決着④
……やっぱりこいつは、破綻している。
同じ感慨を胸に抱いたのだろう。アクラブは、深い深い溜息をつきながら、「ギルタブルルのカルブ=ル=アクラブ、承認す」と言い捨てた。
『……なんと馬鹿げた望みの言葉だ。とうてい正気とは思えぬな』
トラメは呆れたようにつぶやき、アクラブは険悪にそちらを振り返る。
「グーロ。一分でいい。その土くれの動きを、止めろ」
『ふん。貴様なぞに命令される筋合いなどないが……』
憮然と応じるトラメのもとに、エルバハが左拳を振り下ろす。
トラメは逃げず、自分も左腕一本で、エルバハの破城槌みたいな拳を真正面から受け止めた。
鋭い鉤爪が岩のような拳にぎりぎりとくいこみ、巨人の動きを封じこめてしまう。
なんとトラメは、パワーの面でもこの巨大なエルバハと互角に渡りあえるようだった。
『……あのように馬鹿げた望みをどのようなかたちで果たしてみせるのか、少しばかり興味をそそられなくもないな』
「何さ、失礼しちゃうなぁ! もなみはいつだってベストの選択をしてる自信があるよ! トラメちゃんって、ミナトくんの言う通り、ほんとに口が悪いんだね!」
この後におよんでも危機感のない声でわめき、七星が頬をふくらませる。
トラメとの力比べに巨体をわななかせながら、エルバハがオレンジ色の双眸でそちらを盗み見た。
『……マスターの気高き志の邪魔はさせぬ』
その異形にはあまりに不似合いな、幼い子どものような声が響く。
それと同時に、拳のない巨人の右腕が、横合いからトラメの脇腹を殴りつけた。
玉虫色の、生命の火が飛散する……しかしそれは、トラメではなくエルバハの右手首の断面からあふれる鮮血がわりの光であるようだった。
ともあれ、意想外の方向から攻撃をくらい、トラメの身体が真横に吹っ飛ぶ。
その行き着く先には、七星が立っていた。
『ふん』
「おっと」
トラメはその途上で床を蹴り、軌道を変えて、七星との激突を回避した。
七星は、錫杖を使って棒高跳びの選手みたいに跳びあがり、トラメとの激突を回避した。
「……あら?」
そして、二人して同じ方向に回避したために、七星の身体はトラメの上に落ちることになった。
「おお、高い! あんなにちっちゃくて可愛かったのに、トラメちゃん、すごいねぇ?」
トラメの右肩の上に鎮座した七星が、はしゃぎきった声をあげる。
『……降りろ、小娘』
「やだ! 気持ちいいから、降りたくない!」
と、七星はトラメの首に腕を回し、こともあろうに、その金褐色の毛皮に頬ずりをしはじめた。
本当に、こいつの破綻加減は規格外だ。
「それに、せっかくの機会だから、こいつの精度を試させてよ? さっきはアクラブが大暴れするだけで、もなみの出番がなかったんだから!」
トラメの黄金色の瞳をのぞきこみながら、その手の錫杖をぐるぐると振り回す。
「ほらほら、アクラブがピンチだよ! いさ、突撃っ!」
『……』
トラメはものすごく不満げなうなり声をあげてから、すさまじい勢いで疾駆しはじめた。
いつのまにやらずいぶん離れたところで一人たたずんでいたアクラブのもとに、エルバハが突進しはじめていたのだ。
アクラブは目を閉ざし、何やら口の中で呪文を唱えている。エルバハの急襲にも反応しようとはしない。
「トラメちゃん! 防御はもなみが引き受けるよ!」
振り落とされまいとトラメの首を抱きすくめた七星は、器用に片腕でバトンのように錫杖を回転させている。
トラメは何も答えずに、頭からエルバハに突っ込んだ。
『……!』
エルバハが立ち止まり、左拳を振り上げる。
トラメは、地を蹴り、自分も左腕を振り上げた。
トラメも右腕は使えない。だから、右肩に乗る七星を守るすべは、トラメにはないのだ。
錫杖を旋回させる七星の頭上に、無慈悲な一撃が叩きこまれる。
その岩石のような拳が、細い錫杖ごと七星の身体を叩き潰すかに見えた瞬間……何度か聞いたことのある、落雷のような轟音と閃光が炸裂した。
この世ならぬ力がぶつかりあい、せめぎあう轟音であり、閃光だ。
気づいたとき、エルバハの左拳はあらぬ方向へと弾き返され。
がら空きの顔面に、トラメの鉤爪がめりこんでいた。
『ぐぁっ……!』
これまで一度として苦痛の声などをあげなかったエルバハが、うめく。
人間でいえば下顎に該当する箇所が粉砕され、おびただしい量のきらめく光が、そこから噴きこぼれた。
そして。
エルバハの巨体が、ものすごい地響きとともに、廃ビルの床へと倒れこんだ。
「うわ、痛そぉ! ミュー=ケフェウスちゃんもドミニカ・マーシャル=ホールさんも殺しちゃダメなんだよ? わかってる、トラメちゃん?」
『……勝手なことばかりほざくな、小娘』
「ふふん。ミナトくんにも言われたことあるけどね、もなみは根っから勝手な人間だから、こればっかりは改められないのさ!」
おそらく人間形態だったならば、トラメも深々と溜息をついていたところだろう。
……なかなかいいコンビじゃないか、お前たち。
『バカッ! トラメ! 油断すんな!』
と、これまで沈黙を守っていたラケルタが、ふいに大きな声をあげる。
それと同時に、ズンッ……という重々しい音色が響きわたった。
地に伏したエルバハが、横たわったまま、左拳を床に叩きつけた音だった。
ひどく脆そうなタイルの床に、巨人の左腕が手首まで埋まってしまっている。
『……まずいな』
トラメがつぶやき、エルバハに背をむけて、また駆けだした。
ものすごい勢いで、俺たちのほうに。
『……母なる大地、大いなるノーミーデスよ。汝の従順なる児に、その偉大なる力をお貸したもう』
エルバハの幼げな声が響く。
その瞬間、大地が、鳴動した。
いつぞやの夜とは比較にならぬほどの、直下型大地震だ。
床がひび割れ、壁が崩れる。
俺と、八雲と、ラケルタは、そろってその場に倒れこみ。
あわや瓦礫の底に沈む寸前、トラメの頑強な左腕によって、まとめてすくいあげられた。
グオオオォォッ……!
廃ビルの倒壊にも負けぬ、トラメの咆哮。
気づくと、俺たちは建物の外に転がっており。
その目と鼻の先で、四階建てのビルディングが、崩落していった。
「無茶苦茶だな、こりゃ……」
俺のうめき声も、廃ビルの断末魔にかき消されてしまう。
本当に、テレビで見たことがある通りの、廃ビルの解体シーンそのままの情景だった。
「あいたたた……あ! ミナトくんだぁ!」
俺の上に覆いかぶさっていた七星が、満面の笑顔で抱きついてくる。
そんなことしてる場合か、馬鹿。
「……無事でしたか、グーロ」
と、少し離れたあたりから、少年ぽいハスキーな女の声が聞こえてくる。
アルミラージだ。
そのかたわらには、ドミニカの小さな身体を抱きあげたたサイが、やつれきった面相で膝をついている。
トラメはさりげなく、俺たちをかばえる場所に立ち位置を移動させ、それに気づいたアルミラージはクスクスと笑い声をあげた。
「本当に用心深い。……今の僕たちに、貴女たちに害を為す力が残っているように見えますか?」
トラメは答えず、文字通りの瓦礫の山と化した廃ビルの残骸へと目線を転じた。
その足もとには、俺と、七星と、八雲と、ラケルタがうずくまっている。
全員、無事だ。
エルバハとアクラブの二人をのぞいて、敵も味方も勢揃いしている。
「おっさん、大丈夫かよ?」
七星を首にまとわりつかせたまま、半身を起こし、俺が尋ねると、サイは死にかけの狼みたいな目を光らせながら、低く応じた。
「まだ決着はついていない。ドミニカが死ねば、すべては終わりだ」
「死なないよ。もなみのアクラブを甘く見ないでね、サイ・ミフネさん!」
一片の迷いもない声で七星が答え。
それを嘲るかのようなタイミングで、瓦礫の山が、動いた。
エルバハだ。
赤みがかった岩のような巨体が、怪獣映画さながらに、瓦礫の下から這いずりだしてくる。
『マスター……貴方を、死なせはしない……』
夜闇の中に、オレンジ色の双眸が瞬く。
と……その背後に、突然、すさまじい勢いで火柱が噴きあがった。
まるで火山の噴火のごとく、真紅の炎が、闇を蹂躙する。
赤い……あまりにも赤い、炎の塊が。
「……アクラブ?」
びっくりしたように、七星が叫ぶ。
それは確かに、アクラブだった。
赤く渦巻く炎の中心に、アクラブの白い面があった。
いや。
赤く燃えさかっているのは、アクラブの長い髪だった。
炎のように赤い髪が、本物の炎と化して、轟々と燃えさかっているのだ。
いやいや。炎と化しているのは髪だけではない。黒いコートは黒い炎、白い肌は白い炎。まるでその肉体を構成する分子がすべて炎に変化した、とでもいうかのように、アクラブ自身が炎そのものと化してしまっていたのだ。
『待たせたな、醜き巨人の子よ! 我が一族の秘術、お前の力でしのぎきることはできるかな?』
凶悪な、声。
エルバハは振り返り、無音の咆哮で応じる。
『おのれの不細工な母の御許に帰れ、土くれよ!』
アクラブは、さらに高みへと舞い上がり、それから、巨大な炎の槍と変じて、エルバハに襲いかかった。
エルバハは、そちらにむかって左拳を突きあげる。
長く尾を引く炎の奔流と、巨大な拳が、宙空で、真正面から、ぶつかりあう。
ものすさまじい落雷のような音をたて、炎は、ちりぢりに飛散した。
『……契約は、果たされた。二度とこのような馬鹿げた望みはごめんだぞ、モナミ?』
とたんにふだんの怜悧さを取り戻したアクラブの声が響き、それと同時に、かつてアクラブであった炎の残骸が、すみやかに消滅し果てていった。
左腕を振り上げた体勢のまま、エルバハの動作も停止して、その巨体から、白い光が消え失せていく。
『契約は、果たされた……しかし、マスターの本懐が遂げられたとは、とうてい思えない』
巨大な身体が、さらさらと輪郭を失っていく。
「気に病むな。お前がドミニカに罰せられることはないし、ドミニカが団長に罰せられることもない。お前はよくやってくれたよ、ミュー」
サイが静かに応じると、エルバハは最後にひどく悲しそうな目つきで眠れるドミニカを見やり……そして、消えた。
エルバハは、アクラブを討ち倒せという契約を果たし、アクラブは、殺されぬように討ち倒されろ、という契約を果たしたのだ。
「はい、万事終了ね! 少なくとも『暁の剣団』の上層部がもなみの不可侵条約を蹴っ飛ばすまでは、停戦! ……異存はないでしょ、サイ・ミフネさん?」
俺の身体にひっついたまま、七星が無邪気な声をあげる。
サイは、ドミニカの身体を抱えたまま、抜き身の日本刀を杖にして立ち上がった。
「……リュウ・ナナホシの裏切りは、その生命をもって贖われた。しかし、邪神の巫女としての血筋は、お前が考えているほど軽くはないぞ、七星もなみ」
「ふふん? もなみほどその事実を重く考えてる人間はいないと思うよ? あなたこそ、生まれた瞬間から呪われた存在として生命をつけ狙われるっていう運命の重さを理解できてるのかしら?」
「……お前の提案は、まちがいなく祖国の団長に通達する。どのような判断が下されたとしても、俺たちは『暁の剣団』の意志に従う」
「それでオッケーだよ。アナタたちと手を取り合える日を、もなみは心待ちにしております」
サイは首を振り、無言のまま、俺たちに背をむけた。
その背に、七星はさらに言葉をかける。
「サイ・ミフネさん! ひとつだけハッキリさせておいてくれる? ヤクモミワちゃんの入団の件は白紙、ってことでいいんだよね?」
「……八雲美羽の入団は、プロベイショナー、つまりは仮入団のあつかいだった。今回の一件で、俺は不適格の処断を下す。八雲美羽、今後、お前が『暁の剣団』の名を騙ることは許されない」
「だ、そうだよ? 不合格おめでとう、ヤクモミワちゃん」
と、七星の目が初めてはっきりと八雲のほうにむけられる。
八雲は、唇を震わせながら、誰にともなく、深々と頭を下げた。
『……契約は、果たされた』
俺は、ハッとしてトラメを振り返った。
トラメの身体もまた、白い生命の光を消し、砂のように音もなく霧散しはじめていた。
『まったく手のかかる契約だった。ミナト、さきほどの言を忘れるなよ?』
さきほどの言、とは、四日ぶんの食費をつぎこんで、美味いものをたらふく食わせてやる、というアレだろうか。
俺は苦笑し、消えゆくトラメに軽く手を振ってみせた。
「まちがいなく約束は果たしてやる。マンションに帰りついたらすぐに呼び戻してやるから、それまで餓死なんてするんじゃねェぞ?」
そうしてトラメも、現し世から消え去った。
「よしよし! ちょいとハプニングはあったものの、これで見事に大団円だねっ!」
楽しげにはずんだ声で言いながら、七星がようやく俺のもとから飛び離れた。
明るくきらめく瞳が、俺と、八雲と、ラケルタを見回していく。
「みんな、おつかれさま! 『暁の剣団』との交渉がどう転ぶかはわからないけど、もなみと海野カイジの存在があるかぎり、もうミナトくんやヤクモミワちゃんに目をむけるゆとりなんてなくなるだろうから、これでみんなもスコヤカに生きていくことができるよっ!」
「さすがにそこまでは楽観視できねェけどな。……だけど、お前のおかげで何とか丸くおさまったよ、七星」
「うんうん。惜しみなく感謝なさい! ……そして、明日になったら、もなみのことなぞ永久に忘れておしまいなさい!」
またそのようなことを言いながら、七星はもぞもぞと吊りズボンのポケットをまさぐり始める。
そこから取り出されたのは、何やら小さなガラスの小瓶のようだった。
「これはもなみからの最後のプレゼント! ミナトくん、ヤクモミワちゃん、ぐっすりおやすみなさいませ」
「なに……」
ふわりと、甘い香りがあたりに漂う。
それを知覚した瞬間、俺の意識は急速に白濁していった。
がくりと、思わず膝をついてしまう。その視界のすみに八雲が倒れこむ姿が見え、「ミワ?」とラケルタの焦る声が聞こえた。
「大丈夫だよん。ただの睡眠の術だから。きちんとお家まで送り届けてあげるから心配しないでね、ミナトくん?」
「七星、お前……」
「とても楽しい四日間でした! 明日をも知れぬ生命だけれども、ミナトくんと過ごしたこの四日間を、もなみは死ぬまで忘れませぬ!」
かすんだ視界の先で、七星が幸福そうに笑っている。
ふざけるな、と怒鳴ろうとしたが、すでに舌も唇も、俺の制御から外れつつあった。
「トラメちゃんとお幸せにね? 魂の奥底から大好きだったよ、ミナトくん! ……それでは、永遠にオサラバです!」
俺の意識が途絶えるまで、七星は幸福そうに笑っていた。
……こんな大団円があるか、馬鹿野郎!
そんな想念を噛みしめながら、俺の意識は無情な暗黒の果てへと沈みこんでいったのだった。