幻獣召喚②
「こんなとこかな……よし、次のステップだ!」
宇都見がそう宣言したのは、それからおよそ十五分後のことだった。
予定通り、直径一メートルほどの丸いかたちに、地面を露出させることができた。芝生に巨大な円形脱毛症が発症してしまったようで、見るだに痛々しい。
だいたい、芝生の下から現れたのは湿り気をおびた黒土なのだから、これでは『黄色き大地』じゃなく『黒き大地』だ。
「だから、『見立て』なんだってば。土の地面なら、それでいいの。……さあ、ここからが本番だよ!」
宇都見は土だらけの軍手を放り捨てると、ナップザックのチャックを全開にした。妙に厳粛な面もちで両手をさしこみ、そこから、奇妙なシロモノをひっぱりだす。
それは……タテヨコがそれぞれ三十センチ、厚みが一センチほどもある、黒くてつやのない正方形の石版だった。
「それがゲンジューショーカンのアイテムかよ? ネットオークションで、いくらで落札したって?」
「野暮だなぁ。値段なんて聞かないでよ! ……ま、こいつを手に入れるために、今月のこづかいもお年玉の残りも、完全に使い果たしちゃったね」
月のこづかいで和歌山までの一泊旅行の旅費ふたりぶんをポンと支払えるようなすねかじりなのだから、そのお年玉などといったら、きっと空前絶後の額に違いない。
すでに今年も半分がた終わりかけているが、ま、一万や二万という額じゃないんだろう。涙が出るほど、もったいない。
「ここに召喚の秘法が、あまさず記されているんだ。なおかつ、この石版自体も秘法を完成させるための最重要アイテムってわけさ」
「へーえ。こんな板っきれがねぇ」
もちろん俺は一ナノグラムの感銘を受けることもなく、宇都見のかかげもった石版に懐中電灯の光をさしむけた。
石版……石、なのか?
こんなに真っ黒でつやのない石は、見たことがない。
かといって金属にも見えないし、プラスチックにしてはずいぶん重そうだ。
その傷ひとつない真っ平らな板の上に、ミミズがのたくったような文字がびっしりと刻みこまれている。
これがアラビア文字というやつか。ひとつの文字の大きさは五ミリ四方ぐらいで、こんなもんの翻訳を依頼されたら、俺なら五分で首をくくる。
それにしても――なんだか、不吉なシロモノだった。
まさか本物なわけはないが。ただ平たい石版に文字が彫りこまれているだけなのに、妙に威圧感がある。
材質がハッキリしないのも落ち着かないし、古びているのか真新しいものなのかも判然としない。
もっと仰々しい装飾でもほどこされていれば「インチキくせぇ」と言い捨てることもできたのだが。こんなにシンプルな造作をしていたら、この不吉な印象が何に由来するのかも説明がつかなかった。
懐中電灯の光をおもいきりぶちあてているのに、その表面はチカリとも反射していない。まるで、光を吸い取ってしまっているかのようだ。
何だろう。
何だか、ひどく嫌な予感がした。
「さて。それじゃあ始めるよ?」
そんな俺の心情も知らぬげに、宇都見は真面目くさった顔つきで、丸くむしった地面の中心にそのあやしげな石版を置いた。
それからおもむろに方位磁石で方角をあらため、ガラクタどもを配置しはじめる。
「えーと、北に『黒き首飾り』、東に『青き短剣』、と……ああ、磯月、これでロウソクに火をつけてくれる?」
手渡されたマッチを数秒見つめてから、よし、と俺も腹をくくる。
どのみち、宇都見の気が済むまでは帰れないのだ。
だったら、こんな茶番はさっさと終わらせてしまおう。
長い一週間の始まりの夜に、いつまでも遊んではいられない。
宇都見は四つのガラクタをそれぞれ円の外周にそって配置すると、さらにそれを取り囲む格好で、四本のロウソクを地面に突き刺した。
北に黒数珠のネックレス、東に青いペーパーナイフ、南に赤いオモチャのバット、西に白い陶磁器の花瓶。
そして最後、中央の石版の上に、子猫の入ったダンボール箱を置く。
「磯月、懐中電灯を消して」
言う通りにすると、あたりには闇がたちこめた。
青い月に、オレンジ色の四つの炎。だだっ広い公園の空き地の真ん中で、俺たちの周囲だけが、ぼんやりと明るい。
茶トラの子猫がミイミイと不安そうに鳴き、俺もだんだん息が詰まってきてしまった。
「よし……」
緊張気味の声でつぶやき、宇都見がミネラル・ウォーターのペットボトルを取り上げた。
その中身で黒い地面に奇妙な紋様を描き、子猫にも数滴、そいつをふりかける。
子猫は、「みぎゃあ」と不平がましく鳴いた。
「魔方陣は完成した。……いよいよ召喚の呪文を唱えるよ?」
やるならやれ。俺は無言のまま、宇都見をうながす。
宇都見はナップザックから一冊の大学ノートを取り出すと、その一ページに視線を落としながら、おもむろにつぶやきはじめた。
「むるじし えくどさ すみるぉふにぁふぶ え むるらぐに むるらてす……」
聞いたことのない、言葉だった。
これもアラビア語なのだろうか?
背筋に、なまぬるい汗がしたたり落ちていく。
「なぐし むぅどんなみのい むぬぐま びぃて……」
子猫の鳴き声が、ぴたりとやんだ。
そうして、宇都見までもが口をつぐんでしまうと――そこには、完全なる静寂が落ちた。
そよ風のひとつも吹いていない。まるで、時間が止まってしまったかのような、怖ろしいほどの静寂――月の光は凝り固まり、ロウソクの炎までもがゆらぐのをやめた。
あまりの静けさに、耳が痛い。
全身に、鳥肌がたっていく。
何だ?
何も起きないじゃないか?
何も起きていないのに……
どうして俺は、こんなに息が苦しいんだ?
「あれ……?」
ついにその圧倒的なまでの静寂に耐えかねたように、宇都見が口を開きかける。
その瞬間――
世界が、揺れた。
「うわぁ?」
開いたノートを握りしめたまま、宇都見が後方にひっくりかえる。
地震か?
いや、違う。地面は、一ミリも動いていない。
ただ、空気が震えているのだ。
大気に満ちた酸素か二酸化炭素あたりが突然ストライキでもおこしたかのように、空気自体が振動しはじめた。そんな異様な感覚だった。
全身が、びりびりと痛い。
まるで空気の振動に呼応するかの如く、全身の細胞がこまかく震えだしたかのようだ。
身体の表面だけではない。肉も、骨も、内蔵も、脳味噌も、すべてが凄まじい振動をおびて、何もかもがバラバラになってしまいそうだった。
「い……いそつきっ!」
女のような、宇都見の悲鳴。
俺は苦悶のうめき声を必死に噛み殺しながら、他人のもののように感覚の鈍ってきた両足に力をこめた。
地面に倒れた宇都見にむかって、空気の壁をかきわけるようにして、一歩ずつ、ゆっくりと近づいていく。
もしもうっかり転倒でもしてしまえば、そのままぐしゃりと全身の細胞がはじけとんでしまいそうだった。
「うつ……み……だいじょうぶ、か……?」
視界はかすみ、口もうまく動かない。
宇都見は地べたに尻餅をついたまま、オレンジ色の炎のほうに目をむけているようだった。
「いそつき……あれ……」
ようやく宇都見のもとまでたどりついた俺は、そのまま崩れ落ちそうになるのを何とかこらえながら、片膝をつき、視線をめぐらせる。
ロウソクの炎が、嘘みたいに火柱をあげていた。
その四本の火柱の中央に、何か巨大な影が見える。
黒くて、巨大な、化け物の影……人喰い熊のように巨大で、ものすごいエネルギーに満ちた、真っ黒の影法師。その巨大な影が、太い両腕を苦しげに振り回している。
「じゅもんがふかんぜんで、くるしんでるんだ……」
うまく舌の回っていない、宇都見の声。
「いそつき……じゅもんを、となえて……さいごまで……」
「むりだ……おまえが、やれよ……」
俺の舌も、ろくに動かない。
このままでは、本当に五体が木っ端微塵になってしまいそうだった。
「みえないんだよ……めがね、なくした……」
俺はのろのろと振り返り、そして見た。
俺のほうに突きだされたB五サイズの大学ノートと、メガネを消失した宇都見の女の子みたいな顔を。
「ばかやろう……」
どこまで俺に世話をやかせたら気が済むんだ?
俺は震える指先でノートをひっつかみ、かすむ目で、そこに書かれていた平仮名の文字を読んだ。
「むるじし えくどさ すみるぉふにぁふぶ え むるらぐに むるらてす……」
もしかしたらこの振動は、化け物のあげる苦悶の咆哮なのかもしれない。
このままでは、たぶんあの化け物も俺たちも、死んでしまう。
「なぐし むぅどんなみのい むぬぐま びぃて……」
そして最後に、少し離れた場所に、三つの文字が記されていた。
「……ぐうろ!」
俺が言いきった、その瞬間――鋭い音色をたてて何かが砕け散り――
そして世界は、再び暗黒と静寂に包まれた。