刺客①
「浦島さん、大丈夫ですか?」
宇都見が駆け寄り、そのぐったりとした長身に取りすがる。
たいして深い傷ではないが、ところどころ衣服が裂けて、血がにじみ、顔面にもミミズ腫れが走っていた。
狭苦しいトイレの壁にもたれかかり、片足を廊下に投げだし、おりたたんだもう片方の足にがっくりと頬を乗せ、完全に意識を失ってしまっている。
その骨ばった手首には手錠がはめられ、さらには、そこからのびた鎖がしっかりとトイレの排水管にくくりつけられているのだ。
その無残な姿を見下ろしながら、俺は暗がりの中で、人知れず拳を握りしめた。
「浦島さん! しっかりしてください、浦島さん!」
宇都見ががくがくと揺さぶると、浦島氏のまぶたが弱々しく開きはじめた。
「う……あれ、キミは……?」
「宇都見です! 大丈夫ですか、浦島さん?」
隠密行動ということも忘れて、宇都見の声は大きくなってしまっている。が、そんなことはどうでもいい。というか、誰かいるなら、とっとと出てこい。俺の腹の中でトグロを巻いていた怒りの激情は、獲物を求めてしゅるしゅると鎌首をもたげはじめていた。
「宇都見くん? ……どうしてキミが、こんなところに……」
「話せば長くなるんですが、ちょっとまた色々ありまして。勝手に入らせていただきました。浦島さん、大丈夫ですか……?」
「いやぁ、あまり大丈夫とは言い難いですねぇ」
浦島氏は、まだ夢うつつの表情で、ぼんやりと俺たちを見返してきた。
幸いケガのほうは軽傷のようだが、顔色が悪く、もともと細い顔がさらにやつれ果ててしまっている。三日前に退院したばかりだというのにこの仕打ちでは、身がもたないだろう。
「いったい何があったんですか? 誰が浦島さんにこんなことを?」
「いやぁ、僕にもさっぱりわけがわからないんです……なんだかおかしな格好をした女の人と、こわい目をした男の人が突然やってきて……なんか、タソガレがどうしたこうしたって……」
そこまで言いかけて、いくぶん垂れ気味のおだやかそうな目が、ハッとしたように見開かれる。
「そうだ! それで、石版を買った人たちの住所を、その人たちに教えることになってしまって……本当に、申し訳ないです。ちょっとは耐えようと思ったんですけど、ムチで、こんなに叩かれてしまったもので……こらえきれずに、また住所録を渡してしまいました……」
「いいんです! 浦島さんだって、こんなひどい目にあってるんですから!」
そうだ。悪いのは、こんなことをしでかした連中のほうだ。
俺は苦い怒りを腹の底に飲み下しつつ、宇都見の隣りにかがみこんだ。
「浦島さん。その連中は、今、この屋敷にはいないんですか?」
「ああ、磯月くん、でしたっけ? ……うん、どうでしょう。何か、出たり入ったりしてる気配はあったみたいですけど、僕もこんなところにつながれっぱなしで、ほとんど意識がなかったから……」
「俺らの知り合い、っていうか、石版を買ったやつの一人が、この屋敷に連れこまれたはずなんですけど、そいつの姿は見てませんか?」
「ええ? いやぁ、気づかなかったですねぇ。ここにつながれてからは誰の姿も見てませんし、あの二人以外の声も聞いていないと思います……いったいあの連中は何者なんでしょう?」
そう言ってから、浦島氏はゆるゆると首を振った。
「そんな詮索をしている場合じゃないですよね。キミたち、今すぐ警察に連絡してくれませんか? 僕の携帯電話は、連中に取り上げられてしまったんです」
「警察、ですか」
いささかならず意表を突かれたが、浦島氏にしてみれば当然の発想だろう。
俺は困惑して宇都見を振り返ったが、わが悪友は何やら決然とした面もちでひとつうなずくと、おもむろに携帯電話を取り出した。
「おい、宇都見」
「うん。今回ばかりは、それが正しいよ。魔術師だか何だか知らないけど、相手は、れっきとした人間なんだ。だったら、法治国家において然るべき対処をしてもらうべきじゃない?」
「いや、でも、そうは言ってもよ……」
「暴行罪に、監禁罪。おまけに誘拐の嫌疑までかかってるんだ。ここまで話が大きくなっちゃったら、警察ぬきで解決するなんて無理だよ。磯月は、そうは思わないかい?」
俺は、口をつぐんで、宇都見のいつになく真剣な顔を見た。
銀ぶちメガネの奥のでっかい目が、真摯な光をたたえて、俺を見つめ返してくる。
「大丈夫。何とか頑張って切りぬけようよ。……浦島さん。ボクたちの知ってることは後で全部お話しますから、あの、この前お願いしたことだけは、どうか守っていただけませんか?」
「この前……ああ、磯月くんと、グーロさんでしたっけ? 二人が僕の家に来たってことは警察にも内緒、って話……?」
「そうです」
「何が何だかわからないけど、そんなことはかまわないですよ。僕は別に、そこまでモラリストなわけでもないし」
俺たちの顔を見比べながら、浦島氏は力なく笑う。
「そこまで必死になるってことは、何かよっぽどの事情があるんでしょうしね。……もしかして、あのグーロっていう女の子は、不法滞在者か何かなんですか?」
「あ、かなり近いです」
「そうか。それは大変ですねぇ。……あ、だけど、まさかあのグーロって子も、僕をこんな目に合わせた連中の仲間、ってわけじゃないですよね?」
「え?」
「あの二人も、外国人だったんです。……いや、ハーフなのかな? 僕に対しては日本語だったけど、二人で話すときは英語だったんですよ。女性のほうは、どう見ても生粋の日本人ではありえない風貌をしていましたし」
外国人、だって? 何だかまた意味不明のファクターが追加されてしまった。
しかしまあ、魔術師なんていうケッタイな存在は、日本人よりも外国人のほうがしっくりくるか。
「それじゃあ、警察に連絡します。磯月も、いいね?」
「……ああ」
確かにこれは、立派な犯罪だ。前回の事件は人間以外の存在が犯人だったから、警察に助けを乞う気持ちになど、これっぽっちもなれなかったが。今回の犯人は、人間なのだろう、おそらく。
しかし……お前はちゃんと、トラメやラケルタのことも考慮した上で、警察を呼ぼうとしてるんだろうな?
もし、あいつらのことなんてどうでもいい、なんていう考えでいるようだったら、お前は十年来の悪友を失うことになるんだ。そこのところは、しっかり把握しておけよ、宇都見。
「もしもし。黒塚さんですか? あ、はい、宇都見です。この前はお世話になりました……」
宇都見の声を聞くともなしに聞きながら、俺はあらためて浦島氏の様子をうかがう。
右の頬に赤く浮かびあがったミミズ腫れが痛々しい。相変わらずとぼけた表情をしているが、実は、相当に参っているのだろう。いったいこの人はいつからこんなところに拘束されていたのだろうか。
「……昨日の夜中にね、いきなり叩き起こされたんです。それで手錠をはめられて、携帯電話を取りあげられて、『お前は何者だ?』って……それはこっちの台詞だよ、って思いましたけど。むこうも、何ていうか、ものすごく緊迫した雰囲気でした。お前はタソガレのナントカじゃないのか?って問いつめられて、ムチで叩かれて……ようやく疑いが晴れたかと思ったら、今度はあの石版を売った相手の居所を教えろ、ってまた叩かれて……いやぁ、こんな恐ろしい目にあったのは初めてです。この前は、何が何だかわからないうちに意識を失っちゃいましたけど、今回ばかりは本当に……参りました」
「本当に、災難でしたね」
浦島氏は首を振りながら、また弱々しく笑う。
「住所録を渡しちゃったのは申し訳ないですけれど、よけいなことは何ひとつ喋っていません。キミたちのこととか、石版を買い戻そうとしていることとか、そんなことは黙っていればわからないでしょうから、言わずに済ますことができました。……でも、やっぱり僕が住所録を渡しちゃったせいで、他の人にまで迷惑がかかっちゃったんですねぇ」
「大丈夫ですよ。八雲のやつは、絶対に助けてみせます」
ラケルタに懇願されるまでもない。こんなふざけた真似をしでかす連中にさらわれた八雲は、いったいどうなってしまったのか。
もし、八雲までもが浦島氏と同様の有り様に成り果ててしまっていたら……くそ、想像しただけでハラワタが煮えくりかえりそうだ。
本当に、最低最悪の夜だった。