嵐の前②
「夜が明けるまで、あてもないままあちらこちらを飛び回っていたというのか。まったく、愚かしいかぎりだな」
ブランチとしてはヘヴィすぎるトリ肉のカタマリを咀嚼しながら、トラメはぶっきらぼうにそう評した。
ダイニングのテーブルだ。ラケルタは悄然と座りこみ、うつむいたまま、顔をあげようともしない。
「そのように無為な行動で力を浪費して何になる? あちらはいずれ自分たちから出むいてくると言っていたのだから、それまでは十分に力をたくわえておくのが一番の得策であろう。貴様は本当にあの小娘を助ける気があるのか、コカトリスよ?」
「当たり前だろ。どう考えたって、八雲の身を一番心配してるのはこのラケルタなんだからよ」
トラメの給仕にいそしみながら、無言のラケルタに代わって俺が口をはさんでやる。
「そんな損得勘定で何もかもが割りきれれば世話はねェや。頭ではわかってても、じっとしてられないぐらい心配だったんだろ、こいつは」
「それで有事に力を発揮できなければ本末転倒だ。とてもほめられた行為だとは思えん」
まったく情けも容赦もないコメントを述べつつ、トラメは新たな獲物にフォークを突き刺す。
「冷静であれ。こざかしい魔術師どもを相手どるのに心を乱していては足もとをすくわれるぞ。ただでさえ貴様は契約者の力を得られぬという枷を負っているのだからな」
「だけど、昨日はあのエルバハとかいうわけのわからん幻獣と互角以上にやりあってたじゃねェか。次にやっても負けねェよ、なぁ、ラケルタ?」
ラケルタは、俺の言葉にも答えない。
トラメは、険のある目で俺をにらんだ。
「昨晩のきゃつらは、本来の力を半分も使ってはおらん。五分の条件ならば怖れるような相手でもないが、契約者の力が得られぬならば……おのれの生命の火を糧とするしかない。あの小娘を救いだすことがかなったとしても、おのれ自身が力つきてしまっては意味があるまい、コカトリスよ?」
「……」
「このうつけ者が素性を明かしてしまったため、あちらはいつでも好きなときに仕掛けてくることが可能なのだ。無駄な力は使わずに、せいぜい牙と爪をみがいておれ。……ミナト、貴様、何を手にしている?」
と、いきなり俺のほうを振り返って、黄色い目を光らせる。めざといやつだ。俺は苦笑し、右手に持っていたパスタの包みを振ってみせた。
「こいつは俺の取り分だよ。他の食糧は全部お前の胃袋に消えちまうんだから、俺がこいつを食うしかないだろ。……それにしても、お前はそんなにパスタが嫌いなのかよ?」
「嫌いだなどとは言っておらん。ただ、そいつは妙にずんべんだらりとしていて食いにくいし、効率よく力に還元されぬような気がしてならんのだ。にも関わらず、ただ手軽に調理できるというだけの理由でそんなものを我に供しようという貴様の性根が……」
「わかったわかった。二度とお前にパスタは出さないよ」
わかしていたお湯にパスタを投入しながら、ふっと俺はラケルタを振り返る。
「そういえば、ラケルタは昨日から何も食ってないんだろ? 一日一回ちょっとしたおやつを食べれば十分だって聞いたことがあるような気がするけど、お前は何を食べるんだ?」
本物のフランス人形と化してしまったかのように黙りこんでいたラケルタは、暗い目つきでちろりと俺を見る。
「……タマゴ、ある?」
「ん。ああ、あるぜ。奇跡的に、三つも残ってる」
「ひとつでいい」
「ほんとに少食だな。……で、調理方法は?」
まさかトカゲの化身だからといって、生のままカラごとパクリ、じゃなかろうな?
ラケルタは、迷うように、少しだけ首をかしげた。
「……すくらんぶる・えっぐ」
いかにも覚えたて、といった具合のたどたどしい発音だ。
きっと八雲に教わった言葉なのだろう。俺はガラにもなく妙にしんみりとした気持ちになってしまいながら、小皿に落としたタマゴを菜箸で解いた。
「味付けは? って言っても、バターと塩コショウぐらいしかないけどな」
「……よくわかんない」
スクランブル・エッグなんて、俺のほうこそよくわからん。要するに炒りタマゴでいいんだよなと思いながら、俺は少量の牛乳と混ぜたタマゴをバターで炒め、塩コショウで適当に味付けしてやった。
簡単なもんだ。パスタが茹であがる前に完成してしまった。
小皿に移して、スプーンとともに持っていってやると、ラケルタはしょんぼりとした子どもみたいな表情のまま、いかにも気の進まぬ様子でちまちまとそいつをついばみはじめる。
「……何だそれは? ずいぶん鮮やかな色彩だな」
と、何かをあやしむように鼻をひくつかせながら、トラメがラケルタのほうに首をのばす。その無防備な頭を、俺は横合いから優しくひっぱたいてやった。
「ラケルタのぶんまで食おうとすんな。鬼か、お前は」
「しかし、今までこのような料理を供されたことはない。いかなる食材が我にとってもっとも効率よく回復する手立てとなるかわからぬのだから、それは試してみぬことには……」
「ああもうわかったよ! とにかくそいつはラケルタのぶんだから手を出すな! ったく、どこまで食い意地が張ってやがるんだ……」
パスタの具合を気にしつつ、俺は大急ぎで新しいスクランブル・エッグを作ってやる。残りの二個を両方使って、量もラケルタの二倍だ。これで文句はなかろう、大喰らいめ。
「……悪くはないな。妙な混ぜ物も少ないし。しかしまあ、こんな量では腹の足しにもならんが」
「いちいちやかましいやつだな。美味かったんなら美味かったと言え、この偏屈者」
あやうくアルデンテを逃しそうになったパスタを皿にぶちまけ、既製品のソースをからめる。
トラメのおかわりの合間をぬってメシを食うのは大変なのだ、本当に。
ちなみにトラメの前に並んでいるのは、トリのモモ肉の照り焼きと、毎度おなじみネコマンマだ。品数が少ないので物足りないのかもしれないが、これ以外の食材はすべて昨晩食いつくされてしまったのだから、しかたがない。ディナー前には、また買い出しにいかなくてはな……ま、その前に昨晩の連中が再び襲いかかってこなければ、だが。
確かに俺は、宇都見の存在を連中のターゲットから外すために、昨晩、名乗りをあげてしまった。これでむこうは、いつでも好きなときに詠唱ひとつで幻獣をさしむけることができるのだ。
あちらは新しい結界とやらの中に閉じこもって居場所も判然としないのだから、これは大きなハンデなのだろう。
しかし、そんなことを気に病んでもしかたがない。どんな危機的状況でも眠ければ眠るしかないし、腹が減ればメシを食うしかない。いつ襲いかかってくるかもわからないなら、なおさらきちんと休息を取り、万事に備えるしかないだろう。
そういったわけで、俺は半分がた開きなおった体で、トラメやラケルタと食卓を囲んでいるのだった。
「どうだ、ラケルタ? ちっとは元気になったかよ?」
和風のタラコパスタをすすりつつ俺が尋ねると、まだ半分も食べ終わっていないラケルタは、暗鬱な表情のまま首を横に振る。
「ならない。……ミワが作ってくれたほうが美味しい」
ああそうかい。幻獣ふたりの面倒なんて見きれないな。早いところ八雲のやつを救出してやらないと、俺のほうこそ心労で倒れちまうかもしれないぞ、チクショウめ。
「……そういえばお前、ご自慢のドレスがボロボロじゃねぇか。そんな立派なお洋服なんて我が家にはありゃしねェけど、トラメの洗い替えでも貸してやろうか?」
とはいえ、それもやっぱりジャージなんだけどな。ラケルタがそんなカジュアルな衣服を着た姿は想像もできないし、案の定、ラケルタも首を振って拒絶の意を表してきた。
「必要ないヨ……そっか。気づかなかった」
と、ラケルタは静かにまぶたを閉ざし、何やら日本語とは思えぬ不思議な言葉を口の中でごにょごにょと唱えはじめた。
たちまち、その小さな姿は淡いぼんやりとした青白い光に包みこまれ……
その光が消えたとき、あちこち破れたりほつれたりしていたゴスロリ調のドレスは、新品みたいにピカピカになっていた。
「……無駄な力は使うなと言うておるだろうが」
好物のネコマンマをかきこみながら、トラメが憮然とラケルタを見る。
「うるさいな」とラケルタは反抗的に唇をとがらせた。
「コレは、ウチが魔力で精製したドレスなんダ。ミワがくれたドレスはギルタブルルとやりあったときに塵になっちゃったから、自分で作ったの。現し世の糸や針じゃ治せないんだヨ」
「そのようなことを取り沙汰しているのではない。そんなものの補修に無駄な力を使うなと言うておるのだ。平時ならまだしも、今は魔力の一滴でも貴重な時であろうが」
「うるさいってば。綺麗な格好に身を包んでいたほうが、ウチは力が出せるんだからッ! アンタにとっての食事ぐらい、ウチにとっては大事なことなんだヨッ!」
「こんなときにケンカすんな」と俺はウンザリしながらたしなめる。
「しかし、魔法で服なんて作れるんだな。……そういえば、昨日の連中も最初からマントとか着てたもんな。トラメ、お前だって本当はその気になれば、素っ裸じゃなくああいう格好で出現できるんじゃないのか?」
素知らぬ顔をするトラメに代わって、ラケルタが呆れたような声をあげる。
「トラメ、アンタ、現し世に出てくるとき、いっつも素っ裸なの? 生まれたてじゃあるまいし、不精もたいがいにしておきなヨ」
「……そんなもののために魔力を割いたら、よけいに腹が減る」
俺は小さく溜息をついてから、ようやくいつもの調子を取り戻しつつあるラケルタのほうに目線を転じた。
「それにしても、見事な衣装だな。前に着てたドレスよりゴージャスなんじゃねぇか?」
「ん。隠り身に戻るたんびに塵になっちゃうんじゃもったいないから、自分で精製しただけだヨ。これならいくらでも自分の好きなデザインで作れるからネ」
つぶやきながら、ラケルタはその小さな頭に乗せていたフリルのヘッドドレスを、うやうやしい手つきでそっと取り外した。
「だけど、それじゃあ何だかさびしいからって、コレはミワが作ってくれたの。ミワなんてすごくぶきっちょのくせに、一生懸命、何度も指に針を刺しながら……」
確かにそれと同じものを、八雲のやつは頭に乗せていた。
ラケルタは、その手のヘッドドレスを見つめながら、今にも泣きだしそうな顔で、ぐっと唇を噛みしめる。
俺は、またしんみりとしてしまった。
「早くあいつを助けてやらなきゃな。……って、お前はナニやってんだよ!」
俺はあわててパスタの皿を持ち上げる。
こっそりとフォークをのばしていたトラメは、舌打ち寸前の顔つきで手をひっこめた。
「お前の取り分はそっちだろ! だいたい、パスタは好きじゃねェって今さっき文句を言ってたばかりだろうが!」
「何を言う。我は、食いにくいし、効率よく力に還元されぬ、と言うただけだ。好かぬなどとは一言も言うておらん」
やっぱりこいつには仲間を思いやる情緒など皆無なのか、と俺はげんなりしてしまう。
「勝手なことばかり言うな。何日か前、夜食にパスタを出したら、あれほど嫌そうな顔をしてただろうが。これは何の嫌がらせだ?とか何とか言ってよ。まさか、忘れたとは言わさねェぞ?」
「……しかし、目の前でそのように美味そうな顔で食われたら、我の食指が動いても不思議はあるまい」
「十分、不思議だよ! まったく、大喰らいなのはいつものことだけど、ちょっと昨晩から常軌を逸してるぜ? いくらたいそうなケガをしたからって……え?」
俺の文句は、ラケルタが突然あげた「あれぇ?」という大声にかき消されてしまった。
今度は何だ?と振り返ると、左の瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、ラケルタが、びっくりしたように俺たちを見つめている。
「ど、どうしたんだよ、ラケルタ?」
まさか八雲の身に何かあって、それを感知したのだろうかと、俺は内心で焦りまくった。
ラケルタは大粒の涙をこぼしながら、ぶんぶんと首を振る。
「なみだ……」
「ああ、涙だな。いったい何を泣いてるんだよ?」
いや、ただ泣きだしただけなら不思議でもないが、どうしてラケルタ自身がそんな風にびっくりした顔をしているのか、それが俺には謎だった。
「だって、ウチ……」
俺を見つめるその顔が、みるみる間に泣き顔へと移り変わっていく。
そうして、ラケルタは突如として大泣きしはじめた。
八雲からもらったというヘッドドレスを握りしめ。
止まらぬ涙で頬を濡らしながら。
まるで、小さな幼子のように。
「おいおい、いったい何だってんだ?」
俺はおおいに慌てたが、ラケルタが突然泣きだした理由すらわからないので、ただアタフタと視線をさまよわせることしかできなかった。
トラメは、むっつりと黙りこんでしまっている。
いや……トラメ、お前も何だ、その目つきは?
「……隠り世の住人に、涙などというものは存在しない」
「なに?」
「いつだったかも説明したであろう。この身の内には赤い血が流れてはいるが、人間のように涙を流したり汗をかいたりすることはない、と。もう忘れたのか、うつけ者め」
ああ、だから風呂に入る必要もないのだと強情に言い張っていたな、そういえば。
とにかく幻獣ってやつは新陳代謝という機能がそなわっていないらしいのだ。どういう理屈なのかはけっきょく理解できなかったが。そういえばトラメは、トイレにもいかない。
「だけどラケルタは泣いてるぜ? 血も涙もあったんだな。良かったじゃねェか」
「何が良いものか。無いものは無いのだ。存在するはずのないものが存在する、どうしてそれが吉兆などと言いきれる?」
「……だけど別に、凶兆でもねぇだろう?」
トラメは、目を半眼にして、ものすごく冷ややかに俺を見た。
その表情に、俺もようやく危機感をあおられる。トラメが目を細めるのは、自分の内にわきでる強い感情を隠したいときなのだ。この二週間の同居生活で、俺はそれを確信している。
「このコカトリスは、昨晩、おのれの生命の火を糧として、隠り身の力を発露させた。それは本来、隠り世において禁忌とされる行為なのだ。得られる力はわずかであるにも関わらず、失われる代償はあまりにも大きい。だから我々は、契約者との契約を行使する場合を除き、現し世において隠り身の力を解放することを、強く禁じられている」
「……それで? その禁忌とやらを破ったら、何か罰則でもあるってのかよ?」
「たわけたことをぬかすな、人間ではあるまいし。……だいたい、失われるのは自身の生命なのだから、それ以上の罰など必要あるまい?」
俺の胸が、不安にざわつく。
ラケルタは、まだ火がついたように大泣きしている。
「はっきり言ってくれよ、トラメ。お前は、何を心配してるんだ?」
「心配などしておらん。ただ、隠り世の住人にはありえぬ現象が起きているというのならば、それは、隠り世の住人としての力を失いつつある証左なのではないかと思っただけだ。いずれにせよ、昨晩のような無茶を続ければ、このコカトリスの生命もそう長くはあるまいな」
俺は、昨晩のラケルタの姿を思い出していた。
燐光のような、青白い光……確かにあれは、とても不吉で、ラケルタ自身を灼く断罪の炎のように見えてしまった。
文字通り、ラケルタは自分の生命を削って闘っていた、ということか。
「ミワを死なすぐらいだったら、ウチは死んだってかまわないッ!」
突然、ラケルタが馬鹿でかい声でわめいた。
「だけど、その前に、絶対にミワを助けてみせるッ! ……ミワをひどい目にあわせるヤツがいたら、ウチが、八つ裂きにしてやるんダッ!」
それはまるで、血を吐くような叫び声だった。