アルミラージとエルバハ②
「おっと……なかなか鬱陶しいヤツだねェ」
意想外に高い場所から、突然ラケルタの声が振ってきた。
見れば、黒衣のゴスロリ少女は、背の高い樹木の枝にぶら下がって、敵の姿をいまいましげに見下ろしている。
「ミワさえそばにいれば、アンタなんか一瞬で石にしちまえるのにサッ! だけど、そんなウスノロな攻撃、一生かかったってウチには当たらないヨッ!」
ラケルタもラケルタで、八雲がいないのだから、契約者の力を使うことができない。
その足もとにたたずむ巨人の腕の幻獣も、うすぼんやりとホタルのように光っているだけだから、それほど大した力は得ていないようだが……しかし、「適当に痛めつけろ」というさきほどのサイという男の言葉が、俺にはずいぶんとひっかかっていた。
俺がもっと強い望み……たとえば、ギルタブルルのときのように「敵を討ち倒せ」という言葉を唱えれば、簡単に勝てる気がする。トラメにはさっき却下されたが、「適当に痛めつけろ」という望みが果たされないかぎり、あちらは新しい契約を行使することなどできないのだろうから。
しかし、そうした形で敵の幻獣を撃退してしまうと、望みを果たせなかった魔術師たちの魂は木っ端微塵に砕け散ってしまうのだろう……かつてのギルタブルルの主人と同様に。
ついでに言うなら、俺の寿命もまた激しく消耗されることになる。
だから俺には、うかつに望みの言葉を唱えることができない。
問題なのは、そういった俺の逡巡を、見透かされているような気がしてならない、ということだ。
こんな俺みたいな餓鬼に、そうそう自分の寿命を犠牲にしたり、他者の生命を危うくさせるような真似ができるはずもない。こいつらは、それが確信できているからこそ、そんな簡単に適当な望みの言葉を口にすることができたのではないだろうか。
あるいは、見込みが外れて、死ぬような羽目になっても、それはそれでしかたがない……そんな風な、平和ボケした俺たちにはおよびもつかぬような覚悟が、最初からそなわっているのかもしれない。
何にせよ、はっきりしていることが、ひとつだけある。
それは、こいつらが、幻獣を使役して戦う、という行為に熟練している、ということだ。
「しかたないネ……面倒くさいから、適当に終わらせちゃおうカ」
樹木の枝にぶら下がったまま、ラケルタが青い目を別の方向に転じた。
暗灰色のマントをまとったエルバハという幻獣から、その主人である修道服の女へと。
まずい。ラケルタが人間を手にかける姿などは見たくもない。どんなゲス野郎でも、人間は人間だ。ラケルタが人殺しなどという罪を背負ってしまったら、俺はこの先、こいつとどんな顔をしてつきあっていけばいいのかもわからなくなってしまう……
そんなことを考えて、俺が足を踏みだしかけたとき。
エルバハが、巨大な五本の指を開いて、草むらにそっとおしあてた。
『母なる大地、大いなるノーミーデスよ。汝の従順なる児に、その偉大なる力をお貸したもう』
予想以上に幼い子どものような声が、深々とかぶったフードの陰からもれる。
その瞬間。
いきなり、地面が、鳴動した。
直下型の大地震が、何の前触れもなく、一瞬だけ訪れた。……とでもいうかのような、あまりに突然の出来事だった。
「うわぁッ!」
俺は、あっけなく転倒し。
ラケルタは、樹木から転落し。
トラメでさえ、バランスを崩し、片膝をついた。
そして。
ラケルタは、落下の最中、横合いから奮われた巨人の拳を、まともに喰らい。さらにそのまま、浦島邸の白い壁へと激突することになった。
退魔の結界とやらの張られた、石塀に、だ。
その石塀に触れた瞬間、ラケルタのドレス姿が、青白い雷光につつまれた。
「ラケルタッ!」
身を起こしながら、俺は叫ぶ。
その声に、トラメのくぐもったうめき声が重なった。
膝をついたトラメの右の脇腹に、奇妙なモノが突き刺さっている。
ドリルのように節くれだった、黒い角、だ。
そして、その黒い角の持ち主は……
やわらかそうな、銀色の毛並み。
涼しげに輝く、淡い水色の瞳。
長い、とても長い、双つの耳。
ウサギだ。
それは、どこからどう見ても、ウサギだった。
ただし、普通のウサギよりも倍ぐらいは大きい。
そして、額から黒い角が生えている。
その悪魔のように禍々しい角が、トラメの脇腹に深々と突きたてられていたのだった。
『アルミラージ……貴様、本気で我を怒らせるつもりか?』
『しかたないでしょう? 僕たちは、契約者の命に従っているだけなんですから』
少年めいた涼やかな声が、屈託のない笑い声を響かせる。
『貴女たちこそ、契約とは無関係に、そんな力を使ってしまって。どういうつもりか知りませんけど、無駄に寿命を縮めることになりますよ?』
ぎゅるん、っと銀色のウサギがその小さな身体を回転させて、トラメの脇腹から角を引きぬく。
赤い鮮血が、闇夜に舞った。
あのときのような玉虫色の光ではない。人間よりもさらに赤い、トラメ自身の血だ。
トラメはもう一度うめき、草むらに左腕をついた。
黒い螺旋状の角を持つ、銀色のウサギ……アルミラージは、その水色の瞳を無邪気そうに瞬かせながら、うめくトラメの姿を見下ろす。
「くそっ……!」
何の考えもないままに、俺はそちらに駆けだそうとした。
その鼻先に、黒い革鞘の先端が音もなく突きつけられる。
いつのまにか接近していたサイという男が、暗い狼のような目で、俺を見ていた。