封印の剣
俺は、何もかもを失ってしまった。
トラメも、八雲も、ラケルタも……
一ヶ月前に得たばかりのそいつらを、俺は、たった一晩で失ってしまったのだ。
冷たく、動かなくなってしまったトラメの身体を、俺は、もう一度、抱きすくめる。
あの、いつも人を小馬鹿にしていたような黄色い目は、力なくまぶたの裏側に隠され。
悪態ばかりついていた口は、ゆるやかに閉ざされて、もう動かない。
その白い面は、まるで赤ん坊の寝顔みたいに、幼く、そして、安らかにさえ見えた。
「愚かだな。……どんなに嘆き悲しんでも、失われた生命はもう戻らん」
冷淡な女の声音が、俺の心を刺した。
まるでお得意の毒針みたいに、その言葉は、俺の弱った心を蝕む。
「そしてまた、使役していた幻獣を失ったからといって、そこまで嘆き悲しむ人間も珍しい。……そんなにそいつが、大事な存在だったのか?」
「……悪いかよ?」
殺されたって、かまいはしない。
俺は、どうしても震えの止まらない声で、怒鳴り返してやった。
「こいつが大事で、悪いのかよ? 人間だの幻獣だの、そんなの関係ねェ! こいつは……」
俺にとって、かけがえのない存在だったのだ。
失ってしまった今だからこそ、俺にはそれが、痛いほどよくわかる。
どれほどいがみあいばかりだったとしても、たとえこの先、本当の意味ではわかりあうことなどできなかったとしても……
トラメは、かけがえのない存在だったのだ。
「べつだん、悪いなどとは言っていない。ただ珍しいと言っただけだ。いきりたつな、イソツキミナトよ」
赤い髪と赤い目をもつ黒衣の人間ならざる女は、たいして関心もなさそうにそう言い捨てた。
その、女吸血鬼みたいに不吉な姿を、俺は、憎悪をこめてにらみすえてやる。
「お前は、どうして生きてやがる……お前は、一ヶ月前に、トラメたちに退治されたはずじゃなかったのか? 百年の眠りとやらはどうしたんだよ?」
「さて……何のことだか、わからんな」
赤い唇を吊りあげて、女はふてぶてしく笑う。
俺は、懐に隠し持っていた純銀の短剣を抜き放った。
こんなちっぽけな武器で、本当に幻獣を傷つけることなどできるのか……そんなことは、わからない。
だけど、この女が敵ならば、俺が闘うしか、ないのだ。
トラメは。
トラメはもう、闘うことができなくなってしまったのだから。
女……ギルタブルルは、炎のような髪とマントのような黒衣を夜の風になびかせながら、ただ傲然と笑い続けるばかりだった。
そして……
「カルブ=ル=アクラブ。アナタ、何やってるの? まだお仕事は済んでないでしょ?」
と、素っ頓狂な女の声が、突然ギルタブルルの背後から響いた。
とたんにギルタブルルは毒々しい笑みを消し、眉をひそめて、声のしたほうを振り返る。
「別に何もしていない。こいつが勝手にいきりたっているだけだ」
「そんなこと言って、どうせアクラブがケンカを売ったんでしょ? まったく、口が悪いんだから! 毒舌キャラもけっこうだけど、たまにはデレないと魅力も半減よ?」
ギルタブルルの長身に隠れてしまい、声の主の姿は見えない。
ここは、森の中……ついさきほどまで死闘を繰り広げていた廃工場から、それほど離れているとも思えない、暗い夜の森の底だった。
ギルタブルルの手によって拉致された俺とトラメは、問答無用でこんな場所まで連れ去られてきてしまったのだ。
「……さてと。それじゃあ本題に入りましょっか。ね、イソツキミナトくん、察するところ、キミは今、死ぬほど困り果ててるんじゃないかと思うんだけど……どうかなぁ?」
「……お前は、誰だ?」
場違いなぐらい明朗な声音に、俺は反抗心をつのらせる。
こんな場所で、こんな状況で、こいつはどうしてこんな風に楽しげでいられるのだ?
こいつは……敵か?
「敵じゃないよぉ。敵だったら、キミたちをアソコから連れ出すはずがないでしょぉ? 放っておいたら、その可愛らしいグーロちゃんなんかは確実にトドメをさされちゃってたんだから!」
「それじゃあ……こいつはまだ、死んでないのか?」
はからずも、大きな声を出してしまった。
青白い半月の下、そいつは、困ったように小首を傾げる。
「死んでは、いないよ。でも、生きてもいない。……グーロちゃんのお腹に刺さってるそいつは、封魔の剣、でしょ? だったら文字通り、封じられちゃってる、っていうのが正しいかなぁ」
「助けることは、できるのか?」
「うむむ。とてもダイレクトな質問だね! ……だけど、ここでアイマイな言葉で逃げるのは、天才少女の名がすたるかぁ」
阿呆なことを言いながら、そいつは、大仰に両腕をひろげた。
「わかった! それじゃあ、きっぱりと言いきってあげよう! 助けることは、可能だよ! 他の誰にも不可能だったとしても、このワタシになら、可能だね! 嘘ついたら、カルブ=ル=アクラブの毒針を千本飲むよ!」
ほっそりとした人影のかたわらで、ギルタブルルが呆れたように溜息をつく。
そいつは、ざくざくと腐葉土を踏みしめながら、俺たちのほうに近づいてきた。
きょろんと大きく丸い目が、子どものように無邪気な光を浮かべて、俺たちを見る。
「それじゃあ、あらためて最初の問いかけに戻ります。イソツキミナトくん、キミは今、死ぬほど困り果ててるんだよねぇ? ワタシに、助けてほしいかい?」
「……こいつを、助けてやってくれ」
もしもトラメを救ってくれるなら、悪魔とでも何とでも契約してやる。
しかしそいつは、悪魔ならぬ天使みたいな顔で、にっこり微笑んだ。
「了承した! ワタシがキミたちを助けてあげるよ! おしみなく感謝して、その気持をいつまでも忘れないようにね! ワタシの名前は、七星もなみ……最も愛しいと書いて、最愛だよ! 素敵すぎる名前でしょう? だから今後は、ワタシをもなみと呼んでね、イソツキミナトくん!」
それが、稀代の変人にして俺たちの救世主……七星もなみとの、何とも筆舌に尽くし難いファースト・コンタクトだったのである。
いったいいかなる騒動が巻き起こっているのかも知らないまま、トラメは、幼子のように無垢な表情で、静かに眠り続けるばかりだった。