血戦遊戯⑤
「ミナト……チャンスだヨ」
と、息を飲んでトラメの窮地を見守っていた俺に、ラケルタがほとんど聞こえないぐらいの声でささやきかけてくる。
「……なに?」
「シッ! 気づかれちゃうだロッ! ……全員、ミワのそばから離れた。ミワを助ける、チャンスだ」
「いや、だけど……」
「ウチらが動けば、きっと誰か一人ぐらいはこっちに襲いかかってくる。そしたら、トラメの負担も減るヨ」
ラケルタの左目は、すでに青い火と化していた。
「そんでもって、ミワを助ければ、ウチももっと隠り身の力が使える。そしたら、あんな連中、まとめて八つ裂きサ……とにかくウチは、もうこれ以上、黙ってられないヨ」
黙っていられないのは、俺も同様だ。
だけど、たぶん、トラメはラケルタが動くことを望んではいない。
しかしまた……隙があれば八雲を助けろ、と言ったのもトラメだ。
トラメの裏をかくようで悪いが、俺だって、これ以上トラメが苦戦しているのを眺めているだけ、というのは耐え難い苦痛だった。
「だけど、あいつは大丈夫か……?」
さっきから、木偶の坊と化してしまっているアルミラージの存在が、俺には一番の気がかりだった。
しかし、ラケルタは口もとを歪めて笑う。
「あのウサギ野郎は、まだ何も契約を交わしてないだロ? 隠り身の力が使えないなら、あんなウサギ野郎はウチの敵じゃないサ」
「わかった。だけど、無茶すんなよ? 一番ボロボロなのは、お前なんだからな」
「うん。ミナトを連れて、ミワのとこまで跳ぶヨ? 邪魔するヤツは、ブッ飛ばす」
小声で力強く宣言し、ラケルタは俺の左腕をつかんだ。
ゴスロリ・ドレスに包まれた小さな身体が、青白い、不吉な炎をゆらめかせる。
「行くヨッ!」
世界が、輪郭を失った。
ものすごい風圧が、頬を打つ。
しかし、その感覚は数瞬で失われた。
代わりに訪れたのは、五体がバラバラになるような衝撃と、ラケルタの悲痛なうめき声だった。
「この野郎……邪魔をすんなッ! この土くれめッ!」
どうやら俺たちは、八雲のもとまではたどりつけず、廃工場のど真ん中で叩き落とされてしまったようだった。
苦痛をこらえて身を起こすと、目の前に、小さな人影が立ちはだかっている。
異様に巨大な両腕を持つ、小さな人影が。
燃える溶岩のように熾烈で陰気な目が、路上の石でも見るみたいに俺たちを見下ろしていた。
「うつけ者ども……そちらを助けるゆとりなどはないからな」
不機嫌そうなトラメの声が、さきほどよりは少しだけ近い。
が、巨大な岩石みたいな腕が邪魔をして、その姿を垣間見ることはできなかった。
「誰にもウチの邪魔はさせないッ! 邪魔するヤツは、ブチ殺すッ!」
素早く立ち上がったラケルタの身体が、青白い炎に包まれた。
熱を感じない、それどころか触れたら凍てついてしまいそうな、あやしい炎だ。
呪術的な紋様が、再びその顔と指先に浮かびあがっていく。
と……その凄まじい炎に包まれながら、ラケルタの身体が、さらなる異変に見舞われはじめた。
「おい、ラケルタ、お前……」
紋様の浮かんだラケルタの白い顔や指先の皮膚に、こまかい亀裂が走りはじめている。
まるで自身が石化の術でもかけられてしまったかのように、じわじわと、ラケルタの肉体がこわばり、ひびわれ、崩壊しはじめたのだ。
「ラケルタ……?」
そのとき、その声が響いた。
弱々しい、今にも息絶えてしまいそうな、少女の声。
八雲だ。
両腕を鎖で吊るされた八雲が、はるかな高みから、こちらに顔をむけているようだった。
「ラケルタ、あなた……」
「ミワッ! 今すぐ助けるヨッ!」
ラケルタの顔が、歓喜に輝き、その身を包む生命の炎は、いっそうの勢いを増した。
そして。
ラケルタの肉体もまた、急速に崩壊しはじめた。
「ウスノロッ! どけェッ!」
ラケルタが、小さな右腕を振り上げる。
それに呼応するように、エルバハも腕を振り上げる。
長い爪を生やした小さな少女の指先と、人間の頭よりも巨大な岩石じみた巨人の拳が、真正面から、ぶつかりあった。
ラケルタの、右手首から先が消失し。その小さな身体が、後方に吹っ飛んだ。
そしてまた、巨人の右拳も木っ端微塵に砕け散り。エルバハの身体も後方に吹っ飛んだ。
「ラケルタッ!」
どこが痛いのかもわからないぐらいボロボロの身体をひきずって、俺はラケルタのもとまでにじり寄る。
コンクリの床にひっくり返ったラケルタは、ばねじかけの人形のように跳ね起きて、周囲を見回した。
「はんッ! ……手前なんざには負けないヨッ! この土くれの、ドロ人形めッ!」
威勢よく叫ぶ、その顔の皮膚がポロポロと崩れ落ちていく。
手首から先を失った右腕からは、青白い燐光が鮮血のように噴きこぼれている。
もう、限界だ。
「ラケルタ! あんなヤツは、放っておけッ! 八雲のところに、急ぐんだ!」
ラケルタを止められるのは、八雲しかいない。俺は、エルバハのほうに足を踏みだそうとするラケルタの肩をつかみ、怒鳴った。
力を入れたら、ラケルタの細い肩はそのままシャボン玉みたいにはじけとんでしまいそうだった。
「ん……そうだネ。あんなウスノロ、どうでもいいか」
ぼんやりとつぶやく。その唇もひび割れている。ラケルタは、ひどく眠そうに目を細め、うつろな笑いを浮かべながら、俺の手を取った。
「行くヨ?」
俺はその身体を抱きかかえて階段を駆け上がりたいぐらいだったが、ラケルタに先手を打たれてしまった。
もう力を使うなよ、馬鹿野郎……などと俺が心中で罵っているうちに、俺たちは、八雲の目の前にまで移動を果たしてしまっていた。
「ミワ……」
幼子のような微笑を浮かべ、ラケルタが八雲に取りすがる。
両腕を高々と吊りあげられた状態で冷たい鉄の通路にへたりこんでいた八雲は、信じられないものでも見るような目つきで、ラケルタを見た。
その長い睫毛とアイシャドウで隈取られた瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ラケルタ……どうしてこんな……」
「八雲! ラケルタはもう限界だ! これ以上やばいことになる前に、こいつをとっとと休ませてやれ!」
八雲は、唇を噛んで、嗚咽の声を飲み下した。
ラケルタは、うっとりとした表情で八雲の胸に頬をうずめている。
「……八雲美羽の名において、コカトリスのラケルタに命ずる……ラケルタ、隠り世に帰りなさい」
ラケルタは、眠そうな目で、ぽかんと八雲を見上げやった。
「どうして? やっと会えたのに……それに、あいつらをやっつけないと、トラメが……」
「駄目! 帰って! このままじゃあ、ラケルタが死んじゃう……わたしは、ラケルタを失いたくない……」
マスカラだか何だかが溶けてしまい、八雲は、黒い涙を流している。
ラケルタはしばらく不満そうに八雲を見ていたが、やがて悲しそうな表情を浮かべて、またその胸に頬をうずめた。
「ミワ、泣かないで……ミワの言うことなら、ウチは何でも聞いてあげるから……」
「それじゃあ、今は、隠り世に帰って。お願いだから……八雲美羽の名において、コカトリスのラケルタ……帰って、傷を癒しなさい……」
「コカトリスのラケルタ、了承す……ごめんね、ミナト。トラメにも謝っておいて……」
謝る必要なんてねェよ、馬鹿野郎。
ぐったりと壁にもたれかかる俺の目の前から、ラケルタの姿がかき消えていく。
八雲は、子どものように顔をくしゃくしゃにして、泣いていた。
まるで、数時間前のラケルタのように。
「ごめんなさい……ラケルタ、ごめんなさい……」
お前も、謝る必要なんかない。
お前たちは、何にも悪いことなんてしてないんだからな。
泣き伏す八雲の足もとに、ぽとりと二つのものが落ちた。
ラケルタがかぶっていたヘッドドレスと、全身がカサカサにひび割れた、黒いトカゲだ。
俺はそのあまりに小さくはかない身体をそっとすくいあげて、鎖につながれた八雲の指先に握らせてやった。
「我が古き友にして偉大なる精霊王、炎のウルカヌスよ、汝の忠実な友に、ひとしずくの憐憫を」
ほっと息をつく俺の耳に、トラメの勇ましい声がとびこんでくる。
あわてて鉄柵に身を乗りだし、階下をのぞきこんでみると、トラメの周囲に、真っ赤な炎が噴きあがり……そして、瞬く内に消えていった。
「精霊魔法を使えるのは貴様らだけではない。こんな呪符結界で我を封じられるなどと思っていたなら、残念だったな」
「つくづく多芸な幻獣だな。己の属性である『ノーミーデス』ばかりでなく『ウルカヌス』の術まで習得しているのか。俺にもっと力があれば、お前を召喚したかったよ、グーロ。……などと言ったら、ムラサメマルが気を悪くするか」
サイが、皮肉っぽい声で応じた。
「だけど、ゲームオーバーだ。お前たちは、手順を間違えた。……コカトリスの気配が消えたぞ、ミュー」
視界のすみで、人影が蠢く。
床に転がったままだったエルバハが起きあがり、暗い眼光を、俺たちに差しむけてきた。
まずい。
俺が捕まってしまったら、この闘いは終わってしまうのだ。
「させるか。うつけ者め」
怒りをにじませた声で言い、トラメがエルバハに跳びかかる。
その瞬間、サイの声が、高らかと響いた。
「サイ・ミフネの名において、我が望みをかなえよ! アルミラージのムラサメマル、かのグーロの心臓をつらぬけ!」