妹、帰還す
あらためて紹介させていただこう。
ナギは、俺の妹である。
正式名称は、磯月凪。
年齢は、十三歳。
いわゆる思春期まっさかりというやつで、年々あつかいが難しくなってきている。
とは言っても、今では年に数回しか顔を合わすこともない疎遠な間柄なのだが。
両親とナギが海外に引っ越してから、すでに二年と半年が経過しているのだ。
いま住んでいるのはニューヨークだっけか? とにかく、アメリカの都心部のどこかだ。
出世街道を驀進中の父親が、さらなるステップ・アップの通過儀礼としてアメリカの支社に赴任することになり。俺だけが、日本に居残ることになったのだった。
信用されている、と言えば聞こえはいいが、要は放置されただけだ。
最初のうちは叔父夫婦がちょいちょい様子を見に来てくれていたが、「ミナトくんはしっかりしてるねぇ」とか何とか言って、すぐにそちらからも放置されることになった。
万々歳だ。俺は最初から、気楽な一人暮らしを望んでいたのだから。
しかし、おさまらなかったのは、ナギである。
二年半前、ナギも日本に残ると泣いていた。わめいてもいた。しかし、さすがにその要求は通らなかった。
中学二年生だった俺をひとりで日本に残すことはできても、そこに小学五年生のナギを付随させるわけにはいかなかったのだろう。
当たり前だ。俺だって、自分自身の面倒を見ることはできても、さすがにナギの面倒までは見ていられない。両親の良識ある判断に、俺は今でも惜しみない感謝の念を抱いている。
ナギは、泣きながら渡米していった。
飛行機に乗りこむさいにも、まだ泣いていた。
その当時の無念を晴らすかのように、ナギは必ず毎年二回、夏と冬に帰国してきた。
そう……夏になれば、必ずナギは帰ってくるのだ。
それを失念していたために、俺はとんだ窮地に立たされてしまった。
さてさて。
こいつはいったい、どうしたものだろうか?
◇
「なあ……とりあえずは冷静になれよ、ナギ」
リビングにて。俺とトラメはソファにかしこまり、怒れる妹と相対していた。
俺とトラメが傷ひとつ負っていないのは僥倖だ。が、ナギの手によって投じられ、トラメの回し蹴りによって弾き返されたオーディオのスピーカーは、きっともう永劫に美しい音色を奏でることもないだろう。アーメン。
「……なに言ってんの、お兄ちゃん? ナギはこんなに冷静じゃん。我ながら大した自制心だとホメてあげたいぐらいなんだけど?」
そう答えるナギ様だが、眉は斜め四十五度に吊りあがったままである。
その目つきも敵対心まるだしで、特にトラメを見る目線には火のような熱と針のような鋭さがこもっている。
いっぽう、そんな目線にさらされながら、トラメはふだん通りの仏頂面であぐらをかいている。
少し覇気がないように見えるのは、きっと腹が減っているせいだろう。あいにく、おやつの煮干しを切らしてしまっているところなのだ。
かといって呑気に朝食を作れるような状況でもないし、まったくもって、気の毒というほかない。
が、トラメは思いのほか、おとなしかった。
ナギの容赦ない猛攻に、最初は黄色く目を光らせて反撃しそうな勢いだったのだが、コレは俺の妹なのだ、と説明してやると、急にぴたりと口をつぐんで、何も喋らなくなってしまったのだ。
人間社会のルールを把握しきれていないトラメであるから、へたに自分が口を出すと面倒なことになる、と察してくれたのだろうか。
実のところ、トラメや七星の活躍によって幕を閉じた例の大騒動から、まだ一週間も経ってはいない。
あれはたしか世間的には夏休み初日の出来事であったはずだから、今日でせいぜい五日目ぐらいか。
ひさびさに訪れた安寧の日々。トラメは実によく喰らい、よく眠ったが、やっぱり傷ついた右腕はいまだに動かず、心臓も潰れたままであるらしい。
もともと常人離れしていた食欲も一・五割増しで、こんな風にちょっと朝食が遅れるだけでも、今のトラメにとっては、たいそうな苦行であるはずだが……トラメは、無表情に黙りこくっている。
そんなトラメの自制心が底をつく前に、俺はこの苦境を何とか打破せねばならぬのだろう。
が、俺にはまだ、妹を言いくるめる妙案など、さっぱり思いついていなかった。
「えーっとな……まず最初に言っておく。俺とこいつは、その、お前が想像してるような間柄じゃない。まずそこだけは信じてくれよ、ナギ」
「……ナギの想像って? お兄ちゃんなんかにナギの何がわかるっての?」
「ふしだらだのワイセツだの怒鳴り散らしてただろうがよ? こいつとは、本当にそんな関係じゃねェんだ」
「それじゃあ、どういう関係なの?」
ぐいっと身を乗りだしてくる。その真剣きわまりない顔を見返しながら、俺は憮然と頭をかいた。
「そりゃあまあ、何ていうか……仲間、っていうのが一番正しいかな」
「仲間って、何の? 学校の? そんな風には見えないんだけど? そもそもこの人、どこの国の人なのさ? 日本人じゃあ、ないんでしょ? それにどうして夏なのに長袖のジャージなの?」
「ああ、うん、それはその……」
「だいたい、ふしだらな関係じゃないっていうんなら、どうして一緒のベッドで寝てるの? お兄ちゃんは恋人でもない女性と一緒に寝る習慣があるの?」
「うるせェな。ベッドがひとつしかないんだから、しかたねェだろ。それとも、お前のベッドを勝手に拝借したほうが良かったか?」
いくぶん面倒くさくなってそう口答えしてしまうと、ナギはいっそう険悪な形相になってきょろきょろと周囲を見回しはじめた。
たぶん投げ飛ばすエモノを探しているのだろう。俺はあわててそれを手で制する。
「待った。悪かった。今のは冗談だ。……あのな、モラルがないって言われたら返す言葉もないけどよ、俺たちは、あんまりそういうことを気にしてなかったんだ。別に後ろめたいことはないし、おかしな関係に発展するつもりも予定もない。本当に、一緒にグースカ眠りこけてただけなんだよ」
「……だから、それをナギに納得させてみせてよ? そもそもどうして恋人でもない女の子がウチに寝泊まりしてるわけ? 仲間って何の仲間? お兄ちゃんとこの人は、いったいどういう関係なの?」
俺とトラメの関係、か。
魔術結社の禁忌の秘術によって召喚された幻獣と、その契約者……なんていう馬鹿げた真実は、口が裂けても言えるわけがない。
まだ完全には終息していない魔術師どもとの抗争に妹を巻き込むわけにはいかないし、そもそもこいつは、オカルト話の類いが大嫌いなのだ。
いっそのこと、恋人関係だとでも言ってしまったほうが通りは良さそうだが。そうすると今度はナギの潔癖さがネックとなってくる。
まだこいつは男女のそういった関係をケガラワシイとか感じてしまうお年頃であるわけだし。いつだったか、クラスの女子から携帯に電話がかかってきただけで、キイキイわめいていた思い出もある。
めったに会えない兄貴に対する独占欲、なんてものも加味されているのかもしれない。
正直なところ、俺がどこの誰とどういう関係になろうと、ナギに口出しされるいわれなどない!……という思いもなくはないのだけれども。こいつの機嫌を完全に損ねてしまったら、母親までをも敵に回すことになってしまう。
こんなことをきっかけにアメリカに強制転居させられるような事態にでもなったらオオゴトだからなあ。
「……そういえば、どうしてお前はひとりなんだ? 母さんはどうしたんだよ?」
「ママは遊びに行っちゃったよ! 今日は高校時代のお友達と同窓会なんだって。……話をそらさないでくれる?」
「別に話をそらしてるわけじゃないけどよ……」
そう答えながら、俺はあらためてナギの顔を見た。
うむ。怒っている。
俺もナギもどちらかといえば短気で直情的なタチだから、こうして言い争いになることも決して珍しくはなかったが……それにしても、これはなかなかに最上級の怒りっぷりだ。
基本的に、素直な性格なのである。楽しければケラケラと笑うし、しょげるとすぐに泣いてしまう。十三歳という年齢を考えればちょっと幼すぎるんじゃなかろうかと心配になる反面、俺みたいにヒネもせず、まっすぐ育ってくれたことは嬉しく感じたりもする。
んが、今回ばかりはそのストレートさが厄介だった。
普通だったら、兄貴が知らない女とベッドをともにしていたからといって、こんな風に正面きって文句を言ってきたりはしないものではないのだろうか?
ま、よそさまの妹連中がどんな生態をしているかなんて、俺にはさっぱりわからないんだけどもな。
(……うん?)
と、俺は左頬のあたりに視線を感じ、横目でトラメのほうをうかがってみた。
トラメは、無言で、じとっと俺の横顔をにらみつけている。
ああ、うん、わかってる。もう空腹が限界なのだろう。ただ、もうちょっとだけ時間をくれ。俺と同じぐらい短気で強情なナギをなだめるのは並大抵のことではないのだから。
「なに溜息なんてついてんの? 溜息をつきたいのはこっちなんだけど?」
険悪に言いつのりながら、ナギもちらちらとトラメのほうを気にしている。
腰までのばした金褐色の髪に、いささかならず非人間的な黄色の瞳。
ぬけるように白い肌と、天使のように端整な細面。
……しかしその表情は仏頂面で、お行儀悪くソファの上にあぐらをかいている。
で、その格好は相変わらずのジャージ姿だ。
こんなけったいな女が兄貴の横で寝ていたら、そりゃあ心配にもなるだろう。
しかし、それにしても、だ……
(トラメが、普通の人間だったとして……学校ぐらいしか交流の場もない俺に、こんな奇妙な女と知り合える機会なんてあるか?)
しかも、家に寝泊まりさせるぐらいの浅からぬ関係で、なおかつ、後ろめたくない関係。
駄目だ。儀式魔術で召喚させた、という真実よりも真実味のある嘘など、俺にはまったく思いつかない。
いよいよこれは進退きわまってきたぞ……と、俺が頭を抱えこみそうになったとき。
ふいに、来客を告げるチャイムが鳴った。
いったい何だ? とりあえず俺はソファから立ち上がり、リビングに備えつけられているインターホンの受話器を取りあげる。
『おはよぉ。磯月、起きてたかい?』
監視モニタのスイッチを入れるまでもない。それは悪友・宇都見のすっとぼけた声だった。
チャンスだ!
こんな朝っぱらから何の用事かは知らないが。宇都見はナギにとって天敵なのである。
というか、非常識で不健全なオカルト馬鹿たる宇都見のことを、ナギが一方的に嫌っているだけなのだが。今この場にあいつを乱入させれば、ナギの怒りを分散させることができるに違いない。
「起きてたよ! 今日は珍しいヤツが来てるからな。早く上がってこい!」
宇都見の返事も待たぬまま通話を切り、オートロックの扉を解除してやる。
「なに? お客さん? いま大事な話をしてる最中じゃん!」
とたんにナギがわめいてきたので、俺は悠然と肩をすくめてみせる。
「まあそう言うなって。わざわざ家まで来てくれたもんを、追い返すわけにもいかないだろ? お前も半年ぶりの帰国なんだから、せめて挨拶ぐらいしてやってくれ」
「……?」
「それより、腹は空いてないか? つもる話は朝食をとりながらでも……」
「空いてない。機内食を食べたばっかだもん」
くそ。やっぱりナギの気をそらすにはスケープ・ゴートが必要か。
トラメはおし黙ったまま俺の顔をねめつけており、いらんプレッシャーをかけてくる。わかってるから、そんな目でにらむな、大喰らい。
救済の福音たるチャイムが、再び鳴った。
俺は早足で玄関にむかい、不審顔のナギもしぶしぶ後についてくる。
「よお、よく来たな、宇都見!」
ドアを開けると、宇都見は、狐につままれたような顔をした。
「あれ? ……ナギちゃん、おひさしぶり」
ぼっちゃん刈りに、銀ぶちメガネ。今日もあかぬけないシャツとデニム姿で愛用のナップザックを背負った宇都見の登場に、予想通り、ナギの眉毛の角度が二度ほど上昇した。
「オカルト馬鹿! ……なんでアンタまで来るんだよぅ!」
三歳年長の兄の友人に対して、ひどい言い草だ。
悪いな、我が悪友よ。何とかトラメの空腹を満たすために、我が妹の敵意を少しばかり肩代わりしてくれ。
「磯月、これはどういうこと?」
「うん? どういうことも何もないさ。たまたま本日、帰国してきたんだよ。俺もびっくりさせられたけど、ここはこいつの家でもあるんだから、ここに帰ってくるのは当然だろ」
「うーん、それはそうなんだろうけど、でも……」
と、おかしな顔をして目線を右側に傾ける。
俺は何だかとてつもなく嫌な予感がして、ドアをもう少しだけ押し開けてみた。
宇都見の視線の先……ドアの影に隠れていたもう一人の人物が、あわててぺこりと頭を下げてくる。
「い、磯月くん、おひさしぶりです! ……あの、お元気、でしたか……?」
おどおどとした、気弱そうな女の声。
八雲美羽、だ。
こいつがここにいる、ということは……
ゆっくり視線を下降させる。すると、かぎりなく黒に近い藍色の瞳が、じっと俺の顔を見つめていた。
ラケルタ、だ。
ラケルタは、あまり元気のない微笑をたたえて、八雲の真似をするように、ぺこりとおじぎをしてきた。
俺は半分無意識のままにうなずき返してから、そろそろと視線を背後に巡らせる。
ナギは、ただでさえ大きな目ん玉がこぼれ落ちるんじゃないかというぐらいに目を見開き、再びわなわなと震えはじめていた。
「な……なんなの、この人たち? お兄ちゃんと、どういう関係?」
その驚愕に満ちたわめき声を聞きながら、俺には溜息をつくことしかできなかった。