのポロシャツからはみだしている、琥珀のペンダントを、だ。
黄色みをおびた飴色の表面が、脈打つように不思議な明滅を繰り返している。
……何故だ?
こんな不良どもに囲まれているだけで、どうして対魔術用の護符がそんな反応を見せているのだろう? こいつらは、魔術師でも幻獣でもないはずだぞ?
「わ、ばか、あぶな……!」
ナギの、切迫した声。
それが鼓膜に触れた瞬間、目玉の奥に火花が散った。
しまった。油断した。俺は思わず膝をつきそうになってしまったが、それをこらえて、ナギのほうにのしかかる。
俺の身体とコンクリの壁でサンドイッチにされたナギは、「あひゃあ」と可愛らしい悲鳴をあげた。とりあえずの盾になってやってるんだから、じたばたするな、愚妹。
少しかすんだ景色の中で、鉄パイプを持った猿顔がへらへらと笑っていた。
なるほど。そんなものが床に落ちていたのか。
刃物を出されるよりは百倍マシだが、一発くらっちまったのはマズかったな。こめかみのあたりから左頬のほうまで、すうっと生ぬるい感触がすべり落ちてくる。不本意ながら、流血沙汰になってしまったようだ。
「お前らさ……多勢に無勢の上にそんなもんまで振り回したら、傷害罪は確定だぞ? おまけにこっちは正当防衛が成立だ」
「強がってんなよ、オニイチャン! 足が震えてんぞ?」
「そりゃあ脳震盪でも起こしてるんだろ。だからもう、手加減なんてしてる余裕はねェぞ?」
半分は強がりだが、もう半分は本気だった。
そりゃあ確かに目もとも足もとも悪酔いしたようにふらつくが、だから何だっていうんだ?
俺の背中にはナギが小さな手で取りすがっているのだから、おそらく何をどうやったって、俺はぶっ倒れたりしないと思うぜ、不良少年ども。
「てめえ、何だよ……その目つきは、いったい何なんだよ?」
「あん?」
眉をひそめて振り返ると、タンクトップを着た一番大柄なやつが、びくりと震えて後ずさった。
俺の目が、いったいどうしたって? まさか、幻獣みたいに黄金やら真紅やらの炎を噴きあげてるわけでもあるまいし。……などと考えていたら、いきなり頭上から黒い人影が舞い降りてきた。
トラメだ。
よせ、手を出すな……と俺が制止の声をあげるより早く、鉄パイプを握りしめた猿顔が反対側の壁まで吹っ飛ばされていた。
たぶん、トラメがそのみぞおちのど真ん中を蹴りぬいたのだ。
あまりに動きが素早すぎて、俺には見てとることもできなかったが。
「この野郎……!」
トラメの背後に位置していた鼻ピアスが、わめき声をあげてつかみかかろうとする。
トラメはくるりと振り返り、無造作に突きだした左の裏拳で、男のこめかみを撃ちぬいた。
美しいぐらいのバックハンド・ブローだ。
そうして、わなわなと震える大男の前に立つ。
男は完全に戦意喪失していたが、トラメは容赦しなかった。
頭ふたつぶんも上空にある男の下顎を、猫がじゃれつくような格好でこつんと横なぎに小突く。
それだけで、男は意識を吹き飛ばされ、腰から床に崩れ落ちた。
時間にして、わずか数秒だ。
俺は、深々と溜息をつく。
「すごい……めちゃくちゃ強い! ねえ! お兄ちゃん! この人、めっちゃ強いじゃん?」
ナギが興奮して、俺の背中をゆさぶってくる。
ああ、アメリカで護身術を習い始めて以来、お前は腕っぷしの強さに憧れるようになったんだっけな。これで少しでもトラメに対する敵愾心が緩和されればもうけものだが、とりあえず、脳震盪を起こしている兄をゆさぶるのはやめてくれないかな、妹よ。
「うわぁ、カンペキに失神してる! すごいねぇ! ちょこんと触ったようにしか見えなかったのに!」
と、ナギは大男のほうに駆け寄って、そのいかつい顔をぴしゃぴしゃと叩きはじめた。
やめなさいってば、妹よ。
「ねえ、あなたはどうしてこんなに強いの? 何か武術でも習ってるの?」
瞳を輝かせながら、ナギがトラメを振り返る。
トラメは虚を突かれたように動きを止め、それから、ゆっくりと、重々しく言った。
「……どうしてもへったくれもない。その人間どもが、弱すぎるだけだ」
「人間ども、だって! かっこいい! ……だけど、日本語まちがえてるんじゃない? あなただって、人間でしょ?」
何とかしろ、というように、トラメが俺を横目でにらむ。
いや、にらみたいのは俺のほうだぞ。俺はナギの機嫌を損ねてしまわないかを少し危ぶみながらも、とうてい黙ってはいられない心境だったので、トラメの耳もとに口を寄せることにした。
「よけいな真似をするなよ、トラメ。お前は動くなって言っただろ?」
「ふん。我の動きを縛りたければ、きちんと契約か誓約を行使しろ」
同じように低い声で応じながら、トラメはキャップの陰で黄色く目を光らせる。
「それに、この人間どもからは、ほんの微かにだが魔の気配が感じられた。どうやら邪気を吸いこんで、わずかばかり凶暴化しただけのようだが、とっとと始末するにこしたことはなかろう」
魔の気配? 邪気を吸いこんだ?
そいつはいったい、どういう話だ?
「……知らぬわ。邪気など、どこにでも満ちている。それをたまたま吸いこんだだけやも知れぬし、あるいは、魔術師にでも嗅がされたのやも知れぬ。この場でそれを判別する手段などは、ない」
釈然としない話だ。
もしもこれがあの魔術師どもの仕業だっていうんなら、事態は何ひとつ改善されてないってことじゃあないか。
「そんなことは、どうでもよいわ。ミナト、貴様にはつくづく愛想がつきたぞ」
「あん? なんだって?」
そう聞き返した瞬間、俺はいきなり膝の裏を蹴っ飛ばされて、その場にはいつくばることになった。
いったい何だ?と驚いてるスキに、背後から両肩をわしづかみにされてしまう。
「あれほど我に恥をかかすなと言うたのに、貴様は何ひとつわかっておらぬ。貴様のうかつさには、もう本当に愛想がつきた」
「ちょっと待て! 愛想がつきたんなら、ほっておけ! 毎回毎回そんな羞恥プレイを……うひゃあ!」
不覚だ。まさか妹の前でこんな醜態をさらす羽目になろうとは……トラメのやつは、背後から俺にのしかかり、左のこめかみあたりをぺろぺろと蹂躙しはじめたのだった。
だからその治癒の術ってやつは、めちゃくちゃ痛いし、めちゃくちゃくすぐったいんだよ!
あいててて。犬歯が刺さってる、犬歯が! 頭の中身は大丈夫だって! 鉄パイプでちょろりとなでられただけなんだからさ!
もう駄目だ。せっかく和みはじめたナギの気持ちも、これで急転直下だろう。
驚きのあまり声も出ない妹に見守られながら、俺はそうして十秒ばかりもこの世の地獄を味わうことになったのだった。




