プロローグ
「お兄ちゃん、何やってんの!」
夏の、とある日。
俺の安眠は、落雷のように凄まじいそんな叫び声で粉砕されることになった。
いったい何が起きたのかもわからぬまま、とりあえず首だけ起こして、あたりを見回す。
見なれた、俺の寝室だ……が、ありうべからざる人物が、怒りと驚きにわなわなと震えながら、そこに立ちはだかっていた。
男の子みたいに短い髪に、健康的に日焼けした顔。
細っこい身体に、細っこい手足。
スポーティな水色のポロシャツと、デニム素材のショートパンツ。
黒目がちの大きな目はまんまるで、鼻は小さく、口も小さい。
前髪をヘアピンで止めてなければ男の子だか女の子だかよくわからんような風体だけれども、顔立ち自体は可愛らしいんだろうな。たぶん。赤ん坊の頃から知っている俺にはそこんところがよくわからんし、わからなくても不自由はない。
そいつは、俺の妹である、ナギだった。
その姿を見るのは半年ぶりだったが、実の妹を見間違えるわけもない。
が……半年ぶりに見るその顔は怒りに青ざめ、眉は吊りあがり、瞳はランランと燃えている。
まるで全身の毛を逆立てた猫みたいだ。
ねぼけまなこをこすりながら、俺はその姿をぼんやりと見返した。
「何だ、ナギかよ……帰る早々、何をぎゃあぎゃあわめいてやがるんだ?」
「何だじゃないよ! お兄ちゃん、そ、それはいったい、どういうこと?」
「ああ? だからいったい、何を騒いで……」
と、答えながら、身を起こそうとして……にわかに、俺は慄然とした。
身体の右半身が妙に重くて、起き上がることができなかったのだ。
俺は、怒れるナギの顔から、そろそろと視線を自分の胸の上に移動させ……そこに想像通りのモノを見出し、深々と溜息をついた。
トラメの、子どもみたいに安らかな寝顔が、そこにあった。
「……ふしだらだ! ワイセツだ! インモラルだ!」
今度は顔を真っ赤にして、ナギが怒鳴り散らしてくる。
「ナギたちがいないのをいいことに、お兄ちゃんが、そ、そんなミダラなフルマイにおよぶなんて……お兄ちゃんのばかっ! 変態! エロジジイ!」
「ま、待てよ、ナギ! こいつはそんなんじゃねェんだ!」
「説得力ゼロ! そんなんじゃなかったら、いったい何だっていうの?」
うむ。確かに説得力はないだろう。だけど本当に、俺とトラメはそんな関係ではないのだ。
魔術師どもとの壮絶な戦いで深手を負って以来、トラメはよく眠るようになった。それまでは日中にちょろっと午睡をするていどだったのだが、今では昼夜かまわずに、普通の人間と同じかそれ以上に眠るようになってしまったのだ。
もちろんそれは傷ついた肉体を癒すために必要な休息なのであろうし、眠ること自体には何の問題もないのだけれども……毎晩毎晩、俺の寝床にもぐりこんでくるのはどうしたものか、と、少しは気に病んでいたのだよ、俺だって。
だいたい眠りに落ちるのは、俺のほうが早い。だから俺は通常通りにベッドで眠っているだけなのだが、翌朝、目を覚ますと、こうしてトラメがかたわらでスヤスヤと寝息をたてている。
トラメいわく「寝床はこここしかないだろうが」とのことなのだが、やはりこういうのはマズいだろう。いかに仮の姿とはいえ、外見上はれっきとした妙齢の女の子なのだから……たとえその正体が、金褐色の毛皮と三メートルもの巨体をもつグーロなる幻獣だとしても、だ。
とはいえ、名誉の負傷が原因で眠りを欲するようになったトラメをリビングのソファで寝かせるというのも不憫な話だったし。同時にまた、家の主人である俺が無条件にベッドを明け渡すというのも釈然としない。
さてさてどうしたものかなあ、などと思い悩んでいるうちに二日がすぎ、三日がすぎ……けっきょく俺も、考えるのが面倒くさくなってしまった。
別に後ろめたいことがあるわけでもなし。誰に見られるわけでもなし。当のトラメが平気な顔をしているのに俺だけがアタフタとするのも何だか格好がつかなかったし、もういいやどうぞご随意に、と、思い悩むのを放棄してしまったのだ。
で、その結末が、コレだった。
非常にマズい。問題を先送りにした代償は、思いのほか大きかったようだ。
「いいから、落ち着け! な、今お前にも納得できるように説明してやるから……」
「言い訳なんて、聞きたくない! パパとママに言いつけてやる!」
「わあ、馬鹿、やめろって!」
ナギがショートパンツのポケットから最新型の携帯電話を取り出すのを見て、俺はあわてて半身を起こした。
胸の上に乗っかっていたトラメの頭が、ごろりと俺の腹の上に落ち、「ううむ」と非難がましい声をあげる。
「もう朝か……腹が減ったぞ、ミナト」
まだまぶたは閉ざしたまま、トラメが少しぼんやりとした声でつぶやく。
最近のトラメは寝起きも悪い。以前のトラメだったら、ここまで侵入者に接近されて気づかないこともなかったと思う……って、そんな呑気なことを考えてる場合でもないか。俺はナギの険悪なる目線に耐えながら、トラメの身体をおしのけようと、その華奢な両肩に手をかけた。
「あ、あのな、トラメ、朝食は少し待ってくれ。……そんでもって、とりあえず起きてくれ。今、ちょっとした緊急事態が勃発してる真っ最中なんだよ」
「何を言っている……とっとと我の腹を満たせ」
不平そうに言いながら、トラメは金褐色の頭を俺の腹にこすりつけてきた。
うわ、と俺は緊張する。たぶん、これは猫が毛づくろいをするようなもので、まったくもって他意などないのだろうが……何も知らない他人から見れば、おもいきり甘えているような仕草に見えてしまったりはしないだろうか?
ボソッ、と小さな音が響き、俺は、おそるおそる視線を上げる。
ナギの手を離れた携帯電話が、カーペットの上に落ちた音だった。
ナギは、信じ難いものでも見るような目つきで、俺と、トラメを、にらみすえていた。
「……お兄ちゃんの、ウラギリモノ!」
ひときわ大きな怒声が響き。次の瞬間、そこらに積んであった雑誌やらCDやら猫のぬいぐるみやらが飛来してくる。
おいおい、そのぬいぐるみはお前が誕生日にプレゼントしてくれたもんだぞ、我が妹よ。
しかし、俺の部屋にはあんまりモノがない。わずか数秒で投擲のネタを失ったナギは、肩で息をしながら、さらに物騒な目つきで室内を見回した。
その目が、室の奥に鎮座ましましたオーディオ・セットを捕らえ、光るのを見て、俺は心中で十字を切った。
とほうもなく騒がしい夏の一日の、これが幕開けとなったのである。
カンベンしてくれよ、本当にもう。