決行③
八雲の青白い顔が、いっそう血の気を失っていく。
黒い、大きな目が、いっそう大きく見開かれて、俺を見る。
「驚かせて悪かったな。会いたかったぜ、八雲……」
俺は、最後まで言い終えることができなかった。
八雲以上に精気の感じられなかったラケルタが、ふいに俊敏な動作でステップを踏み、俺と八雲のあいだに立ちふさがってきたからだ。
「おい、ラケルタ……?」
驚く俺の眼前で、ラケルタが凶悪なうなり声を発しはじめた。
青い目が、鬼火のように、爛々と燃えはじめている。
ちょっと待て……どうしてお前が、俺のことをそんな目つきでにらんでくるんだ?
「磯月くん……無事でよかった……」
思わず、というように八雲が言い、それから、あわてて自分の口をふさぐ。
さらに八雲は、小さく頭を振り、やがて、決然と俺を見た。
「ごめんなさい。そうじゃない。……磯月くん、馬鹿な考えは捨てて、その石版を私たちに渡して」
「……何だって?」
「私のしたことは許されることじゃない。だから、今さら弁解はしない……だけど、磯月くん、あなたはもうこんな世界には関わらないで。新しい石版で、新しい幻獣を喚びだすなんて……そんな馬鹿なことは、しないで」
「ああ、何だ、そのことかよ」
俺は、思わず苦笑してしまった。
苦笑でも、笑いは笑いだ。俺は八雲を前にして、こんな風にすぐ笑えたことを意外に思い、そして、心強くも思った。
「そいつは、嘘だよ。こんなタイミングで石版を買い戻す理由が必要だったから、適当な嘘を宇都見にふきこんだだけだ。そんな馬鹿な真似は、しねェよ」
「……本当に?」
「当たり前だろ。こんなもん、欲しいんだったら、くれてやるよ。俺には必要ない。……トラメは、まだ死んじゃあいないんだからな」
八雲の顔が、さらに青ざめた。
激しい動揺に耐えかねたように、一、二歩、後ずさる。
「八雲。その前に、ひとつ聞かせてくれ。ずいぶん外は静かみたいだけど、あの魔術師どもは何をしてやがるんだ?」
「……おかしな格好で顔を隠した女の人と、ギルタブルルが現れて……少し離れたところで、戦ってる。静かなのは、人払いの結界を張っているから。……私は、その石版を探してくるように、命令されてきたんです」
「命令、か」
ふっと視線を下方に落とす。
八雲は、おびえた仕草で、右手を自分の背中に隠した。
右手……その手首の内側に刻まれた、忌まわしい『S∴S∴』の刻印を。
「八雲。馬鹿なことをするなってのは、もともと俺の台詞じゃないのか? お前こそ、馬鹿な真似は、もうやめろよ」
「……」
八雲はさらに後ずさり。
ラケルタは、さらに爛々と両目を燃やす。
だけど俺は、もうラケルタの挙動は気にしないことにした。
どんな思惑かはわからないが、こいつが一番大事に思っているのは、八雲だ。そのために俺を威嚇したいんなら、好きなだけすればいい。
「要するに、お前はあいつらに脅されたんだろ? 俺だって、同じことを言われたよ。トラメを引き渡せないなら、いっそのこと入団しちまえ、ってな。……お前がそいつをオーケーしちまったことを、今さら責めるつもりはない。だけど、お前が後悔してるんだったら……今なら、まだ引き返せる」
「……引き返せないよ」
静かに、八雲は首を振った。
「私は、磯月くんみたいに強くはふるまえない……それに、私は……もう、許されないことをしてしまったから……」
「そんなことはねェよ。トラメは、まだ生きてる。あいつが生きてるかぎり、お前が許されないなんてことは、ない」
「……」
「なあ、八雲。考えなおしてくれ。お前がその気になりさえすれば、トラメを助けることはできる。……いや、今となっては、お前しかトラメを助けることはできねェんだ。お前があの忌々しい短剣を抜いてくれれば、トラメは助かるんだよ。そうすれば、俺だって、あいつだって……」
「許す、って言うの?」
八雲の目が、信じ難いものでも見るように、俺を見る。
「磯月くんたちを裏切って、トラメさんをあんな目に合わせた私を……今さら、許してくれるって言うんですか?」
「許すよ」
俺は、はっきりとそう告げた。
八雲と、そしてラケルタの姿をまっすぐに見つめ返しながら。
「お前がトラメを助けてくれるんなら、許す。トラメが怒り狂ったとしても、俺がなだめてやる。だから、トラメを……助けてくれ」
「……」
「あのままトラメが死んじまってたら、さすがに俺も許せなかったと思う。だけど、今ならまだ、許せる。なあ、八雲、頼むから……」
「私が死んでも、トラメさんの封印は解けるんでしょう?」
感情の読みとれない声で、八雲が俺の言葉をさえぎった。
「だったら、私を殺せばいい。……私は、裏切り者なんですよ?」
俺は、目を閉じ、深く息をつく。
それから、もう一度、二人の姿を見返した。
「トラメが死んだら、俺はお前を許せなくなる。そのときは……俺も何をしでかすか、まったくわかったもんじゃない。そんな馬鹿げた結末だけは、死んでもごめんだ。だったら俺も、トラメと一緒に死んじまったほうがマシだよ」
「……」
「八雲。あんな連中の言いなりになることはねェんだ。俺たちが力を合わせれば、あんな魔術師どもは返り討ちにすることができるし、魔術結社なんざ、適当に言いくるめちまえばいいんだよ。……それに、お前も見ただろ? あのギルタブルルと、そのご主人様をさ。あいつらなんて、誰の力も借りずに、魔術結社にケンカを売ろうとしてるんだぜ?」
「……私には、力なんて、ない」
つぶやくように言い、八雲は、ラケルタの翼にそっと手をふれた。
しかしラケルタは、俺の姿をにらみすえたまま、八雲を振り返ろうともしない。
「ラケルタも、もう、戦えない。私だって、ラケルタを戦わせたくない。……今の私たちには、もう何の力も残ってないんです……」
「だったら、なおさら魔術結社なんざに入団するのは自殺行為だろ? それだったら、あのギルタブルルの主人を頼るほうが、百倍マシだ。魔術師どもがおっかないってんなら、いっそのことあいつの手下にでもなっちまえよ」
「……」
「あいつはな、お前とラケルタのことも救いたいって言ってくれたんだ。宇都見に輪をかけたような大馬鹿でもあるけれど、お前に裏切りをけしかけるような連中に比べたら、神様みたいな存在だぜ? だから、お前も……」
「私には、救われる価値なんてない」
やっぱり感情の読みとれない声で、八雲は言い捨てる。
「私はもう、ラケルタさえいればいい。……私になんか、かまわないでください」
「八雲……それじゃあお前は、俺に、トラメをあきらめろって言うつもりか?」
腹の底におしこめた黒い激情が、もぞりと蠢く。
勘弁してくれよ、八雲……俺もそれほど気の長いタチじゃあないんだ。
「……お前がどうしてもこっちに帰ってきたくないっていうんなら、しかたない。だけど俺は、トラメを見捨てることなんてできねェんだ。……それぐらいのことは、お前にだってわかるだろ?」
「わからないです。……磯月くんにとってトラメさんがどれぐらい大事な存在かなんて、私は知らないんですから」
「嘘つけ。お前は、わかってるはずだ。他の誰にわからなくても、お前だけにはわかってるはずだろ? ……だからお前は、自分が許せないんだ」
うまい言い回しなんて思いつかない。だから俺は、頭の中に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「自分を殺せばいいとか、自分には救われる価値がないとか、そんなつまんねェこと言ってんなよ。要するにお前は、自分のやっちまったことにビクついてるだけなんだろ。だけど、もういいんだよ、八雲」
「もういい、って……」
「俺が、許すって言ってるんだ」
伝わってくれ、頼むから。
俺には、こんな言い方しかできないんだ。
「お前が自分を許せなくても、俺がお前を許してやる。だから、もうそんな罪悪感はどこかに放り捨てちまえ。……そして、俺とトラメを助けてくれ。俺は、お前ともラケルタとも仲間のままでいたいんだ。だから、俺たちを助けてくれよ、八雲」
八雲は、まるで雷にでも打たれたかのように立ちすくんだ。
その青白い面が、見る見る間に子どもみたいな泣き顔へと変じていく。
ずっと俺をにらみつけていたラケルタも、気がかりそうに八雲を振り返った。
そして……
いきなり、背後の扉が大きく開け放たれた。
「なにをやっている。われわれのこともうらぎるきか、やくもみわ」
灰色の修道服の女、ドミニカ・マーシャル=ホールが、そこに立ちはだかっていた。