嵐の前③
「やあ。遅くなってごめんね、磯月」
それからしばらくして、宇都見が我が家にやってきた。
もともとそういう段取りではあったのだが。その緊迫感もへったくれもないすっとぼけた笑顔を目にすると、はからずも溜息がもれてしまう。
顔を見るなり溜息をつかれる、というのはいったいどういう気分になるものなのだろう。とりあえず宇都見は気を悪くした様子もなく、いっそうふにゃふにゃと笑った。
「あれれ。何だか疲れた顔してるねぇ。昨日の傷が痛むのかい?」
「いや。ちょっと、色々あってな」
まったく間の悪いやつだ。が、まあ宇都見に罪のある話でもないので、俺はいつも通りリビングまで案内してやった。
リビングでは、トラメが指定席のソファにあぐらをかいて、不機嫌きわまりない面相で煮干しをかじっている。「昨日はおつかれさまでしたぁ」と宇都見に挨拶されても、もちろん返事なんてしやしない。
おつかれどころの騒ぎじゃないだろう、と、俺ももう一度溜息をつく。
「あれ? ラケルタさんも戻ってきたってメールで言ってなかったっけ?」
「ああ。……あいつはさっき、泣き疲れて、眠っちまったよ」
「そっか。そりゃあ心配でたまらないよねぇ。ボクも合わせる顔がないなぁ」
少しだけしょげた様子で愛用のナップザックをおろし、トラメのむかいに腰を降ろす。
八雲は、気持ちよく失神していた宇都見のかたわらから、まんまとかっさらわれてしまったのだ。
だけどまあ、宇都見は意識を失っていたわけだし、意識が残っていたところで、あのクソッタレの修道女が相手では手も足も出なかっただろう。それ以外の部分でも、たいした役には立ってはいないが、足をひっぱることもなかったので、こいつが気に病む必要はないと思う。
「……で? 警察のほうは大丈夫だったのかよ?」
俺が尋ねると、宇都見は子どものように「うん」と首をうなずかせる。
「浦島さんとは口裏を合わせる時間もなかったけど、あの人は何か超常的な光景を目の当たりにしたわけでもないから、とりあえず齟齬はなかったと思う。ただまあ、浦島さんの証言だけでも、なかなか現実離れした部分があるから、黒塚さんなんかは頭を抱えてたよ。革鞭を振り回す銀髪のシスターに、日本刀をぶらさげた男が、どんな価値があるかもわからない骨董品の行方を求めて大暴れ、だもんねぇ」
「ああ。新手の宗教団体か何かと疑ってるみたいだったな」
俺だって昨晩は黒塚刑事から直接、事情聴取を受けているのだ。刑事コロンボみたいに渋い顔をした壮年の刑事は、まったく守備範囲外だとばかりに苦虫を何匹も噛み潰していた。
「……でね。気の毒なことに、浦島さんは再入院になっちゃったんだ。この前、ギルタブルルの毒でやられたときに、ずいぶん内臓を傷めたらしくてさ。また胃腸だか十二指腸だかが炎症を起こしちゃったみたい。もちろん生命に別状はないんだけど、しばらくは点滴生活らしいよ」
「本当に、お気の毒としか言い様がないな」
あの人は、ちょっとした気まぐれで父親の遺品をオークションに出品しただけなのだ。それがたまたま本物の魔術道具だった、というだけで、ここまで不幸な目に合う道理はない、と思う。
俺たちがこんな目に合う元凶はあの人だ、という言い方もできるが。逆に言えば、あの人がいなければ、俺や八雲はトラメやラケルタと出会うこともできなかったのだ。
だから、八雲はどんなひどい目にあっても浦島氏を恨んだりはしないだろう、絶対に。
「とりあえず、前回の事件とも無関係だとは考えにくいってことで、かなり本腰入れて捜査してくれてるみたいだよ。それで首尾よく逮捕、とまではいかなくとも、相手の動きをちょっとでも鈍らせてくれたら助かるね?」
それはどうだかな。なにせ相手はきわめてけったいな術を使う魔術師どもなのだ。警察の力なんて、どこまで役に立つのか、わかったものじゃない。
「それでも、入院してる浦島さんやボクの家なんかは、警察がガードしてくれてるからね。後顧の憂いなく戦えるだけでも、まあムダではないんじゃない?」
そう言ってから、宇都見は少しだけ真面目な顔つきになった。
「でも、磯月が、幻獣と契約したのは自分だって宣言してくれたから、たぶんボクの家が襲われることもそうそうないんだろうね。……感謝してるよ。ありがとう、磯月」
「うるせェな。らしくねェこと言うなよ、馬鹿野郎」
「うん。てれくさいだろうから、もう言わない。感謝の気持ちは、行動でしめすことにするよ」
何だよそりゃ。キスでもしてくれんのか? したら殺すぞ、冗談ぬきで。
「うん? してほしいなら、してもいいけど。……なんだかゴキゲンななめだねぇ。とりあえずボクにできることなんてたかが知れてるけどさ、昨日も徹夜であれこれ調べてみたんだよ」
「ほーお。それで何かわかったってのか?」
「うん、まあたいした収穫はなかったけど。とりあえず、相手の素性はおおよそつかめたよ」
「……なに?」
こいつは今、何か面白いことを言わなかったか?
いや、聞きまちがいか。宇都見は持参のペットボトルで咽喉をうるおしてから、実にとぼけた表情で「ぷう」と吐息をついた。
ぷうじゃねェよ、ぷうじゃ。
「今日も暑いね。磯月は真夏になるまでエアコンを使わないタイプだったっけ? トラメさん、長袖のジャージで暑くないんですか?」
「……どんな代物でも、おしなべて暑苦しいわ」
よくこんな不機嫌そうなトラメに声をかけられるなと感心しつつ、俺は自分の疑念を晴らすことにする。
「宇都見。お前、さっき何て言ったんだ? あいつらの素性がどうしたって?」
「うん? ああ、だから、おおよその素性はつかめたんだよ。これを警察に話すべきか、磯月やトラメさんに意見が聞きたくってさ」
「……お前、何をすっとぼけたこと言ってやがる!」
俺は思わず身を乗りだし、テーブルをダンッ、と叩いてしまった。
「そんな重要なことがわかったんだったら、それを真っ先に言え! あいつらはいったい何者なんだ? ……だいたい、どうしてお前にそんなことが突きとめられたんだよっ!」
「ええ? だって別に、それがわかったからって何か有利になるわけでもないし。インターネットで検索すればすぐにわかるぐらいのことしかわかってないんだよ、今のところは」
ネットで検索? そんなところにあいつらの名前や素性が転がってるって言うのか? まったくもって、腑に落ちない。
「おおよそ、って言ったでしょ? 彼らの所属する組織の名前がわかったっていうだけの話だよ。……だいたい、最大のヒントは磯月が教えてくれたんだからね?」
「俺が? 馬鹿言え。俺がナニを言ったっていうんだ?」
「あのおっかない目をした男の人の手首に『S∴S∴』っていうイレズミがあった、って言ってたじゃん。それがもう答えだったんだよ。……あの人たちはね、『黄金の夜明け団』から分派した『暁の剣団』っていう魔術結社のメンバーだったんだよ。正式名称はシャイニング・ソードで、エスエスね。本当はシャイニングに暁って意味はないから、『輝ける剣団』っていったほうが正しいんだろうけど、まあ、意訳なんだろうね」
「名前の由来なんざどうでもいい! 何なんだよ、そのふざけた名前の連中は? どうして俺たちがそんな連中に襲われなきゃいけないんだ?」
「うん。それはあの男の人たちの言ってた内容と、ネットで調べた情報から、推理を組み上げるしかないんだけど……要するに、『暁の剣団』ってのは、『名無き黄昏』を壊滅させるために『黄金の夜明け団』から分派した、いわゆる遊撃部隊みたいな存在らしいんだ。それで、『名無き黄昏』は十九世紀の段階で事実上、崩壊に追いこまれてるんだけど、まだしぶとく残党がアンダーグラウンドで活動してるらしく、そういった連中が過去の栄華を取り戻そうと、かつての魔術道具を血まなこになって収集してるらしいんだ」
「ちょっと待て。『名無き黄昏』ってのは、あの石版を作った連中のことだよな? えーと、たしか、イギリスかどっかの魔術結社だったっけか?」
「そうそう。だけど、『名無き黄昏』ってのは本当に異端の魔術結社だったらしくてね。何が異端なのかはよくわからないけど、とにかくメチャクチャ危険視されてたんだよ。で、おのれを高める魔法学校っていう側面が強かった『黄金の夜明け団』から、戦闘に特化したメンバーが選抜されて『暁の剣団』が生まれたってわけ。で、『黄金の夜明け団』も創立から二十年足らずで崩壊・分裂しちゃったんだけど、その中の最大勢力『銀の星団』の支援を受けながら、『暁の剣団』はいまだに『名無き黄昏』の残党と勢力争いをしてるらしいんだ」
そんな名前を羅列されても、俺にはさっぱりわけがわからない。
「何にしても、そいつは十九世紀の話なんだろ? その馬鹿らしい抗争がいまだに続いてる、ってのか?」
「そうだよ。十九世紀から二十一世紀の今日まで、世紀をまたいだ勢力争いってことだね」
馬鹿げている。本当に馬鹿げている。
「それであいつらは、俺たちがその『名無き黄昏』じゃねェかって疑ってたわけか……しかし、いくら何でもやり口が乱暴すぎねぇか? あの男のほうなんて、まあどうせ違うんだろうけどな、とか言ってやがったんだぜ?」
「でも、可能性があるなら放っておけない、とも言ってたんでしょ? ……それに、もうひとりの女の人のほう、磯月、名前をハッキリと思い出せないかなぁ?」
それは黒塚刑事にも問いつめられたが、「ドミニカ」としか覚えていない。何だかむやみに長い名前だったし、あいつは棒読み口調のイントネーションでいまいち聞きとりづらかったのだ。
「……女のほうは、ドミニカ・マーシャル=ホールだ」
と、トラメがいきなり口をはさんできた。
「敵の名前ぐらい、しっかり頭に留めておけ。闘う際には、相手の名を契約の宣言におりこむ必要もあるのだからな」
「ありがとうございます。想像通りでした。……あのね、磯月、魔術師の名前なんてほとんど公にはされてないんだけど、魔術結社の創立者の名前ぐらいならわかるんだ。『暁の剣団』の創立者は、ボールドウィン・マーシャル=ホールって名前だったんだよ。あの女の人は、だから、初代団長の血をひく、『暁の剣団』でもそこそこの位の人なんじゃないかなぁ」
「……だから、自分の任務に熱心だ、とでも言いたいのか?」
そんなことが、やり口が乱暴な言い訳になるか。しかし、確かにあの男のほうは「仕事だからしかたがない」とか何とか言っていたが、女のほうは狂信者というに相応しい不気味なオーラを発散させまくっていた。俺たちのことを、「邪教徒」だなんていう風にも呼んでいたしな。
「ドミニカ・マーシャル=ホールに、サイ・ミフネ。エルバハのミュー=ケフェウスに、アルミラージのムラサメマルだ。しっかり覚えて忘れるなよ、うつけ者」
ぶっきらぼうに言いながら、トラメがじろりと宇都見をにらむ。
「……それで、きゃつらの所属する魔術結社の名が知れて、それで我らにどういう利があるのだ? 何を長たらしく論じているのか、我にはさっぱり意図がわからん」
「そうなんです。それはただそれだけのことで、特別こちらに有益なことはないんですよ。だから、警察に話してもあんまり意味はないのかなぁって」
「いや、俺らにとっては無意味でも、警察にとってどうかはわからねェだろ。あいつらも警察と事をかまえるのは気が進まないみたいだし、ちょっとした嫌がらせにでもなれば上等なんじゃねェか? 伝えておいて、損はねぇよ」
「うん、そうだね。……だけど、サイ・ミフネにムラサメマル、か。見た目からして、あの人は日本人ぽかったよね。『暁の剣団』って、日本にまでは勢力をのばしてないような感じなんだけど」
「そうは言っても、外国人がムラサメマルなんて名前はつけねェだろ。あのおっさんが振り回してたのは、日本刀だったしな。……あの石版が日本に存在してるってことは、それを追っかけてる連中がもともと日本にいても、まあおかしくはないんじゃねェか?」
「それもそうか。まあいいや。それじゃあさっそく黒塚さんに……」
宇都見が、そう言いかけたとき。
トラメが、いきなりソファから立ち上がった。
黄色い目が、爛々と燃えている。
「隠り世の住人の気配だ」
それと同時に、ものすごい破壊音が響いてきた。
ラケルタが眠っているはずの、俺の寝室のあたりから。
俺たちは、脱兎の勢いでリビングを飛びだした。