災厄、再び⑤
「……遅いヨ、トラメ」
ラケルタの不満げな声を聞きながら、俺は草むらにへたりこんだ。
宇都見のやつは、手近な木にもたれて脱力している。
こいつはちょっとした超常体験だったな、宇都見よ、嬉しいか?……とでも聞いてやりたかったが、もちろんこちらにもそんな余裕はない。
いくら八雲を救うためとはいえ、最初からコレでは先が思いやられる。
「確かにこれは、いっぱしの結界だな。これでは我らには足を踏み入れることもできぬ」
「でしょォ? きちんと修行をつんだ魔術師のワザだヨ、コレは。……だから、ミナトたちの協力が必要なのッ!」
幻獣ふたりが、闇の中でぼそぼそとささやきあっている。
浦島邸の裏の雑木林……ギルタブルルの気配を追って屋敷を飛びだした俺とトラメが、ラケルタや八雲と遭遇した思い出の地だ。
ただし、雑木林のまっただなかには街灯などあるはずもなく、月明かりだけでは、周囲の様子などほとんどうかがえない。
「ミナト。その壁に触れることはできるか?」
「ああ?」
荒い息をつきながら、俺はトラメを振り返る。
俺たちの目の前には、二メートルはあろうかという浦島邸の白い石塀が立ちはだかっているのだ。
俺は地面にへたりこんだまま、腕をのばして、トラメの質問に行動で応じてみせた。
ひやりとした石の感触が、初夏の夜には心地良い。
「何も異常は感じぬか?」
「べつだん、感じないな」
「ふむ。ならばやはり、これは人間ならざる存在のみを排除する術か。まったく、こざかしい真似をするものだ」
「ミナト、お願い! ミワを捜して、ココまで連れてきてッ!」
ラケルタがにじり寄ってきて、俺のシャツのすそをつかんだ。
俺はちょっと呼吸を整えてから、立ち上がり、塀のへりにしがみついて、中の様子を慎重にうかがってみた。
だだっ広い庭のむこうに、大きな屋敷の影が見える。
部屋の灯りは、ひとつも点いていないようだ。
「本当に八雲はここにいるのか? 屋敷は、真っ暗だぜ?」
「ミワがココから出たなら、ウチにはわかるヨ。どんなに離れていたって、ウチらは魂の根っこでつながってるんだから!」
そうか。ならば、暗闇の中に八雲を置き去りにして、魔術師とやらは外出している……と期待したいところだが、罠だと用心しておいたほうがいいんだろうな。
まったくもって、心あたたまる展開だ。
「ひとつだけ確認させてくれ。八雲を発見する前にその魔術師とやらと出くわしちまったら、俺たちはどうしたらいい?」
「逃げろ、すみやかに」
トラメがあっさりと言い、ラケルタもうなずく。
「それで、ココまでおびき寄せてくれたら、ウチとトラメがやっつけるヨ! だから絶対、捕まったりしないでネ?」
「そういうことか。わかったよ。たぶんそっちのセンが濃厚だろうから、迎撃準備を整えて待っててくれ」
俺と宇都見が颯爽と八雲を救出し凱旋する図などは想像し難いが、得体の知れない魔術師とやらに追い回されて、生命からがらココまで逃げてくる、という図ならば、何とか思い描くことができる。
それぐらいのミッションはこなしてみせよう、何としてでも。
「よし、それじゃあ行こうか! 磯月は、スタンガンと催涙スプレーのどっちがいい?」
ちゃちな十字架のネックレスをつけなおしながら問うてくる宇都見の馬鹿に、俺は首を振ってみせる。
「そんなもんをぶっつけ本番で使いこなせるほど、俺は器用じゃねェんだよ。……おい、言っておくけど、逃げ遅れたりしても助けねェからな?」
「もちろん! そのときは八雲さんと一緒に助けを待つよ」
緊張感のない顔で笑っている。根性があるんだかないんだかわからないやつだ。
「……ミナト。この結界の内部であったら、仮にその魔術師が幻獣使いでも、幻獣を使役することはできん」
と、トラメが横合いから声をかけてくる。
「しかし、それ以外の魔術ならば、有効だ。これだけの結界をつくれる者なら、中級以上の術者に相違はない。くれぐれも、侮るなよ?」
「ああ。魔術師なんていうわけのわからんやつを相手に、油断なんてしたくてもできねェよ。……助言、ありがとな」
いがみあいの休戦条約のつもりでそうつけくわえたのだが、もちろんトラメは不愉快そうに眉をひそめるばかりだった。
「何度も言うが、契約者を害されるのは、我らにとって恥であり不名誉なのだ。……しかしまあ、我の目の届かぬところで貴様がどのような目に合おうとも、そんなものは我の知ったことではない。せいぜい自分自身のために気をつけることだ」
「了解。肝に銘じるよ」
苦笑はしたが、そんなに腹は立たなかった。
正直言って、「こんな他人事に首をつっこむな」と、トラメにはもっと頑強に反対されると思っていたので。俺を止めるどころか、トラメ自身も力を貸すことに比較的あっさりと応じたことに、俺は驚き、感心もしていたのだ。
それじゃあこのトラメのやつにも、いちおうそれなりに仲間意識みたいなもんが存在するのかと、少し不思議な気分になる。
悪いけど、契約者である俺以外の相手になどは一ビットの興味もないのだろうと思ってしまっていたのだ、俺は。
「……それじゃあ、また後でな」
祈るような目つきでいるラケルタと、口をへの字にしているトラメにうなずきかけてから、俺は石塀の上によじのぼった。
俺ほど身長に恵まれていない宇都見に手を貸してやり、いよいよその結界とやらの内部に侵入を果たす。
足もとは芝生。あまり手入れがゆきとどいているとは言い難い、緑の深い庭園だ。初夏の虫どもがジイジイと鳴いている。
さすがに身を隠すものもない庭園を中央突破する気にはなれなかったので、石塀にそって、屋敷を目指すことにした。
豪壮なる浦島邸には石塀ぞいに松の木が立ち並んでいるので、これなら屋敷の内部に誰がいても、そうそう俺たちの侵入に気づくことはないだろう。
「ねえ。トラメさんたちはまったく眼中にないんだろうけど……浦島さんは、どうしたんだろうね?」
月明かりだけを頼りに足を急がせながら、宇都見がそっと呼びかけてくる。
もちろんそんなのは、ラケルタに話を聞いた瞬間から、俺だってずっと頭にひっかかっていたことだ。
「ハンバーガー屋で注文の品を待ってる間に浦島さんの携帯に電話してみたんだけど、電源が入ってないみたいだった。浦島さんは、無事なのかなぁ」
「どうなんだろうな。まったく、わけがわからねェよ。……まさか、今度こそ、あの人が事件の首謀者だった、なんていうオチじゃねェだろうなぁ?」
「そうじゃないと祈りたいね。ボク、わりかしあの人が好きなんだぁ」
「ふん。変人同士、気が合いそうだもんな」
そんな憎まれ口を叩いている間に、屋敷のすぐそばまで到着してしまった。
とても、静かだ。人の気配などは、まったく感じられない。
(だけど、少なくとも、八雲だけはいるはずなんだよな……)
八雲美羽。地味で、無口で、人見知りの激しい、同い年の女子高生。
外見上は無個性きわまりないのに、その実は、ゴスロリ趣味にして電脳少女、おまけに宇都見に優るとも劣らないオカルト馬鹿、だ。
実際のところ、そこまで長い時間をともにした相手でもない。知り合ったのは一ヶ月前だし、顔を合わせたのも、せいぜい四、五回だ。二週間前にちょろっと再会してからは、電話もメールもしていない。
それでも、俺にとっては、幻獣の召喚に成功してしまった、などという馬鹿げた身の上を唯一共有できる相手であり。そして、ともに死線をくぐりぬけてきた仲間、でもある。
どうにも今回は事件の概要が不明瞭すぎて、いまひとつ危機感も高まってこないのだが……それでも、俺の腹の奥底には、苦い怒りの火種がふつふつと渦を巻きはじめていた。
万が一にも、八雲の身に何かあったら……魔術師だろうが何だろうが、誓ってこの手でぶん殴ってやる。
「磯月……」
玄関前の常夜灯を避けるようにして壁にへばりついていた宇都見が、小声で俺を呼んできた。
玄関の扉が、二センチほど空いている。
八雲をさらった何者かが外出中だろうが在宅中だろうが、玄関に鍵もかけない、などということがありうるだろうか? これは、いよいよ罠くさい。
「上等だ。こっちは別に、見つかってもいいんだからな。ていうか、こんな馬鹿でかい屋敷で八雲を見つけだすより、待ち伏せしてる連中が俺たちを見つけるほうが絶対に早いだろ」
「そう考えたら、あまり屋敷の奥深くに入りこむ前に発見されたほうが、逃げるのも楽だね?」
「ああ。不自然じゃないていどに、堂々と侵入してみるか」
言いながら、俺はそっと扉のほうまで近づいてみた。
豪邸に相応しい、両開きのでかい扉だ。俺がそのドアノブに手をかけると、宇都見はいくぶんあわてたそぶりで、デニムのポケットからスタンガンを取り出した。
ゆっくりと、扉を引いてみる。
誰も跳びだしてきたりは、しない。
俺は反対側に回りこみ、もう片方の扉も全開にしてやった。だけど、やっぱり無反応だ。
(……本当に留守、って可能性もありうるのか?)
物陰に誰も潜んでいないことを確認しながら、しかたなしに、俺は玄関の内部へと足を踏み入れる。
一ヶ月前にも訪れた邸宅だ。が、こう暗くってはその記憶も役には立たない。
窓から差しこむ青白い月明かりにぼんやりと照らしだされるその空間は、幽霊屋敷のようにひっそりと静まりかえり、生ある者の侵入を頑なに拒んでいるように感じられてならなかった。
「磯月、あれ……」
と、俺に続いて玄関の内部に侵入してきた宇都見が、俺の袖を引いてくる。
見ると、暗い回廊の突き当りに、白い光が小さく瞬いていた。
明かりの灯った部屋のドアが少しだけ開いて、そこから光がもれているのだ。
俺は、ごくりと生唾を飲みこんだ。
「鬼が出るか、蛇が出るか、だな……」
絶対に敵に見つかってはいけない、何としてでも八雲を連れ帰れ……というミッションだったら、おそらく神経がもたなかっただろう。こんな陰気なかくれんぼはとっとと終わりにして、鬼ごっこに興じたほうがまだ気が楽だ。
不意打ちにだけは十分に用心しつつ、俺たちは、その光のもとへと足早にむかうことにした。
「うわ……」
悲鳴をあげかけた宇都見が、あわてて自分の口をふさぐ。
その原因は、明白だった。
光のもれる、木製のドア。そこから、人間の足が一本、にゅっと突きでていたのだ。
八雲ではない。男の足だ。
茶色いスラックスをはいて、廊下に無造作に投げだされた、裸足の足。
宇都見の声にも、反応はしない。
俺たちは、闇の中で顔を見合わせた。
「……開けるぞ」
宇都見に小声で囁いてから、俺はドアに手をかける。
そうして、ゆっくりドアを引き開けると……宇都見の顔が、驚きに凍りついた。
「浦島さん!」
それは、俺たちにとっては一ヶ月ぶりに見る、浦島琢磨氏の姿だった。
この人は、前世のおこないがよっぽど悪かったのだろうか。
前回は、ギルタブルルに毒針を打たれて、大量の血を吐き、顔面を紫色にして苦しみもがいていた。
今回は……
今回は、両手を手錠でつながれて、全身に無数の傷を負いながら、自分の屋敷のトイレで死人のようにうずくまってしまっていた。