血戦遊戯⑥
すべては、瞬時の内に終わっていた。
エルバハが、両腕を地面について、跳躍の姿勢を取り。
トラメが、そちらにつかみかかった。
その左腕の鉤爪が、まるで無防備なエルバハのこめかみを引き裂こうとした瞬間。サイの宣言とともに本性を現したアルミラージが、流星のように、一直線に飛来してきた。
さらに、サイまでもが、その手の刀をトラメにむけて振り下ろしていた。
禍々しい、悪魔のように黒い角。
そして、目に見えぬ風の斬撃。
エルバハに奮われようとしていたトラメの左腕が、サイの立っている方向にさしのべられる。
目に見えぬ盾が、目に見えぬ斬撃を防ぎ、落雷のような轟音を響かせる。
そして。
がら空きになったトラメの背中に、アルミラージの角が、突きたてられた。
「……トラメ!」
悪夢のようなスロー・モーション。
トラメの身体は突進の勢いをそのままに、エルバハと衝突してから、地に降り立った。
そのジャージの胸もとから、螺旋状の角の先がのぞき。
トラメの口から、大量の鮮血が噴きこぼれた。
赤い、あまりにも赤い血が。
「赤い血……やはり、さきほどの望みの詠唱はフェイクだったか。なかなか面白い策ではあったが、手順を間違えてはどうしようもないな」
冷静きわまりない声で、サイはそう言った。
トラメの身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
「あのコカトリスが力尽きれば、お前の契約者を守護する者もいなくなる。そうすれば、必ずお前にも隙は生まれると信じていたぞ。……まったく、てこずらせてくれたものだ」
トラメの背中から角を引き抜いたアルミラージが、水色の瞳で、主人を見る。
『契約は果たされた。ごきげんよう』
「ご苦労だったな、ムラサメマル。……さて、人間と違って心臓を刺し貫かれたところで即死はすまい。何かおかしな真似をされる前に、その首を刎ねさせてもらうぞ」
トラメのもとに歩み寄りながら、サイはまたひゅんひゅんと刀を振り回し、魔剣の力を集めていく。
鉄柵を握りしめたまま、俺は言葉も出なかった。
トラメが、倒れふしている。
その小さな身体の下に、おびただしい量の鮮血が池をつくっている。
心臓を、刺し貫かれたのだ。
サイが望み、アルミラージがそれを果たしたのだから、それは間違いない。
トラメが……敗けた?
『段取りを忘れたのか、うつけ者!』
その時、その声が響きわたった。
俺の、頭の中だけに。
愕然と目を見張る俺の足もとで、サイが、ゆっくり妖刀を振りかぶる。
何が何だかも理解できないまま、俺は咄嗟に叫んでいた。
「磯月湊の名において、グーロのトラメ、望みを叶えろ! 八雲美羽を救うために、敵を討ち倒せ!」
「グーロのトラメ、承認す」
トラメの声が、応じた瞬間。
その倒れ伏していた身体がまばゆいばかりの光に包まれ、凄まじい勢いで、サイに躍りかかていた。
「何っ?」
サイの身体が、後方に吹っ飛ぶ。
かえす刀で、トラメはエルバハを蹴り飛ばした。
拳を失ったエルバハの右腕に、さらに大きな亀裂が走り、そこから玉虫色の光がこぼれる。
「まったく、肝を冷やさせおって。何のための段取りだ、うつけ者。たったひとつの役割もまともにこなせぬのか、貴様は?」
変わらぬふてぶてしさでつぶやきながら、トラメはそこに立ちはだかった。
全身が、白い光に包みこまれている。
契約者の……俺の、生命の輝きだ。
その顔や指先の紋様も見ちがえたように輝きを増し、瞳も、黄金色の炎と化している。
口と胸から大量の鮮血をこぼしつつ、トラメは、すさまじいばかりの力と躍動感に満ちあふれていた。
「トラメ……お前、大丈夫なのか?」
鉄柵から身を乗りだし、俺はわめいた。
口もとの血をぬぐいながら、トラメはじろりと俺を見上げやってくる。
「心臓をひとつ失ったのだ。大丈夫なわけがなかろう。ぞんぶんに血も失ってしまったし、早くも腹が空いてきてしまったわ」
「心臓を……ひとつ?」
「グーロは、心臓が二つある。勉強不足だったな、精霊殺しよ?」
「……お前は伝承が少なすぎるんだよ。一撃で仕留めようとした策が、あだとなったな」
コンクリの壁に叩きつけられたサイが、妖刀を杖にして、力なく立ち上がる。その口からも、細い血の糸がしたたりはじめていた。
「動けば、死ぬぞ。どうせこざかしい退魔の護符などを身におびているであろうから、手加減などはしてやらなんだ。その身体では、もはやアルミラージを召喚しても、強い望みは唱えられまい」
「ふん。俺を殺したくなかったのか? どういう目論見かは知らないが、それは虫がよすぎるぞ、グーロ」
心臓を貫かれたというトラメよりも、サイのほうがダメージは深い。それは見るからに明らかだった。
しかし、サイはしわがれた声で宣告の声をあげた。
「サイ・ミフネの名において命ずる。アルミラージのムラサメマルよ、現し世にいでよ」
白い光が炸裂し、三たび暗灰色のマント姿が現れる。
それと同時に、トラメが地面を蹴っていた。
黙念と立ちつくすアルミラージの眼前を通りすぎ、トラメは、サイの顔面を殴りとばす。
後頭部をおもいきり背後の壁に打ちつけられ、今度こそサイは昏倒した。
「……目の前で契約者を襲われながら、貴様は守ろうともしないのか?」
トラメに憮然とにらみつけられ、アルミラージはくすくすと笑う。
笑いながら、アルミラージはフードをはねのけた。
「契約者を傷つけられるのは、僕たちにとって恥であり不名誉……だけど、契約者を失ってしまうのは、それ以上の恥であり不名誉でしょう?」
二階の通路からでは、アルミラージの表情などハッキリとは見てとることができない。
しかし、笑っているはずのその顔は、俺には泣いているように見えてしかたがなかった。
「貴女の攻撃を止めていれば、サイはきっと貴女を滅ぼせという望みを口にしたはず。だけど、この人の今の生命力でそんな大きな望みを口にしてしまったら、まず間違いなく魂が砕け散ってしまったことでしょう」
「……そのようなことは、貴様の知ったことではあるまい? 外敵に害されるのではなく、その身にあまる望みの言葉を唱えて破滅するなら、それは我らの恥にはならない」
「いえ。それさえも貴女の策略だとしたら、それもやっぱり僕の不名誉……ということにしておいてください、グーロ」
そう言って、アルミラージはぺたりとサイのかたわらに座りこんだ。
ぐったりと崩れ落ちた男の頭をそっと抱きかかえるようにして、水色の瞳でトラメを見上げる。
「困ったな。サイが意識を失ってしまったから、僕は隠り世に帰れない。……こんな状況は初めてなので、どうしたらいいかわからないですよ、グーロ」
「知ったことか。せいぜいそやつが死んでしまわぬよう介抱でもしてやれ。いかに貴様の得手が治癒であっても、そやつが動けるようになるまで、数刻はかかろう……」
言いながら、トラメが視線をめぐらせる。
「それだけの猶予があれば、貴様たちを叩きのめしてもまだおつりが来るな。降伏する気がないのならば、かかってくるがいい、魔術師にエルバハよ」
ドミニカとエルバハが、左右からトラメを取り囲もうとしていた。
ドミニカはまだ無傷だが、エルバハは右腕を砕かれている。
いかに深手を負っているとはいえ、白い生命の炎に包まれたトラメの姿は雄々しく、力に満ちあふれており、もはや何者にも遅れを取るようには思えなかった。
(まったく……たいしたやつだよ、トラメ)
地力でも、策略でも、しまいには運の強さにおいても、トラメはこの場にいる何者よりも上をいっていたのだ、きっと。
居合い抜きのような鋭さでアルミラージの力を解放したサイの策略や決断力も、たいしたものだとは思う。狙う場所が心臓でなかったか、あるいはトラメがグーロでなかったなら、俺たちはあれで敗北していたかもしれない。
グーロの心臓が二つある、なんて、そんなこと誰にもわからないことだっただろうから、最後の最後で勝利をもぎとったのは、トラメの強運だったのだ。
しかし、運でも何でもいい。
トラメ、決着をつけてくれ。
「おおいなるうるかぬすよ、のろわしきじゃきょうとにさばきのみてを……」
「古き友ウルカヌスよ、御身の烈しき子らに、いま少しの休息を」
ドミニカの詠唱とともに、九尾の鞭の先端が赤く燃えさかり、トラメの詠唱とともに、それがまた沈静化する。
「あまりむやみに精霊王ウルカヌスの力を借りようとしては、いずれその身を灼かれることになるぞ。かの王は、烈しく、また気まぐれな性分であるゆえ、な」
トラメが、すっと足を踏みだす。
同じ距離だけ下がりながら、ドミニカはまた感情のない声音を響かせた。
「えるばはのみゅー=けふぇうすよ、わがのぞみははたされた」
「……マスター、それは危険です」
幼い子どもの声が答える。
しかし、ドミニカは変わらぬ無感動さで、もう一度言った。
「えるばはのみゅー=けふぇうすよ、わがのぞみははたされた」
今度は答えず、エルバハは無言でトラメに襲いかかる。
エルバハの巨大な左拳を、トラメは逃げもせず、鉤爪が生えた左腕で受け止めた。
白い光がバチバチとはじけ、エルバハの左腕が苦しげに震えるが、トラメは平然とした様子で、ただ突っ立っている。
三割の力しか使えないエルバハと、八割の力が使えるトラメとでは、もはや勝負にもならないようだった。
「……トラメ! 女が逃げるぞ!」
俺は、あわてて大声をあげた。
ドミニカが、背をむけて、建物の奥へと走りはじめたのだ。
「見えすいた策だ。貴様らはまったく恐るるに足らんな」
トラメは騒がず、エルバハの左拳を受け止めたまま、そのみぞおちに容赦のない前蹴りを叩きこんだ。
弾丸のように吹っ飛ばされながら、エルバハがぽつりとつぶやく。
「……エルバハのミュー=ケフェウス、承認す」
それと同時にエルバハの姿が溶けてなくなり、逃げていたはずのドミニカが、振り返り、つぶやいた。
「どみにか・まーしゃる=ほーるのなにおいて、えるばはのみゅー=けふぇうすよ、うつしよに……」
「遅い」
十メートル近くもあった距離を一瞬で詰め、トラメが、ドミニカの咽喉もとをわしづかみにする。
詠唱は途切れ、ドミニカの身体は軽々と宙に吊りあげられた。
やはり護符か何かで守られているのか、トラメの手首から先に青い雷光が駆けめぐったが、トラメはまったく意に介していないようだった。
「事ここにいたっては、もうひとたびエルバハを召喚しなおして、新たなる望みの言葉を唱えなおすしか、貴様らに算段は残されておるまい。……しかし、貴様らこそ手順を違えたな。せめてあのアルミラージの主が動けるうちに、貴様らはそうするべきだったのだ」
トラメの鉤爪がドミニカの咽喉にくいこみ、灰色の修道服が赤く染まった。
しかし、そのガラス玉じみた瞳は無感動のままトラメを見下ろし、その手の鞭が、弱々しくトラメの顔を打つ。
「とりあえず、今日のところはここまでだ。あのエルバハの真の力がどれほどのものか、我とて興味がないわけではないが、べつだんそれを現し世で確かめたいとは思わん」
ぶっきらぼうに言い捨てて、トラメは女の身体を無造作に放り投げた。
頭から壁に激突し、地に落ちたドミニカは、そのままぴくりとも動かなくなる。
「ひどいね、グーロ。ドミニカの怒りを買うと、あとが怖いですよ?」
アルミラージが苦笑混じりに言うのを黙殺し、トラメは、ふわりと跳躍した。
俺のもとに、帰ってくるために。