逢魔刻の死闘④
「やめろ! ……もうやめてくれ!」
俺はたまらず、トラメの巨体を飛びこえて、怪物の前に踊りでた。
「お前の目的は、俺と八雲なんだろ? もう十分だ! トラメやラケルタは、もう勘弁してやってくれ!」
八雲がこの光景を見ていたら、きっと同じことを言ったに違いない。だから、俺は迷わずそう叫ぶことができた。
赤い髪を蛇のようにうねらせながら、ギルタブルルは嘲弄の声をあげる。
『今さら貴様らをひねり潰すだけで腹がおさまるか! この二匹にも望み通り百年の苦悶を授けてやる!』
「……ああ、そうかよ!」
どうせ素直に言うことを聞いてもらえるとは、思っていなかった。
だから、俺は、そいつの薄気味悪いサソリじみた下半身をおもいきり蹴りつけてやった。
ぶあついゴムの塊でも蹴っ飛ばしたような、鈍い感触が返ってくる。
『……何をしている、卑小な人間めが?』
「見りゃあわかるだろ! こっちも腹がおさまらないから、八つ当たりさせてもらってるんだ!」
これで怒りの矛先が俺にむけられれば、トラメたちは助かるかもしれない。
俺が先に死んでしまえば、トラメは、強制的に元いた世界へと帰還させられるのだろうから。
『愚かだな……それなら、その手足をもいで、静かにさせてやろう』
むしろ楽しげな声で言いながら、ギルタブルルはラケルタの身体を放り捨てる。
『そうして、この二匹がなぶり殺されるさまを見ながら、ゆっくり死んでいくがいい……愚かな貴様らには相応しい最期だ』
『愚か愚かとやかましいやつだな……』
と、ふいに足もとから低い声音が響きわたる。
それとほぼ同時に、トラメが信じ難いスピードではね起きて、ギルタブルルの醜い巨体を正面から抱きすくめた。
『確かに我の契約者は救い難い愚か者だが。貴様の契約者に比べれば数段、ましだ』
『貴様! 私の毒針が効いておらんのか?』
驚愕に満ちた、ギルタブルルの声。
『効いておるよ。五体が砕け散りそうなほどの激痛だ。もはや貴様の動きを止めるぐらいの力しか残ってはおらん』
以前のトラメを思わせる、憮然とした声。
『だから、後はまかせたぞ、ラケルタ』
『おぅッ!』
威勢のいい声で応じるとともに、ぐったりと横たわっていたはずのラケルタが、跳躍し、ギルタブルルの咽喉笛に喰らいつく。
白い光が、噴水のように噴きあがった。
『……せっかくだから、最期にウチの能力を見せてやるヨッ!』
ギルタブルルの咽喉もとに牙をたてたまま、ラケルタは愉快そうな声をあげる。
『貴様、何を……』
うめき声をあげながら、ギルタブルルが毒針の尾を振り上げる。
その動きが、何かをいぶかしむように、ぴたりと静止した。
赤い隻眼を燃やしながら、その顔も、怒りと苦悶の形相で凍りついてしまっている。
生白い皮膚が、じわじわとぬめり気を失っていき、くすんだ灰色へと変色していく。
さらにはその全身に、奇妙な皮膚病のようにこまかい亀裂が、ものすごい勢いで駆けめぐりはじめた。
『くそっ! まさか私が、コカトリスなぞに……』
呪詛の言葉を吐きかけつつ、その唇も途中で硬化してしまう。
そうしてその全身を覆っていた白い光も完全に消え失せてしまうと、ようやくラケルタはギルタブルルの咽喉もとから牙を引きぬいて、ひらりと地面に舞い降りた。
『どうだい? コレがコカトリスの石化術さッ!』
誇らしげに言い放つラケルタの姿を見下ろしながら、トラメは、何やら憮然とした様子でギルタブルルの身体から両腕を離した。
左腕と尻尾の毒針を振り上げて、怒り狂った形相を浮かべたまま、ギルタブルルの肉体はまさしく彫像と化してしまったかのように、ぴくりとも動かない。
ただ、その左の目だけが、焼け残りの炭火みたいにうっすらと赤い火をくすぶらせていた。
『……あのまま首を噛みちぎってしまえば済むものを。どうして貴様は余計な手間暇をかけるのだ、ラケルタ?』
『いいじゃんッ! コイツにもちっとはコカトリスの怖さを植えつけとかないとサッ! そうすりゃ百年後にまたどこかで出くわしても、そうそうでかい顔はできないでショ?』
いたずらっぽく言い返しながら、ラケルタは、ふらつく足取りで八雲のもとへと歩み寄っていった。
鶏冠と羽毛と鱗をもつ、不思議な合成動物のような鼻面を近づけて、細長い舌をのばし、眠れる主人の頬をちろりとなめる。
『さ。ウチはそろそろ限界だ。一緒に隠り世に帰って、傷を癒そうよ、トラメ』
『まったく……』
トラメは最後に、灰色の彫像と化してしまったギルタブルルの姿を見下ろしてから、大儀そうに右腕を振り降ろした。
その無造作な一撃で、ギルタブルルの頭部は木っ端微塵に砕け散り。
白い光が、爆発した。
そうして、光が消失すると、そこにはもう怪物のいた痕跡すら残されてはいなかった。
『……やれやれ』
トラメの巨体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
その巨体からも、白い輝きが急速に失われつつあった。
『望みは果たしたぞ、我が愚かなる契約者、ミナトよ』
「トラメ……」
ぐったりと横たわったトラメのかたわらにしゃがみこみ、俺は、その奇怪な顔貌を見つめやった。
金褐色の長い毛に覆われた、耳と目の大きい、猫によく似た不思議な顔。
その黄金色の大きな目が、いくぶん眠たげに細められながら、静かに俺を見つめ返してくる。
『……やはりそう簡単に退けられる相手ではなかった。五年や十年ばかり寿命が縮んだとて、文句を言うなよ、ミナト』
「言うかよ、馬鹿野郎……おい、もう隠り世に帰っちまうのか?」
『無論だ。望みは果たされた。……もう腹が減って指一本、動かせん』
『隠り世でぞんぶんに喰らえばいいだろ、大喰らい! ウチは先に帰ってるから、しっかり別れを惜しんできなッ!』
振り返ると、八雲のかたわらに立ちつくしたラケルタの身体が、白い光の粒子となって、さらさらと崩れ落ちていくところだった。
片方しかない藍色の瞳が、揶揄するように俺たちを見つめている。
『バイバイ、トラメ。バイバイ、ミナト』
「ラケルタ……」
『ご苦労だったな、コカトリス』
『何だい、さっきみたいにラケルタって呼べよ、トラメッ!』
『はて。まったく記憶にないが』
『ったく、最後まで強情張りの大喰らいだネッ! ……バイバイ、ミワ』
最後に、藍色の瞳が、八雲のおだやかな寝顔を見つめる。
そうして、羽毛と翼を持つ不思議な幻獣は、この世界からいなくなった。
それと同時に、何か黒くて小さな物体が、八雲の頭のすぐわきに、ぽとりと落ちる。ラケルタの依り代となっていたトカゲだろうか。
『そろそろギルタブルルの毒に犯された人間たちも目を覚ましている頃だろう。貴様の望む平和な日常とやらが帰ってくるな、ミナト』
さして感慨もなさそうにトラメがつぶやく。
だけど、その目はひどく眠たげだ。
「……その平和な日常を、お前と一緒に過ごしてみたかったよ」
言いながら、俺はトラメの巨大な耳と耳の間に、そっと右手の平を置いた。
存外にやわらかい金褐色の毛が、心地良く指にからんでくる。
『最後までおかしなやつだ。少しは我の隠り身に怖れをなしたらどうだ? 面白味のない……』
お前こそ、最後の最後まで憎まれ口かよ、と内心でつぶやきながら、俺はその頭をくしゃくしゃに撫でてやった。
トラメの巨体も、急速に、輪郭を失いつつある。
「色々面倒をかけちまったな、トラメ」
『まったくだ。これほどまでにいいようにあつかわれたのは、我にしても初めてのことかもしれん』
黄金色の瞳が、最後に皮肉ぽい光をたたえて、俺を見る。
『おかげで退屈しなかったぞ。……またな、ミナト』
「あ……」
ふわりと、指先からトラメの存在がすりぬけていく。
そうして後に残されたのは、あちこちに擦り傷を負った小さな茶トラの子猫だけだった。