大喰らいグーロ①
「……ここが貴様の根城か」
五階建てのマンションを見上げながら、バケモノ女が何やら感心したような声をあげる。俺の自転車の荷台の上で、だ。
「腹が減りすぎて歩く気にもなれん」という姫君の意向にそって、俺が牛車の牛役をおおせつかったのだ。
警察などに見つかったら最悪なので、二人乗りをする勇気ももてず、森林公園からここまでの数キロメートルを、俺はこうして四十五分もかけてモーモーと歩き続ける羽目になってしまった。
「意外だな。それなりに立派な棲家ではないか、木っ端魔術師のわりには、だが」
「ああ? ……言っとくけど、このマンション全部が俺の持ち物なわけじゃねェぞ? 俺の家はここの一部屋で、ついでに言うなら、その持ち主は俺の親だ」
「ふむ。それならば納得がいく。青二才の木っ端魔術師には分相応だ」
俺はいつまで、こいつをひっぱたかずにいられるだろうか?
その怖ろしい本性は忘れたくても忘れられないが、限界はそんなに遠くない気がする。
「それじゃあ、今日はもう遅いから、ボクは帰るね。申し訳ないけど、あとはよろしく!」
同じように自転車を引いて歩いていた宇都見は、マンションの前で足を止め、ちっとも申し訳なさそうに見えない笑顔でそう言った。
背中のナップザックから、赤いバットの柄が飛びだしているのがお笑い種だ。
「……宇都見。お前は本気で、このバケモノ女を俺ひとりに押しつけるつもりなのか?」
心をこめてにらみつけてやると、宇都見は実に屈託なく「うん!」と首をうなずかせる。
「ボクが居座っても、何の役にも立てないでしょ? だったらボクは大急ぎで帰って、何か解決策がないか調べてみるよ! 期待しないで待っててね!」
「期待させろよ! 俺の寿命を何だと思ってやがる!」
「ああ、うん、期待に応えたいところではあるんだけど、あの石版のルーツがどういうものなのかなんて、落札する前からさんざん調べたおしてるからさぁ。今さら新事実なんて出てこないと思うんだよねぇ」
「…………」
「でもまあ他にも考えがないわけじゃないし、とりあえず今晩のところはよろしく頼むよ! 何かわかったら、すぐに携帯に連絡いれるから!」
そう言って、宇都見は最後に、さも名残惜しそうに化け物プリンセスを振り返った。
「グーロさんも、また明日! 今日という日のことを、ボクは一生忘れません! それじゃあ、おやすみなさい!」
「……あれは、おかしな人間だな」
遠ざかっていく宇都見の背中を見やりながら、たいして関心もなさそうに姫君はそうおっしゃる。
「確かにあれは、魔術師などではなく……どちらかというと、科学者の目だ。それなりに才気はありそうだが、まあ、まだタマゴのカラを内側からつついているヒナドリ未満の存在だな」
「バケモノのくせに、『科学』なんて言葉を知ってるのかよ」
門をくぐり、駐輪場を目指しながら俺が答えると、バケモノ女は荷台の上で「ふん」と鼻を鳴らした。
「我が以前に召喚されてから、すでに幾星霜もの時が経ってはいるが、あの頃からすでに多くの人間どもは魔術をないがしろにして、科学という新しい玩具に夢中になりはじめていた。ずいぶんとこの世界も不細工なかたちに作りかえられてしまったものだ。……とりわけ、あの、ジドウシャ、といったか? あれは不細工だな。力強さはなかなかのものだが、まったく制御しきれていないではないか。貴様らのようにか弱き存在があのようなものを使役していては、生命がいくつあっても足りまい」
「ご明察。世界では、毎日何人もの人間が交通事故で亡くなってるよ」
「愚かだな。……人間は、見るたびに愚かになっている気がしてならない。だいたいあいつの吐き出す煙は、くさいし、不愉快すぎる」
なんだか広場に出現したときよりも、こいつはいささかテンションが上がってきているような気がしてならなかった。
この四十五分間で目の当たりにした世界の変容っぷりに、良くも悪くも感銘を受けているのだろうか。
こんなバケモノ女にそんな情緒があるとは思いにくいのだが。ふてぶてしかったり、憤慨したり、人を小馬鹿にしたり、というロクでもないラインナップながら、わりと表情も多彩なのだ。
「よし。ここからは歩け。……まさか、部屋までおんぶしろなんて言わねェよな?」
「……早く何か喰わせろ」
ちょっと渋々の様子で荷台から降りたバケモノ女とともに、マンションの入り口を目指す。誰ともすれちがいませんように、と心中で合掌しながらだ、もちろん。
オートロックのガラス扉。エントランスの自動照明。そして最後はエレベーター。
歩を進めるたびに、バケモノ女はいちいち「ほう」「うむ?」「おお!」と声をあげてきて、えらくやかましかった。
「何だよ。科学文明の利器にちょっとは感心したか?」
「……まあ人間ていどでも頭をひねれば、色々こざかしい真似が出来るようになるものだな」
へらず口を叩きながら、五階に到着したエレベーターがしずしずと口を開けると、「んむ」と驚きの声を飲みこむ。
俺は、苦笑するしかなかった。
可愛らしいなんて思ってやらんぞ、絶対に。
そうしてようやくルーム五〇五までたどりつき、ドアを開けると、懐かしの我が家が俺たちを出迎えてくれた。
「……ちょっと待て! あがる前に、足をふけ!」
バケモノ女を玄関に立たせたまま、俺は急いでバスルームに駆けこみ、濡らしてから固くしぼったタオルを持ってきて、手渡してやる。
「これは、何のまじないだ?」
「まじないでも何でもない。汚い足で家を汚すな、ってことだよ」
「いちいち面倒なことを言う青二才だ……」
清めの済んだバケモノ女を引き連れて、ともにリビングまで足を進める。
時刻は、すでに午後の十一時半を回っていた。
身も心も疲弊しきっていた俺はソファに崩れ落ち、それを見たバケモノ女は不平の声をあげる。
「おい、喰い物はどうした? 休んでいるひまなどあるか、木っ端」
「こっぱこっぱ、うるせェよ。俺は、磯月湊だ」
「イソツキミナト? おかしな名前だな。発音しにくい」
「いちいちイチャモンつけんな、このバケモノ女!」
「バケモノオンナとは何だ? 我はそのような名前ではない」
俺は目を閉じ、さらにのびのびと寝転がる。いっそのこと、このまま何もかも放りだして眠ってしまいたかった。
「はいはい。幻獣様とでもお呼びすりゃあいいんですかね? 俺はめいっぱい疲れてるんだから、少しぐらいは休ませてくださいよ、幻獣様」
「……それもまた、人間が勝手につけた名前だ。我が名は、最初に貴様が喚んだであろう。もう忘れたのか、木っ端」
「ああ、グーロだっけか? お前こそずいぶんおかしな名前……」
言いかけて、俺はソファの上に飛びおきた。
「ば、馬鹿野郎! 何でまた、お前は素っ裸になってやがるんだ?」
「うむ? ……この姿で外界を歩くのが、貴様たちの禁則なのだろう?」
邪魔くさそうに脱ぎ捨てたパーカーを白い足で踏みつけながら、バケモノ女は傲然と腕を組む。
「もうここは外界ではないのだから、何もとがめられる筋合いはない。いいから喰うものをよこせ、木っ端」
「このクソ馬鹿のバケモノ女……いいから、とっとと服を着ろ!」
さっきは、まだしも月明かりだった。しかし、この場には煌々と蛍光灯の光が灯っており――とても正視できたものではない。
「……それが貴様の望みならば、然るべき作法に則って……」
「ふざけんな! こんなことで寿命を縮められてたまるか!」
そして、服を着たとたんに役目を果たして元いた世界にドロン、では、寿命が縮むだけで何ひとつ得るものはない。
「ならば断る。そんな窮屈な格好をしていても、我には何の利もないのだからな。正式な望みの言葉でないかぎり、貴様なぞの命令を聞く気はないぞ、青二才の木っ端魔術師よ」
すがすがしげにさえ聞こえる声で、バケモノ女はあっさりとそう言った。
俺はそいつの姿を見ないように気をつけながら、両手で頭を抱えこむ。
「……だったら、俺はもう寝る。勝手に餓死でも何でもしろ」
「なに?」
「服を着れば、喰うものをやる! 服を着ないなら、俺は寝る! 後はどうぞご勝手に、だ!」
「何と無法な……こんな乱暴な魔術師は見たことがない」
「だから、魔術師じゃねェって言ってんだろ」
「ひどすぎる。どうして十年やそこらしか生きていない青二才に、我がこのような仕打ちを……」
ぶつぶつと言いながら、白い手でパーカーを拾いあげる姿が視界の片隅に見えて、俺はほっと安堵の息をつく。
「……木っ端。これはどうやって身につけるのだったかな?」
俺は再びソファに崩れ落ち、再びおのれの不幸な境遇を嘆いた。