血戦遊戯⑦
「トラメ……」
「ようやく片付いた。いくぶん時間はかかったが、まあ予定の通りだ」
トラメのジャージは、元の色がわからなくなるぐらい、真っ赤に染まってしまっていた。当然だ。あんな凶悪な角で心臓をぶち抜かれてしまったのだから。
しかし、白い輝きに包まれたトラメは、依然と力に満ちあふれていた。
「さあ、この後は貴様の役割だ。叩きのめされて意気消沈したり怒髪天を突いたりしている魔術師どもを、貴様がどのように懐柔するのか、とくと拝見させてもらうぞ」
「大役だな。……だけど、お前が無事でよかったよ、トラメ」
「気色の悪いことをぬかすな。とっととその娘を取り戻せ」
そう言ってから、俺の耳もとに口を寄せる。
「その小娘が自由になるのと同時に、我は契約が完了して隠り世に引き戻されるであろう。その際は、すぐにまた我を喚びだすのだぞ?」
「ぬかりがないな。わかったよ。……だけど、こんな鎖、どうやって外したらいいんだ? 手首のところで、鍵がかけられちまってるんだよ」
八雲は泣き疲れてしまったのか、トラメがそばに寄ってきても、ぐったりとうなだれたまま顔をあげようともしなかった。
トラメは小さく息をつき、まだ鉤爪が生えたままの左腕を振り上げる。
二本の鎖は、まるで絹糸のように、ぷつりと断ち切られた。
崩れ落ちるその身体を、俺はあわてて抱きとめてやる。
「う……」
「八雲、大丈夫か?」
まぶたが弱々しく開き、まだ涙でうるんでいる大きな瞳が、すがるように俺を見つめた。
以前のこいつはどんな顔だったっけ?と首を傾げたくなるぐらい、別人みたいな面相だ。
「ごめんなさい……磯月くん、ごめんなさい……」
「何を謝ってるんだよ? お前はなんにも悪くないって」
答えながら、俺はトラメのほうに目線を転じる。
「トラメ、お前、消えないじゃねェか? もしかしたら、この手首の鉄枷もきちんと外さないと、助けたことにならないのかな?」
「ふむ……ちと妙だな」
面倒くさげに半身をかがめて、八雲の顔をのぞきこむ。
黄金色の目と、黒い目が、虚空で視線をからめあった。
トラメはいっそういぶかしげに眉をひそめ。
八雲はいっそう悲しげに涙をこぼす。
化粧の溶けた、黒い涙を。
「ごめんなさい……」
八雲が、再び囁いた。
その瞬間。
トラメの顔が、驚愕に凍りついた。
「貴様……」
ゆらりとトラメが立ち上がる。
その目が、狂おしげに、黄金色の火を噴いた。
「トラメ? お前、いったい……」
言いかけて、俺も息を飲む。
トラメの脇腹に、奇妙なモノが生えていた。
青みがかった、短剣の柄。
細くて小さい、それでいて複雑な紋様の刻みこまれた、えらく古めかしい短剣が、トラメの右の脇腹に深々と突きたてられていたのだ。
「ごめんなさい……」
八雲の右腕が、取りすがるように、トラメのほうへと差しのべられている。
いや。
その手が、トラメが立ち上がるまでは、短剣の柄をつかんでいたのだ。
トラメを刺したのは、八雲だった。
「くそ……」
心臓を貫かれても平気な顔をしていたトラメが、がくりと膝をつく。
その小さな身体から、白い鮮烈な光が瞬くうちに消えていき、巨獣の左腕も人間のそれへと戻っていってしまう。
「八雲! お前、いったい、トラメに何を……!」
俺は、錯乱し、八雲の両肩をひっつかんだ。
八雲は、トラメのほうに右腕をのばした体勢で、虚ろに、トラメを見つめている。
その、フリルの袖口からのぞく白い手首に目を止めた瞬間、俺はいっそうの錯乱に陥った。
そこには……まだ真新しい赤い刻印が穿たれていたのだ。
まるで血で描かれたかのように、生々しく赤い、小さな文字……
『S∴S∴』
八雲の右の手首には、はっきりとそう刻印されていた。
「不覚をとった……我は、ここまでだ……」
がしゃんと音をたてて鉄柵にもたれかかり、トラメが、黄色い目で俺を見た。
黄金色の光を失った、死にかけの子猫みたいな目で。
「トラメ! 大丈夫か? しっかりしろ!」
俺は八雲の身体を放りだし、今度はトラメの身体を抱きかかえることになった。
トラメの身体は、異様に冷たかった。
「無理だ。これは、封魔の剣……我には、どうすることもできん」
馬鹿な。あれだけ化け物みたいな連中をなぎ倒してきたトラメが、こんなちゃちなナイフ一本で死んでしまうというのか?
そんなことが、あるはずはない。
そんなことが、あっていいわけはない。
「ミナト……逃げろ」
最後にそんな言葉を残し、トラメは、静かにまぶたを閉ざした。
がっくりと力を失うその身体を、俺は、がむしゃらに揺さぶってしまう。
「馬鹿野郎! 何を言ってやがる! 冗談言ってないで、目を覚ませ! トラメ……」
「むだだ。ぐーろのたましいは、かんぜんにふうじられた」
機械じかけのような女の声が、耳を打つ。
呆然と振り返ると、八雲のかたわらに、ドミニカが立っていた。
その人形みたいな顔を、自分の血で赤く濡らしながら。
九尾の鞭を、その手にたずさえて。
「ぐーろをおいて、され。いまわしきげどうのほうじゅつでうみおとされたげんじゅうは、われらがじょうかし、てんにかえす」
「ふざけるな……ふざけるなよ、このゲス野郎どもッ!」
俺の叫びに、八雲が、ぴくりと肩を震わせた。
その目が、怖いものでも見るように、俺を見る。
「ごめんなさい……ごめんなさい、磯月くん……ラケルタを救うには、こうするしか……」
俺は激しく首を振り、八雲の声が耳に入ることを拒んだ。
駄目だ。何も言うな。俺は、お前を……
お前を、許せない。
「ぐーろをおいて、され」
ビシリッ、と九尾の鞭が振り下ろされる。
俺は、身体をねじってトラメを守った。
肩や背中におもいきり鞭をくらったようだが、ほとんど痛みは感じなかった。
トラメの死とともに、俺も心のどこかが死んでしまったようだった。
「じゃまだてするなら、おまえもてんにかえす」
勝手にしろ。俺は……俺は、もう、戦えない。
俺は、氷のように冷たくなってしまったトラメの身体を、無我夢中で抱きすくめた。
そのとき、その声が、響きわたった。
「やれやれ。とんだ終幕だ。人間とは、いったいどこまで愚かしい存在なのだ?」
聞き覚えがあるような、ないような、不思議ななつかしさを感じさせる、怜悧な女の声だった。
ゆっくりと振り返った俺の視界が、赤い色に染まる。
とほうもなく長い赤色の髪をした女が、俺に背をむけ、ドミニカとの間に立ちふさがる格好で、そこに傲然と出現していたのだった。
「こんな茶番につきあわされて、まったくいい迷惑だ。とっとと行くぞ、イソツキミナトよ」
「何……?」
どうして俺を知っている?
そう言いかけた俺の舌が、口の中で凍りついた。
女が、横目で、俺を見下ろしてきたのだ。
赤い髪に、赤い瞳。
高い鼻梁と、赤い唇。
ぬめるように白い肌を持つ、それは、まぎれもなく、一ヶ月前に討ち倒したはずの、ギルタブルルの冷たい横顔だった。