襲撃者の影①
「あ、おはよう! ずいぶん遅かったね、磯月!」
俺が教室のドアをくぐるなり、宇都見のやつが席を蹴って飛びついてきた。
すでに授業は三時限目まで終了しているはずだ。ひさびさに大遅刻をしてしまった。
「グーロさんは、元気かい?」
「ああ。元気すぎて、ふりきるのにこんなに時間がかかっちまった」
げんなりと答えながら、俺は自分の席に腰を落とす。
まわりの連中がちらほらと挨拶してくるが、宇都見にまとわりつかれている間は誰も近づかない、というのがこの三ヶ月で確立された暗黙の了解だ。
「あれから色々調べてみたんだけど。やっぱりなかなか新発見がなくてね。グーロっていう幻獣に関しても情報が少なすぎるし、あの石版にいたっては、どの文献をあさっても、ヒントらしいヒントすら出てこないんだ。こいつはなかなかの難事業だよ」
「ああ、そうかい。……とりあえずあいつは、信じられないぐらいの大喰らいだぜ?」
さきほどまでの大騒ぎを思い出して、朝から俺は深々と嘆息する。
一夜明けて、俺もそれなりに活力は取り戻したのだが、グーロのやつは「何か喰わせろ」の一点張りだった。どうやらたった一晩で、あれだけ喰いに喰った食糧のすべてを消化しつくしてしまったらしい。
もちろん、放課後まで何も喰わずに待っていろ、などと言うつもりはなかったが。朝っぱらからそんな豪勢な食事を用意してやる時間も気力もない。なにせ、冷蔵庫の中にはもうバターと脱臭剤ぐらいしか残っていなかったのだ。
結果、コンビニ弁当三人前で済まそうとした俺と、さらなる食糧を要求するグーロの間で熾烈なバトルが展開され、敗残兵と化した俺はスーパーが開く時間まで登校することもかなわなくなり、こうして重役出勤する羽目になった、という顛末だ。
「あいつ、朝っぱらからパスタを二キロもたいらげたんだぞ? しかもその前に弁当を三つも喰ってるのに、だ。あんな大喰らいを飼ってたら、俺は三日で破産しちまうよ。お前、責任もって、何とかしろ!」
「うーん、そうは言っても、ボクも貯金を使い果たしたばかりだからなぁ。……わかった。こづかいの前借りをお願いしてみるから、何とか今日明日だけでもしのいでよ」
そう答えてから、宇都見はおかしそうに口もとをほころばせる。
「……だけどね、数少ない幻獣グーロの資料にもハッキリとそう書いてあったよ。『おそるべき大喰らいである』ってね。どうやらグーロってのは北スウェーデンの伝説に出てくる幻獣らしいんだけど、それ以外では、猫みたいな顔をしている、とか、人間の役に立つ、とか、それぐらいの伝承しか見つけられなかったんだよねぇ」
「あいつ、有名なバケモノなのか?」
「いや、だから無名なんだってば。名前とそのていどの特徴しかわからないんだもん。クラーケンやらガーゴイルやらに比べたら、ほとんど何も残されていないって言ってもいいぐらいだね」
あいにく俺の知識では、そのクラーケンとやらがどんな化け物なのかも今ひとつわからない。俺にわかるのは、せいぜいドラゴンだのユニコーンぐらいのものだ。
「そうそう、そのあたりが超メジャー級ね。グーロなんて、日本の妖怪で言ったらクネユスリぐらいマイナーだよ」
いや、だから、わからないっての。
「それに、あの石版を使った魔術もね……何だか、色んな国の作法がごちゃまぜになっていて、ちっともルーツがわからないんだ。下敷きにしているのは、もちろん西洋儀式魔術なんだけど、それならどうしてラテン語じゃなくアラビア語なのかも不明だし、聖具の色なんて、中国の陰陽五行と一致しちゃってるからね。何が何だか、さっぱりわけがわからないんだよ」
「……それはつまり、さっぱりわけがわからないものを実践なんざするな、って話だろ」
「それはだって、磯月が契約者になっちゃうなんて想定外だったもん。予定通り、ボクが契約者になっていれば、幻獣とぞんぶんに語りつくした後、何か適当な望みをかなえてもらってハイサヨウナラ、で済んだ話だからね」
「お前、そんな適当な感じで寿命が縮んでもいいのかよ?」
呆れ返って俺が言うと、宇都見はいっそう楽しげに目を輝かせた。
「本物の幻獣が喚びだせるなら、別にたいしたことじゃないさ。どのていどの寿命をもっていかれるのかはわからないけど、ちっぽけな望みだったら危険はない、ってグーロさんも言ってたろ? 長い人生、一年や二年ばかり早死にするぐらい、安いものだね」
「……」
「あ、もちろん磯月がそんな目に合わないように、最善は尽くすから! ……で、ひとつ考えてみたんだけどさ。もう手もとの資料は調べつくしちゃったんで、ちょっと別方向から攻めてみようと思うんだ」
「別方向?」
「うん。オークションにあの石版を出品した人に、直接話を聞いてみようかなと思ってる。実はもう朝に連絡して、今日の放課後に会ってもらえるように頼みこんであるんだよ」
さすがは宇都見だ。オカルトがらみの話ならば、無尽蔵の行動力を発揮してくれる。
それがどれほど有効な策なのかは置いておくとしても、俺ひとりだったらとうていそんな作戦すら思いつけそうにない。
「なるほどな。オークションの取引相手なら、住所も連絡先も最初っから割れてるってわけか。……そいつは、どこに住んでるんだ?」
「意外と近所だよ。実は、お隣りの市の住人なんだ」
そいつはますます好都合。
「よし。それじゃあいったん家に戻ってから集合だな。あの大喰らいも生き証人として引っ張ってくか」
「え? 磯月も来るの?」
きょとんと目を丸くする宇都見に、俺は顔をしかめてみせる。
「お前ひとりで行かせたら、わけのわからないオカルト話で盛り上がって、それで満足して帰ってきちまいそうだからな。行きたかないけど、行くしかないだろ」
「わかった。それじゃあボクは学校から直行でかまわないから、二人でグーロさんを迎えに行って、そのまま駅にむかおうよ。……にしても、グーロさんは家でおとなしくしてくれてるの?」
「ああ、契約者の許可がないかぎり、勝手に外はウロチョロできないんだとよ。……その代わり、俺の後にひっついてくることはできるらしいから、けっきょく大モメにモメちまったけどな」
食糧配給と脱衣をそれぞれ唯一の武器とした不毛な消耗戦を思い出し、俺はもう一度溜息をつく。
いったい昨日から何回溜息をついているのやら、もはや数える気にもなれない。
「……ずいぶん仲良くやってるみたいだね」
宇都見はくすくすと笑い声をたて、俺はいっそう気分が悪くなる。
「ふざけたことぬかすなよ? あんな口の悪いバケモノ女、とっとと元いた場所に追い返さねェと、俺は心労で倒れちまいそうだ。だいたい、お前が中途ハンパに呪文を止めたり、メガネをなくしたりしなければ……」
「あ、授業が始まるね! それじゃあ続きは、放課後に!」
四時限目を告げるチャイムが鳴り、宇都見は軽やかな足取りで自分の席に戻っていく。
けっきょくこいつは、幻獣召喚とやらが成功したことが嬉しくて、楽しくて、それ以外のことは基本的にどうでもいいのだろう。その知識や行動力は最大限に活用させつつ、やはり俺自身が手綱を握ってやらねば、いっこうに話は進まなそうだ。
孤独な旧友を見捨てなかった代償がコレかよ、と、俺は世の中の理不尽さを恨みながら、放課後の訪れを一心に待ち焦がれた。