アルミラージとエルバハ④
いぶかしそうに、男は眉をひそめやる。
「警察? ……ひょっとして、お前たちが呼んだのか? 面白いことをする、な」
「ここは日本だ。だったら日本の法律に従いやがれ、この犯罪者ども」
「ふむ。これは完全に意表をつかれた。なかなかやるな。表世界の住人を相手どるというのは、こういうことか。勉強になったぞ、宇都見章太」
心から感心したように言い、男はトラメの足の下でもがくアルミラージのほうに視線を差しむけた。
「ムラサメマル、小手調べは終了だ。すみやかに俺の望みを果たせ」
一角ウサギの水色の瞳がきょとんと自分の主人を見上げ、それから、何やらいたずらっぽい光を浮かべた。
その小さな口が、かぷりとトラメの足に噛みつく。
トラメは険悪な目でその小さな姿を見下ろし、アルミラージは、笑いをふくんだ声で、言った。
『契約は果たされた! ごきげんよう!』
アルミラージの小さな身体が、トラメに踏みつけにされたまま、さらさらと輪郭を失っていく。
「適当に痛めつけろ」という漠然とした望みの言葉が、これで果たされたというわけか。
まったく、ふざけている。
「アンタは逃さないヨッ!」
それを見ていたラケルタが、金属的な声で叫び、倒れこんだままのエルバハへと跳びかかった。
青白い燐光を流星の尾のように引きながら、エルバハの上にのしかかる。
と……それと同時に、巨人の腕が、しゅるしゅると風船のようにしぼみはじめた。
ラケルタの小さな指先が、マントのフードごとエルバハの首をしめ。
子どもサイズに縮小された浅黒い手が、ラケルタの頬をぴしゃりと叩く。
『契約は果たされた。マスターよ、さらなる召喚を隠り世にてお待ちしております』
子どもの声で堅苦しい言葉を残し、エルバハの姿もまた消失していく。
ラケルタは、悪鬼の形相で、じたんだを踏んだ。
「卑怯者ッ! 正々堂々、戦いやがれッ! みんな、ウチが八つ裂きにしてやるッ!」
「その前に、お前はみずから生命の火を燃やし尽くしてしまいそうだな。こちらとしては、手間がはぶけて助かるが」
怒れるラケルタを横目に見ながら、男は日本刀の柄で頭をかいた。
そういえば、修道服のイカレ女は、さきほどからまったく姿が見えない。
「俺たちの任務は始まったばかりなんだ。警察なんぞと関わってしまったら、この先やりにくくてかなわん。今日のところは、痛みわけということにしておこう」
『……そんな貴様らの都合がまかり通るとでも思っておるのか?』
トラメがじわりと男に近づき、ラケルタも、最後の獲物に青い眼光をむける。
「応じたほうが得だぞ、グーロ。お前たちだって、多少なりとも傷を癒す時間を得ることができるのだからな。……応じてくれぬならば、もう一度ムラサメマルを召喚し、今度は、お前の滅びを望む」
狼のような目が、恐れげもなくトラメを見返す。
「地力はお前のほうが上回っているようだが、その傷では、お前の契約者がすべての生命力をさしださないかぎり、ムラサメマルを退けることはできないだろう。……しかしまた、俺もこんなところで寿命を使い果たすのは、本意ではない」
言い捨てざまに、男がぐるりと身をひるがえした。
逃げるのか、と思いきや、男は背後のラケルタへと斬りかかっていた。
ラケルタは、むしろ喜び勇んで跳躍し、男の頭上に右腕を振り降ろす。
長い爪の生えたラケルタの指先と、男の奮った革鞘の日本刀が、宙に青白い火花を散らす。
そのまま男はごろごろと地面を前転していき。
立ち上がったとき、男の身体はトラメとラケルタの包囲網から首尾よく脱出を果たしていた。
「帰るぞ、ムラサメマル」
男が、虚空に手をのばす。
すると、その指先に、どこからともなく出現した白い骨の首飾りがじゃらりとからみついた。
「さらばだ。また早々に姿を現してやるから、勝負はそのときまで待っていろ」
「待て! ひとつだけ、いいことを教えておいてやる!」
俺もこれ以上、警察の接近を気にしながら暴れるつもりになどはなれなかったが、どうしても、伝えておかねばならないことがある。
早くも雑木林の陰に半身を隠しながら、けげんそうに男が俺を見た。
「俺は、宇都見章太じゃねぇ。磯月湊だ。あの石版を落札したのは宇都見の馬鹿だが、契約者になったのは俺なんだ。挨拶に来るなら、俺のところに来い!」
「……そうなのか。お前、友達思いだな」
暗がりの中で、男は低く笑い声をたてる。
「それじゃあ俺からも塩を送ってやる。俺たちはまた結界を張ってその中にこもるから、幻獣を使って居所を探ろう、などとは考えないことだ。寿命の無駄づかいになるからな。……それでは」
「待ちやがれッ……!」
ラケルタは叫んだが、男を追おうとはしなかった。
青白い燐光が、急速に輝きを弱めていっている。ラケルタも、もう限界なのだろう。俺やトラメだって、もう限界だ。
今回の相手は……タチが悪すぎる。
これなら、ギルタブルルのほうが、マシだ。
「……これだから、魔術師という連中は厄介だ」
あれ、と俺は背後を振り返った。
頭の中に響いていたトラメの声が、肉声に戻りつつある。
「おい、ちょっと待て、お前……」
俺の制止する声など聞かばこそ、トラメの巨体が、さきほどの巨人の腕と同じように、しゅるしゅると小さくなりはじめていた。
金褐色の毛皮の代わりに、金褐色の長い髪が、ふわりと闇夜にひるがえる。
「トラメ! 部屋の外で素っ裸になるのは、人間世界の禁則……」
「くだらぬことを言っている場合か」
隠り身から現し身へと変貌を果たしたトラメが、黄金色の目だけはそのままに、ずかずかと俺に接近してくる。
青白い月明かりしかない暗がりだが、白い裸身が、目に痛い。
「まったく、貴様というやつは……」
怒り心頭、といった口調でうなり、トラメが、俺の胸ぐらをひっつかむ。
そして……
「おわっ! 馬鹿野郎、何しやがる?」
「騒ぐな。絞め落とすぞ、このうつけ者が」
ものすごい至近距離から、トラメの怒った声が響く。
俺につかみかかってきたトラメは、いきなり俺の右頬の傷口をぺろぺろとなめはじめやがったのだ。
これはたまらん。めちゃくちゃ痛いし、めちゃくちゃくすぐったい。
「やめろ! 本当にやめろって! マジで、あやまるから!」
「やかましい」
こんなに戦意喪失させられたのは初めてかもしれない。これなら、椅子に縛られて鞭打たれたほうが、まだ耐えられる。俺はトラメの細っこい肩を両腕でつかんだが、まったく力をいれることができず、よって、トラメのもたらす最大級の拷問から逃れることもかなわなかった。
「あのさァ、アンタたち……イチャつくのは、ミワを助けてからにしてくれない? アイツらは逃げちまったけど、ウチらがこの中に入れないってことに変わりはないんだから」
疲れ果てたような声で言い、ラケルタがぺたりと地面にしゃがみこむ。
そうだ。そろそろ警察どもが浦島さんや八雲たちを保護しているころだろう。宇都見のやつも、生きているのやら死んでいるのやら。死んでいるのなら、骨ぐらいは拾ってやらねばならない。だから、離してくれ、トラメ、本当に、後で何でも食わせてやるから!
「あ、あのな、お前たち! 俺らは警察に事情を説明しなきゃならないから、少しここで待っててくれ。お前たちは、警察の連中の目にふれさせるわけにはいかないんだ!」
何とかトラメの気をそらそうと、俺は叫ぶ。
トラメは、ようやく俺の頬から舌を離し、険悪きわまりない目で、俺を見た。
「我に、待てと言うのか? 死ぬほど腹の減っている、我に?」
「さ、さっき山ほどハンバーガーを食っただろ?」
「あんなていどでおさまるものか。隠り身に戻ると、我は尋常でなく腹が減るのだ」
「だったら、いっぺん隠り世に帰るか?」
「……我に、自分で食糧を調達せよ、と言う気か」
トラメは半眼で俺をにらみ、ラケルタが投げやりな口調で言葉をはさんでくる。
「ミナト、あんまり気の毒なこと言わないでヨ。そんなカラダで隠り世に帰されても、一歩も動けず餓死しちゃうんじゃない? ギルタブルルやらヒュドラーやらの巣でも近くにあったら、逃げきれずに骨までしゃぶられちゃうヨ?」
俺は驚き、トラメの姿を見なおした。
見てはいかん、と目をそらしていたので気づかなかったが。トラメの脇腹には赤黒い穴が空いていて、右腕は、無残に灼けただれてしまっていたのだ。
俺は、「くそっ!」と地面に拳を叩きこむ。
「お前のほうがよっぽど重傷じゃねぇか! 俺のかすり傷なんざ、なめてる場合かよ!」
「かすり傷ではない。しっかり骨まで達していたぞ、このうつけ者めが」
不平たらしく言いながら、トラメが口をとがらせる。
「我の傷を癒すには、美味いものを喰らうのが一番だ。少しでも我に不名誉を負わせた責を感じる心があるなら、とっとと我の腹を満たせ」
「わかったよ。警察をけむに巻くまで、ほんのちょっとだけ待っててくれ」
素直に応じながら、俺はふらつく足で立ち上がった。
「ラケルタもな。今から八雲たちと一緒に屋敷を出るけど、こっちから合図を送るまでは、何とかこらえてくれ。警察にお前らが見つかっちまうと、本当に厄介なんだ」
「そんなこと知ってるヨ。ウチは毎日、ミワにこの現し世のルールを教わってるんだからッ! ナマケモノのアンタたちと一緒にしないでよネッ!」
憎まれ口を叩きながら、ラケルタの顔には晴れやかな微笑が戻りつつある。
その笑顔が再び凍りつくのに、そんなに時間はかからなかった。
トラメたちに別れを告げ、ボロボロの身体をひきずって屋敷に戻った俺は、そこで、おのれのうかつさを心底呪う羽目になってしまったのだ。
屋敷の内部には、すでに数人の警察官がいた。浦島氏はトイレに拘束されたまま、おぼつかない口調で事情聴取に応じており、二階で意識を失っていたらしい宇都見は、寝起きの顔で警察官に取り囲まれていた。
そして。
八雲の姿は、どこにもなかった。
八雲の縛られていた椅子は、部屋の真ん中でゴロリと倒され、鋭利な刃物で切られたらしいロープが、蛇の死骸みたいに床を這っていた。
八雲は、再びさらわれてしまったのだ。
どうしてあの修道服の女が、戦いの結末も見届けずに姿を消してしまったのか、その理由を俺たちはもっと気にかけるべきだったのだ。
第一ラウンドは、完全に俺たちの敗北であるようだった。