災厄、再び①
「大体な、あいつには自分が居候だっていう自覚がこれっぽっちもありゃしねェんだよっ!」
季節は初夏。七月のど真ん中。宇都見の買い物につきあわされた、その帰り道。いくぶん冷房のききすぎた鈍行列車に揺られながら、俺はついつい大きな声をあげてしまった。
座席に座り、本日の戦利品を大事そうに抱えこみつつ、宇都見はうんうんと愛想よくうなずいている。
吊り革につかまったおっさんにじろりとにらまれてしまったので、俺はあわてて声をひそめつつも、さらに言いつのった。
「別に、どっちが上でどっちが下ってわけじゃあない。特別へりくだれ、なんて言ってるわけじゃねェんだよ。ただ、あの家の主人は俺だし、食費を出してるのも、メシを作ってやってるのも、俺だ。だったら、ちっとはこの俺に敬意やら何やらを払ったってバチは当たらねェだろう?」
「うんうん。そうだねぇ。もっともだ」
「おまけに昨日までは、テスト期間だったんだ。その忙しいさなかにだって、俺は三食きちんとあいつの胃袋の面倒を見てやってたんだぞ? レトルトやカップラーメンなんぞは口にあわないみたいだから、そうそう手をぬくこともできずに、さ。それが、たった一回、米を炊く手間をはぶいてパスタを出しただけで、あいつは何て言ったと思う?」
「さあ。何て言ったんだろう」
「……『これは何の嫌がらせだ?』だとよ! こっちはそれでも気を使って、あいつの好物のツナとクリームソースのパスタにしてやったのに、だ。あいつはいったい、何様なんだよ?」
「……幻獣様、としか言い様がないなぁ」
銀ぶちメガネの奥で目を細めながら、宇都見のやつは、ふにゃりと笑う。
一時は生死すら危ぶまれるような状態に陥っていたというのに、お元気そうで何よりだ。
オカルト関連の奇覯本をあさるために、わざわざ電車で一時間もかけて神田の古書店街まで足をのばすというオカルト馬鹿っぷりも相変わらずだが。本日の俺には、そんな尾籠なことに突っ込みをいれているゆとりもない。
俺は、腹を立てていたのだ。宇都見にではなく、今も我が家でゴロゴロ転がっているであろう、人間ならざる同居人に対して。
「で、そんな文句を言いながら、パスタを二キロも食いやがるんだから始末に負えねェ。このくそ暑い中、二回も三回もお湯をわかすことになるこっちの身にもなってみやがれってんだ。大体、アレでもいちおう女なんだから、ちっとは自分で料理しようっていう気にはなれねェもんかな」
「それはちょっと想像つかないなぁ。幻獣の世界にガスコンロや電子ジャーがあるとも思えないし。……だけどまあ、アレだよね……」
そう言いかけて、ぴたりと口をつぐむ。
何だ?と思ったが、宇都見のやつはごまかすようにふにゃふにゃ笑いつつ、それきり口を開こうとしない。
「何だよ。意見があるなら、遠慮なく言ってみやがれ」
「いや。言ったら殴られそうだから、やめておくよ」
「殴るか、馬鹿。俺はあの乱暴者とは違うんだからな」
と、自分の言葉でまた憤懣の要因を思い出してしまい、俺は憮然と腕を組む。
「そうそう、あいつはだんだん乱暴者の本性を現してきてな。気に食わないことがあると、人の頭をひっぱたいてくるわ、頭突きをかましてくるわで、もう手に負えねェんだ。こっちが手を出すと三倍になって返ってきやがるしな」
「へーえ。それはおっかないねぇ。まあ、幻獣に手を出せる磯月も相当なものだと思うけど」
「ふん。正当防衛だよ、正当防衛。……で? お前はナニを言いかけてたんだ?」
「いや、だから、言わないってば。磯月、絶対怒るもん」
「怒らねェよ。今の俺には、他のやつにまで腹を立ててる余力なんざありゃしねェんだから」
そう言って俺が溜息をついてみせると、宇都見は同情にたえない、といった目つきで顔を寄せてきた。
「ホントにけっこう参ってるみたいだね。だけど、まあ、僕から見ると……本当に怒らない?」
「怒らねェって」
「それじゃあ言うけど。ケンカするほど仲がいい、っていう典型的なパターンだなって……痛い!」
俺の裏拳を眉間に喰らって、宇都見のやつが悲鳴をあげる。
さっきのおっさんがぎょっとしたように身を引いたが、かまうものか。俺はさらに宇都見のうすっぺらいほっぺたをしこたまつねりあげてやることにした。
せっかく退院したばかりだというのに、あんまり殴ってケガでもさせたら、オフクロさんが心配するだろうからな。
「痛い痛い、痛いってば! 怒らないって言ったじゃないか!」
「これが怒らずにいられるか、馬鹿。誰と誰の仲がいいんだって?」
「だって、どの話を聞いても新婚夫婦の痴話ゲンカみたいだし……あいたたた!」
俺とあいつの関係は、そんな微笑ましいもんじゃありゃしないんだ、本当に。自分でもウンザリするぐらい、最近はいがみあいのネタがつきないのだから。
「……で、けっきょく磯月は、それで気分転換に、ボクの買い物につきあってやろうって気になったってわけだ?」
およそ三十秒後。赤くなった右頬を痛そうになでさすりながら、宇都見はしょげた子犬のような目つきでそう言った。
「朝、いきなり電話なんてかけてくるから、びっくりしたよ。休みの日に、磯月のほうから声をかけてくるなんて、数年ぶりのことじゃない?」
「……別にふだんは、お前なんぞに用はないからな」
「ひどいなぁ。小三以来の竹馬の友なのに」
なぁにがチクバだ。俺は肩をすくめただけで、答える手間ははぶいてやった。
しかし、確かに、自分から宇都見に誘いをかけるなんて、俺もそうとう煮詰まっていたに違いない。もちろんウサ晴らしにつきあってくれそうな友人なら他にも何人かはいるが、現在の俺の心情をぶちまけられるのは、宇都見と八雲ぐらいしかいないのだから、しかたがない。
そういえば、八雲のやつは元気にやっているのだろうか。
「……八雲さん? たまにメールでやりとりしてるけど、まあ相変わらずみたいだね。あっちはラケルタさんと再会できてホクホクなんじゃない?」
それはそうだろう。あちらさんはこちらと違って、ちょっと常軌を逸してるぐらい仲睦まじい関係なんだからな。
八雲やラケルタとは、二週間ばかり前に顔を合わせたきりだ。
再会の記念というか何というか、「幻獣ってのは何度でも喚びだせるらしいぜ」と情報提供した俺への御礼と称して、わざわざ家にまで挨拶しにきてくれたのである。
本当に幸福そうだったな、あいつらは。
それにしても……俺とトラメの奇妙な同居生活も、そろそろ二週間が経過する、ということか。
その前には一週間の空白期間があり、さらにその前の五日間はドタバタの大騒動だったから、すべてが始まったあの夜から、早くも一ヶ月近い歳月が流れているのだ。
まったくもって、やれやれとしか言い様がない。
「……そういえばさ、浦島さんも、三日ぐらい前にやっと退院できたんだよ」
と、少しあらたまった口調で、宇都見のやつがそう告げてきた。
「テスト期間だったから、ボクもまだあんまり話を進める時間が取れなかったんだけど。実は明日、浦島さんの家に行く約束をしてるんだ」
「……って、それは、あの石版の話かよ?」
「もちろん。浦島さんにすべての事情を打ち明けて、石版の回収に取りかかろうと思うんだけど……磯月は、どう思う?」
「どう思う、って言われてもなぁ……」
すべての出来事の元凶である、謎の石版。
ナントカっていうふざけた名前の魔術結社が、十九世紀の大昔に作りあげた、幻獣召喚のアイテムだ。
浦島氏は、何も知らずに、その物騒なシロモノをネット・オークションに出品してしまった。
死んだ父親の遺品だとかで、浦島氏もその出所は知らないらしいが、そいつは正真正銘のホンモノで、俺たちは、幻獣を召喚することに成功してしまったのだ……まったく馬鹿げた話だけれど、それが真実なのだから、しかたがない。
落札された石版は、七枚。そのうちの三枚が、すでに魔術道具としての役目を終え、この世から消滅し果てている。
残りの四枚がまた厄介な事件を生み出す前に回収するべきだと、宇都見はつねづね主張していたのだが……とんだ薮ヘビになったりする危険性はないのだろうか?
「例の青森と京都の人たちは、石版を返品することを前向きに検討してくれてるみたいなんだ。やっぱり自分たちも酷い目にあったから、その原因が石版にあるのかもって聞いて、かなり怖がってるみたい」
「……そりゃあ、あと一歩で死ぬところだったんだからな」
それは宇都見や浦島氏も同様だ。
「この力は自分だけのものだ」という妄念に取り憑かれた大馬鹿野郎の手によって、宇都見たちは死ぬような目にあった。
確かに、あんな馬鹿げた騒動に巻き込まれるのは、もう二度とごめんこうむりたいが。しかし、そんな騒動のタネをまた一箇所に集結させようという、それはそれで危険なことではないのだろうか。
「……ん。だけど、その青森とかの連中は、ギルタブルルに襲われてるんだろ? そのときに石版は盗まれたり壊されたりしなかったのか?」
「うん。ボクもそう思ったんだけどね、二人ともちゃんと手もとに保管してるらしいよ。あまりに強力な魔術道具だと、幻獣には触れることもできないんだってラケルタさんが言ってた……って、八雲さんが言ってた」
「ふーん……」
放っておけない、とは思う。
だけど、俺はやっぱり気が進まなかった。
この前は、何とか窮地を脱することができた。しかし、その代償として、おそらく俺と八雲は数年ぶんの寿命を消費してしまい、おまけに、人間をひとり廃人同然の目に追いこむことになってしまったのだ。
幻獣と契約した人間は、みずからの寿命と引き換えに、望みをかなえてもらうことができる。
しかし、その望みが身にあまるものだったり、あるいは途中で他者に打ち砕かれてしまったりすると、魂を失ってしまうらしい。
自分たちの身を守るために、俺と八雲は、ギルタブルルの主人の望みを打ち砕いた。顔も知らないその大馬鹿野郎は、生ける屍と成り果てて、今もなお病院に収容されている。魂を失ってしまったというのだから、そいつはもう一生目を覚ますことはないのだろう……自業自得とはいえ、後味が悪くないはずはなかった。
あんな目に合うのはもうこりごりだ、と言ったところで、誰に俺たちを責められるだろうか?
それに……八雲やラケルタたちをまた危険な目に合わせたくはない、という思いもある。
「……トラメさんも、でしょ?」
うっすらと笑いながら、宇都見のやつはそう言った。
トラメ。
我が家の居候にして、大喰らいの幻獣たるグーロのトラメ、だ。
俺はまた今朝がたまでの鬱憤を思い出して、頭をバリバリとかきむしる。
「あいつは殺したって死ぬようなタマじゃねェけどな。どうせ俺たちに協力しようなんて気もないんだろうし」
「だけど、前回の事件が何とか解決できたのも、トラメさんたちのおかげじゃん」
それはもちろん、その通りだ。
むっつりと黙りこんだ俺の顔を見やりながら、宇都見は小さく笑い声をたてる。
「正直に言いなよ。自分たちの勝手な都合で、またトラメさんを危険な目に合わせたくないんでしょ? なんだかんだ言って、トラメさんのことを一番に考えてるんだから。まったく、素直じゃないよねぇ」
「宇都見、手前……」
今度はどんな折檻を与えてやろうかと考えあぐねているところで、電車は目的の駅に到着してしまった。
俺の腕をするりとかいくぐって、宇都見が座席から立ち上がる。
「すっかり遅くなっちゃったねぇ。トラメさん、お腹を空かせてるんじゃない? 今日のディナーはどうするの?」
遅いといっても、まだ七時すぎだ。宇都見とともにホームの人混みをかきわけながら、俺は憮然と首を振ってみせる。
「あんなやつ、勝手に餓死でもしてりゃあいいんだ。いっそラーメンでも食って帰るか?」
「うわぁ、こわいこと言わないでよ! おなかペコペコのトラメさんが待つ家に、そんないい匂いを漂わせて帰ったら、それこそ頭から食べられちゃうんじゃない?」
それはないにしても、流血沙汰ぐらいにはなるかもしれない。改札を出て、なつかしの地元に降り立ちながら、俺は深々と溜息をついた。
「スーパー、行くんでしょ? 買い物につきあってくれた御礼に、今度はボクがつきあうよ」
笑いながら宇都見が言った、その瞬間。
何か黒くてふわふわとしたモノが、いきなりどしんと俺の腹のあたりにぶつかってきた。
「やっと会えた! ミナトのバカッ! いったいどこをほっつき歩いてたんだヨッ!」
あたりをはばからぬキンキン声が響きわたる。
駅の目の前の、往来のど真ん中だ。俺と宇都見は驚きのあまり声も出ず、周囲を行き交う人々は何事かと目を丸くしながら、俺たちのかたわらを通りすぎていく。
小さくて白い子どもの指先が、俺の着たシャツをひきちぎらんばかりに握りしめて、ゆさぶった。
「大変なんダ! 力を貸してッ! ミワが……ミワが、さらわれちゃったんだヨォ!」
今にも泣きだしそうな、フランス人形みたいに可愛らしい顔。
それはもちろん、二週間ぶりに見る、コカトリスのラケルタの白い顔だった。