覚醒①
七星に清められたトラメの身体が、再び鮮血にまみれている。
ラケルタの口からも、おびただしい量の血が、こぼれ落ちていた。
それを見届け、ドミニカは、修道服をひるがえして扉にむかう。
「いそつきみなとをこうそくして、このへやでまて。ぎるたぶるるを、しまつしてくる」
ドミニカの姿が消え、おそろしいほどの静寂が部屋にたちこめる。
俺は、のろのろと半身を起こし。
八雲は、音もなくベッドから降り立った。
「……磯月くん、ごめんなさい」
泣きそうな声でつぶやきながら、八雲は、トラメのもとへと足を進めた。
ラケルタは、疲れ果てたような様子でベッドから降り、無言のまま、八雲の胸もとに頭をこすりつける。
その鶏冠のそそりたった頭を愛おしげになでてやりながら、八雲は、トラメの前に立った。
「……トラメさん、ごめんなさい」
泣きそう、ではない。
八雲は、泣いていた。
泣きながら、八雲はトラメのほうに腕をのばした。
そのほっそりとした白い指先が、こまかく震えながら、トラメの脇腹に刺さった短剣の柄をつかむ。
「トラメさん……目を、覚まして」
そうして八雲は、短剣を引き抜いた。
トラメの魂を封じこめた、封魔の剣を。
「……トラメさんが望むのなら、私は自分の生命をさしだしたってかまわない」
透明な涙で頬を濡らしながら、八雲は封魔の剣を放り捨て、力なくその場にへたりこんだ。
心配そうにその頬の涙をなめとろうとするラケルタの首に、震える腕でとりすがる。
「磯月くん。こんな私を許してくれて、ありがとう」
俺はその言葉に何と答えればいいのかもわからぬまま、半ば無意識のうちに立ち上がり、足を踏みだした。
何がどうなったのかはわからない。
わかるわけがない。
トラメの上半身は鮮血にまみれ、その脇腹からは封魔の剣が引き抜かれた。
希望か?
絶望か?
俺が感じるべきは、どっちなのだ?
わからない。が、わかることもある。
それは、「終わった」ということだ。
だから俺は、トラメのもとへとむかわなければならなかった。
どんな結末が訪れたのかを、確かめるために。
俺は八雲とラケルタのかたわらを通りすぎて、トラメの前に立った。
こわれた人形のように放りだされた、トラメの身体。
人間よりも赤く見える鮮血が、その咽喉もととワンピースの胸もとをしとどに濡らしている。
その子どものように幼い寝顔にも、転々と血が飛び散ってしまっている。
(トラメ……?)
俺は、夢遊病者さながらに、その白い頬へと手の平をおしあてた。
冷たい、氷のような顔。
何も変わってはいない。
何も変わってはいないが、何かが変わろうとしていた。
そして。
トラメのまぶたが、微風にそよぐ稲穂のように、ほんの少しだけ、揺れた。
「……トラメ」
今度は、口に出してつぶやく。
トラメのまぶたは、ゆっくりと、カタツムリの歩みよりもゆるやかな動きで、少しずつ、ほんの少しずつ、上に持ち上がっていく。
黄色い瞳が。
ぼんやりと、俺を見た。
「トラメ」
もう一度、俺は言った。
あとの行動は、完全に無意識だ。だから、誰に文句を言われても困る。
俺は、トラメを引き起こし、その小さな身体を、力まかせに抱きすくめてしまっていた。
氷のように冷たい身体が、ほんの少しずつ熱をおびていくのが、衣服ごしにも伝わってくる。
トラメの左腕が、何かを確かめるように、俺の背中をまさぐった。
「トラメ……この馬鹿野郎……」
「……起きぬけに、なぜそのように我が罵倒されねばならぬのだ」
懐かしい、ふてくされたようなトラメの声。
俺は、いっそう両腕に力をこめてしまった。
「貴様も、我も、生きているのか。これはまったく意想外だ。百年の眠りに落ちる覚悟を固めていたというのに、これでは拍子抜けという他ない」
「……うるせェよ、馬鹿野郎」
金褐色の髪が鼻先にふれて、くすぐったい。
花のような、草のような、不思議な香りがする。
トラメだ。
トラメの封印が、ついに解かれたのだ。
……しかし、どうして?
トラメは、ラケルタに、咽喉を噛みやぶられてしまったのではないのか?
そこに何らかのトリックをほどこす余地があったとしても、八雲が望みの言葉を唱えてしまったことだけは確かなのだ。
そしてラケルタは、その契約は完了した、と宣言した。宣言した以上、トラメが生きているはずはない……だからこそ、ドミニカのやつもロクな確認もしないまま部屋を飛びだしていったのだろうから。
これはいったい、どういうことなのだろうか?
『……トラメ、色々悪かったネ』
ラケルタの声が響く。
それをきっかけに、俺はトラメの身体を解放してやることにした。
ただし、そのほっそりとした肩からは手を離さず、至近距離から、その顔をのぞきこんでやる。
いつものふてぶてしい顔で、いつもの不機嫌そうな目つきで、トラメは、まっすぐ俺の顔を見つめ返してきた。